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(7)「箱館夜話草」の記載  その3

2015-04-01 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

◎「箱館夜話草」概説(安政4[1856]) 淡齋如水著(本名蛯子吉蔵、通称亀屋吉郎右衛門)(『函館市史』史料編第一巻p449)

此処はむかし河野加賀守政通の館の旧跡にして箱館と云ふはこれによるよしいい云ふ。永正8(1511)年4月18日、東蝦夷地の夷人等ことごとく蜂起して、ウスが嶽の館をはじめとして志苔の館、与倉前の館に至るまで、みな蝦夷人のために襲われてせめ落さる。これによって与倉前の館主中野三郎兵衛、河野加賀守の息男弥次郎右衛門季通小林良景の息弥太郎良定、同次郎左衛門政景の息小次郎季景等皆戦ひつかれて自害す。按に、此館の名は四角なる縄張りにして、箱の如くなれば名づけし処なるべし。

一説に此河野の館の地形をならせし時に、小豆の乾いたるようなものの堅実にして鉄槌をもて砕くといへどもさらに飛て打砕きがたき物の入し箱の多く出たりしかば箱館ともいふともいえりとぞ。

 

(8)『北海道蝦夷語地名解』の記載

◎『北海道蝦夷語地名解』概説 (1891年3月発行)  永田方正著

箱館区 「福山秘府」に臼岸は函館の古名なりとあり、即ち「ウショロケシ」(Ushiorokeshi)にして湾内の端と云ふ義(又湾内の西とも訳すべし)函館の原名「ハクチャシ」(Hokchashi)浅砦即ち小館の義なり、一説に寳徳(元年は1449年)中河野某、館を此処に築く、其形箱の如し、故に箱館と云ふ、明治2(1869)年箱館を函館と改む、5年函館を3区に画し、9年大小区を画し、12年7月函館区を置く。忍路[オショロ(Oshioro-Osh-ioro)ハ湾の義なれども]…概ね西海岸「アイヌ」は湾を「オショロ」と云い東海岸「アイヌ」は湾を「ウショロ」と云うが如し、

 

(9)『函館区史』の記載

◎「函館区史」 (明治44(1891)年7月発行) 河野常吉著

函館の古名は蝦夷語にてウスケシと称す。旧記には宇須岸、又は臼岸等の字を用ふ。ウスケシハウショロケシの転訛したるものにして、港内の端といふ義なり。ウショロのウスに転訛せるは、胆振国の有珠なる地名がウショロより出たる例によりて之を知るを得べし、アイヌ地名考【英国人バチュラー著述】にはウシュンケシにして湾の低き端を意味すると記せるが、亦右の解釈と略ぼ相似たり。河野政通此地に館を築くに及び其形箱に似たるを以て遂に箱館と称す。明治2年箱館の字を改めて函館となす。(明治維新前にも函を用ふるものあるも極めて稀なり。

 

(10)「函館の旧名及び地名の意義」の記載

◎「函館の旧名及び地名の意義」概説(大正15(1926)年7月16日付

「函館市公報」岡田健蔵著[史蹟名勝記念物調査嘱託員])

函館は旧名を「宇須岸」と云ふ、蝦夷語「ウショロケシ」の転訛なり、正平11(1356)年の諏訪大明神絵詞に(宇曾利黒子洲)の誤写にて「箱館」の古名「ウショロケシ」たること疑なかるべし、「萬堂宇萬伊犬」は松前なるべく、其「ウショロケシ」は永田方正の「蝦夷語地名解」に「湾内の西」又「湾内の端」と記し之と類似せる胆振有珠郡の旧名「ウショロ」「湾内」と訳せり、ジョンバチュラの「アイヌ地名考」は同所の旧名「ウショロコタン」を「湾内の村」と解せり、之等に依って考ふるに「ウショロケシ」を「湾内の端」と解するは妥当なるべきか、而して其地名は今の弁天方面を指したるものなるべく、当時和人の住居地帯は中心を此附近に置きたるは推測に難からざるなり、

隨て「ウショロケシ」が「宇須岸」と呼ばれて和人に記録せられたるべし。其地名「箱館」を以て称されしは永正9(1512)年「宇須岸」館主河野一族の滅亡せし以後の事なるべく、其起源を河野一族の居館を七重浜より望めば其状箱に似たるが故に箱館と名くとあれど信じ難し、又「蝦夷実地検考録」に河野氏築館の際に土中より鉄器を容れたる箱を発掘せる為め箱館と云ふとあれど之又信を置くにたらず、往時の箱館は蝦夷人の移住地にして現今の水元沢を相生町に下る一線より以南谷地頭方面一帯は其根拠地なるべく、現に青柳町,蜊坂、公園裏等の貝塚及び公園、谷地頭住吉町尻沢辺等に亘る石器時代遺物包含層のあるに依って明らかなり、

然も其中央に当たる蝦夷館は当時蝦夷人が外敵に抗したる所にして蝦夷語の「シャチ」なるは古き図絵に記されたり、即ち此「チャシ」は其構造出城浅砦の類なるが為地方地帯に乏しく、隨て蝦夷語の「ハクチャシ」と称する類なり、此「ハクチャシ」の転訛して「ハコタテ」となれると云ふ説最も信するに足りるべし、「蝦夷語地名解」の著者永田方正は記して函館の原名「ハクチャシ」浅砦小館の義なり、とありて河野氏居館の形状に拠るの説は一説として載せたるに過ぎず、以其起源を知るべきなり、又箱館を函館と改めたるは明治2年の事なり。

付けたり

亀田村⇒箱館村 (大正15[1926]年7月16日付「函館市公報」岡田健蔵著[史蹟名勝記念物調査嘱託員])

亀田川の河口が漸次埋没して碇泊に不便なるに比し、箱館の良港なるは自然係船の移動を来すと共に箱館に定住者を招致せしめたるは又当然の事なるべし、加ふるに元禄15,6両年の亀田村大洪水は一層其勢を助長したるの傾きあり、即ち元禄中に神明社(今の山上大神宮)の箱館に移れるに次ぎ宝永3(1706)年に高龍寺、同5年(1708)年に称名寺、同6【1709】年に淨玄寺と続々移転し来り。

又正徳元(1711)年に箱館八幡宮の創建せらるるあり、殊に享保2(1717)年の松前蝦夷記に拠れば年に依って異なるも箱館入津の船7,800石以下30石以上200艘許りなりとあるが如く箱館は漸次繁華となり、従って15(1730)年には入船の沖改を開始、其後11年にして寛保元(1758)年遂に亀田番所を箱館に移すに至った。

当時の戸口を知るべき確たる文献の徴するべきは甚だ遺憾なるも、唯僅かに宝暦8(1758)年無名氏の津軽鰺ヶ沢の客舎に於て松前蝦夷地の様子を聞くが儘に筆録せる「松前見聞記」に左の如き記事ありて当時を彷髴せしむ

 亀田村 家数23,4軒此所に古の御城跡また御番所あり、城代手付け10人許り、是より南の方 箱館村 家数66軒皆々問屋小宿なり日本船着

 此記録は風聞書としては余りに詳細を極めたるものにて何人かの実際踏査せるものに根拠を置きたるものなるべく、其事実は宝暦より遙かに以前のことたるを想像し得らる、其亀田村に番所の存在を記せるは以て、寛保元(1741)年の亀田番所の箱館移転前たる証すべく、然も箱館村の家数65,6軒皆々問屋小宿なりとある点に拠っても寛延元(1748)年の問屋株6軒小宿7軒に特許を与えて在来の問屋小宿を整理したる以前の事たるは明らかなり、

 随って寛文9(1669)年に200戸を有したる亀田が僅々70年程の間に其十分の一に減少し空屋のみと記されたる箱館が65,6戸を数ふるに至れり、降って天明5(1785)年には亀田は一層減少して20戸以下となり人口140と伝へられ、之に反して箱館一躍450戸2,500余人に増加せりとは幕吏の調査する所にして、以て如何に箱館が急速に発展をなしたるかを想見すべきなり

 

(11)「箱館」から「函館」へ 『函館むかし百話』第一話より

「箱館」が「函館」になったのは何時で、と聞かれることがしばしばあります。これまでに、このころを取り上げた史書は、明治2年の八月説と九月説に分かれています。

 八月説は、「函館沿革史」(明治三十三年刊)や『植民公報』(明治三十四年刊)なっで、八月十五日、蝦夷地を北海道と改称した時、同時に改められたとしています。

九月説は『開拓使事業報告』(明治十八年刊)や『函館区史』(明治四十四年刊)などで、九月三十日、函館に開拓使出張所が開庁する旨の布告が出された時に改められたとしています。

この両説を検討してみると、八月十五日は蝦夷地を北海道と改称する旨の布告(太政官日誌)が出された法令上の日付で、実際にこのことが北海道一円に布告されたのは、九月二十六日です。

また、九月二十五日には、開拓使長官が初めて函館に上陸、二十七日に法令上ではすでに廃止されていた箱館府の役人をすべて罷免し、あらためて開拓使の役人として採用しており、人心の一新に配慮されたと思われるます。

さらに、九月三十日は、函館に開拓使出張所が開庁し、開拓使が北海道での業務開始を宣言した日で、保存されている箱館県(箱館府の誤用)の文書綴りでは「箱館」がほとんどで、開拓使の文書綴りが市立函館図書館に残っております。箱館奉行の時、箱館裁判所の時、箱館府の時の文書が一綴りとなっている書類があり、十月一日からの分がすべて「函館」となっているので、役人の罷免と再任用から考えて、ここで文字を改めたと言える。

しかし、その後も箱館市中はもちろん、政府の公文書さえも、「函」と「箱」は混用されていました。

ところが、北海道立文書館所蔵の開拓使の公文書を調査中に函館の「函」の字は、「函」に統一する旨を明記した史料が見つかったのです。

明治九年五月に、函館裁判所から「函」と「箱」の混用を指摘され、文字確定の必要に迫られた開拓使は、函館支庁の調査と上申を受けて、「函」の文字を正字とする事を決定し、関係各方面へ通達したのです。しかしこの時お調査でもすでに「函館」という文字を使い始めた時期や契機はについては確定できなかったことが記されてありました。(紺野哲也)

「箱館から函館」へ2  (『函館市史』通説編第1巻p267-268より)

明治2年、開拓使出長所の看板を掲げた時、「はこだて」の文字をそれまで主に用いられてきた「箱館」の叔父から「函館」と改めたといわれている。取りあえず函館を拠点に活動を開始した開拓使が、気持ちも新たに北海道開拓に取り組むという意図を込めたものであろうか。

『函館区史』では『開拓使事業報告』(第一篇沿革)に「(明治)二年本使出長所ヲ置キ箱館ヲ函館ト改ム」とあるのを受けて「(9月)三十日開拓使出張所を函館に置く、箱館の字を函館に改めたるは此時なり」と断定した記載がなっている。

 しかし、開拓使の事務章程等の整理がかなり進んだ明治9年4月に、函館支庁から東京出張所へ出された伺書の中に「函館ノ文字本使中発行ノ公文上ニハ函ノ字ノミ相用、既ニ印章等モ函ノ方ニテ彫鐫相成居候処、他官省ヨリノ往復書ハ勿論太政官日誌等印刷ノ書中別帋抄出ノ通、或ハ函ヲ以テシ或ハ箱ヲ用ヒ一定ナラス、右ハ別段何レヲ用ユル旨御達無之共無論函ヲ以正ト致候義ト心得可然哉」(「開公」4858)とあるように、この時期でも混用されており、字を改める旨の布達は確認できなかったようである。もっとも、保存されている箱館県の文書綴りでは「箱館」がほとんどで、開拓使の文書綴りになると「函館」とはっきり色分けできる文書綴りになってはいるが。

 この伺書に対する東京出張所の回答(5月8日付)は「御來意ノ通函ノ字ニ一定致候方可然候」とあり、追認という形ではあるがこのとき初めて「函館」を正字として統一したわけで、函館支庁は5月31日にこのことを札幌本庁に申し入れという形で伝えている。

 なお、『函館沿革史』などは蝦夷地を北海道と改称する太政官布告が出た2年8月15日に箱館を函館と改めたとしているが、先の史料にも述べられている通り、明治9年に至っても「太政官日誌」が[箱]と「函」を混用しているようでは、この説は論外であろう。

 

(12)箱館村・箱館町概説 『日本歴史地名大系』「北海道」

箱館村・箱館町 はこだてむら・はこだてまち 『日本歴史地名大系』

近世から明治2年(1869)までの村(町)。亀田半島の基部から海(津軽海峡)に突き出た函館半島の陸繋部を占め、同半島の南西端の函館山に抱かれる箱館湊を中核として発達した。近世の郷帳類では箱館村として把握されていたが、18世紀半ば頃には湊取囲むように町場が形成され、町役所(のち町会所)が置かれて、町年寄・名主・町代が町役人として町政を取扱った。

町役人は従前は名主が主座であったが、19世紀の初頭には町年寄が名主の上座となった(函館市史)。近世の箱館村は東在の村で、元禄郷帳には箱館村と。みえる。古くは宇須岸(うすけし)といった。「新羅之記録」などによると、享徳3年(1454)夷島に渡った安東政季は、下ノ国の守護の副として河野政通を「箱舘」(宇須岸)の置いたとされる。康正3年(1457)5月コシャマインが蜂起、「箱舘」の河野政通らは討たれ、永正9年(1512)には河野氏の拠る宇須岸は陥落した。宇須岸の地名については「地名考并里程記」の箱館の項に、「夷語ウションケシなり。ウショロケシの略語にて、則、湾の端と訳す。扨、ウショロとは湾又は入江の事。ケシは端と申事ニ、而、此所湾の端なるゆへ地名になすと云ふ」とみえる。箱館の地名について「蝦夷島奇観』に「箱館は往古の事実其詳なる事をしる者なし。

故に姑く土俗の伝説を取りて是を記しぬ。亨禄年間、河野加賀左衛門(中略)なる者ありて、此地に来り、初てウスケシ山址に疂(塁」を築く。(中略)七居浜より是を望むに、其形箱の如し。故に土人是を名つけて箱館といゝし)と記される。「地名考并里程記」は「九郎伴官義経の居城なせし山、箱の形状なる故に和人の号しと云」とし、[箱館夜話草]は箱館奉行役所の「御長家」の項に、「此所はむかし河野加賀守政通の館の旧跡にして、箱舘といふはこれによるよしいゝ伝ふ。(中略)此舘の名は四角なる縄張りにして、箱の如くなれば名づけし処なるべし」とする・なお函館の地名由来は、北海道の史蹟名勝記念物調査員を務めていた岡田健蔵が報告した「ハクチャシが転訛してハコタテとなった」とする説(大正15年7月16日付「函館市公報」)が妥当と考えられる。

シャクシャインの戦いに関連して「津軽一統志」の「松前より下狄地所付」に「一 箱館 澗有 古城有 から家あり 一 弁才天 一 亀田崎」と記される。同書によると亀田には家が二〇〇軒余あり、当地方の中心であった。しかし同地にあった船懸りのよい澗には次第に土砂が堆積し、箱館村の澗に諸国の船が懸るようになったとされる(享保二年「松前蝦夷記」)。

さらに元禄16年(1703)の大雨で亀田は打撃を受け(福山秘府)、おおくの住人が箱館に移ったという(函館市史)。近世箱誰町の有力寺院であった高龍寺・称名寺・実行寺なども1700年代にかけて亀田村から箱館への移転を伝える(「福山秘府」など)。宝永8年(1711)には角屋吉右衛門が箱館六箇所場所の場所請負人になっており、箱館町総鎮守箱館八幡宮の創建は正徳5年(1715)と伝えられる。

享保2年(1717)の「松前蝦夷記」には「亀田箱館」とみえ、「亀田八幡宮旧記」の同9年の記事でも「亀田郷ト唱、箱館市中小安村迄」とあり、この頃まだ亀田のうちとして認識されていた。寛保元年(1741)には亀田番所が箱館に移転(「福山秘府」。「蝦夷島奇観」は延享4年説)。延享5年(1748)箱館の問屋・小宿の営業が許可され、海産物取扱の特権が与えらえた(箱館問屋儀定帳)。

とくに長崎俵物として大きな比重を占めた昆布取扱いによって商業港箱館の地歩が築かれ、函館山東麓の箱館湊を核として町場も形成されていったと考えられる。天明5年(1785)の幕府による初の蝦夷地調査の記録「蝦夷拾遺」では亀田村が30戸・140余人であるのに対して、箱館村450戸弱・2500余人、「諸国の商船湊ひ来て市をなす」とあり、当村は東在最大規模の村となっている。天明8年の巡見使に随行した古川古松軒は、「二十町斗りの所にて、近しといえども、御巡見所にあらざれば至らず。有川の海浜より見るに商船数多入津して、市中は家千余軒、松前より東の方の産物はみなみな此所へ出るゆゑに、諸州商船多く入津して交易する故、売女などもあまたにて大きく繁盛せる所と云へり。

御巡見使を拝見せんとて、亀田の町へも箱館の貴賊数百人出しを見るに、人物もよく、衣服なども上方・中国筋にかはりしことなし。松前の御城下を第一として、西の方に江差浦、東の方にては箱館とて、松前の三ケの津と称す。何れも聞きしとは違いて甚だよき所なり」(東遊雑記)と記している。

寛政3年(1791)の「東蝦夷地道中記】は箱館の町名として地蔵町・うち澗町・大町・弁天町・裏町(野地の大黒町)・中町・山ノ上町・神明町をあげ、「松前隋商録」は右の八町のほかに「五隼町」「棚子町」もあげる。同書は箱館の産物として昆布・鯡・蛤・アサリ・イリコ・諸魚・鯛・ガノジをあげ、昆布は「箱館辺りの浦より出るもの上品なり。松前、江差より出るもの下品なり」、貝類は「箱館近所東浦には多く産す。蛤蜊等は貝あつく大にして風味もよし。松前、江差には産せず」(東遊記)とされた。「蝦夷草紙別禄」には箱館商人の倉部屋太兵衛(ミツイシ・シブチャリ・シツナイの三場所)、村田七五郎(マス場所)浜屋兵右衛門(ウス場所)、笹屋治兵衛(茅部場所)、白鳥屋新十郎(尾札部・尻岸内の二場所)、「ほかに与左衛門(ホロベツ場所)が場所請負人としてみえ、箱館湊の発展により箱館商人の活躍の場が一層拡大していた。

享和元年1801)の文間箱館全図(市立函館図書館蔵)では、海寄り(湊寄り)の通りに南東に沿って北西から南東に弁天町・大町・内澗町・地蔵町が続き、この通りには地蔵町の先で亀田村に通じる亀田通りとなっている。この通りの上手(山側)に「仲町」「明神町」「寺町」「八幡町」「地蔵坂町」などがみえ、これらの通りに直行する通りには「タナゴ町」(明神町・仲町の北西、海沿い)や「神明境内通」がみえ、さらに仲町・神明町・大黒町の上手には「山の上町」や「常磐町」「常磐町新地」「地蔵坂新町」などがあった。享和3年には家数823(うち寄留146)、人数3,415(うち寄留529)。

寛政11年幕府は松前藩から東蝦夷地を仮上知し、(享和2年に永久上知)、新たに五名の蝦夷地取締り御用を命じた。箱館は幕府による蝦夷地経営の基地とされ、亀田番所が蝦夷地取締御用担当者の役所となった。享和2年2月には戸川安論・羽太正養を「蝦夷地之儀」を行う奉行に任じ、同年五月には奉行役所を箱館に建てることを決定。奉行の名も箱館奉行とした。

翌3年春、函館の街を俯瞰できる地(現元町公園)に箱館奉行の役所が竣工、幕府は本格的に蝦夷地経営に乗り出した。この間兵庫津の船頭高田屋嘉兵衛手船辰悦丸(1500石積)で大船によるエトロフ島への航路を開いた(休明光記)。この功績により享和元年2月に蝦夷地御用定雇船頭に任じられ、以後蝦夷地経営に欠くことのできない海運を一手に差配した。嘉兵衛は寛政10年に箱館に拠点を置き、文化9年(1812)に場所請負を始めてからは箱館を本店として、箱館町の発展に大いに貢献した。同年幕府は東蝦夷地全域で直捌を廃止し、各場所は入札による請負制とすることを決定(請負実施は翌10年から)、この時に箱館では和賀屋卯兵衛(ウス場所)、鍋田左兵衛(ヱトモ場所)、坂本屋勘右衛門(ホロベツ場所)、浜田屋亀吉(ニイカップ場所)、若狭屋庄兵衛(ミチイシ場所)、島田屋佐次兵衛(ホロイツミ場所)がそれぞれ入札している(新北海道史)。

文化5年の箱館町の戸数781、,人口3,125、うち男1,533・女1,592(北海道温古雑誌)。文化4年の西蝦夷地上知に伴って奉行所は松前に移転、文政4年(1821)には蝦夷は再び松前藩の手に戻され、箱館の地位は松前に比して相対的に低下した。また嘉兵衛とともに高田屋を盛り立ててきた嘉兵衛の弟金兵衛はロシアとの密貿易の嫌疑を受けて天保4年(1833)2月、闕所処分となり没落、箱館の衰微に拍車がかかった。

嘉永7年(1854)に日米和親条約が調印され、安政2年(1855)薪水・食料の補給港として箱館は開港されることとなった。幕府は箱館開港に備えるため、箱館付近を再度直轄領とし、箱館奉行を再置した。箱館湊の防衛、およびが外交対策として奉行役所の移転が進められ、亀田村に御役所土塁(のちの五稜郭)の築造が開始される。また弁天崎台場の造成も始まれた。これらの築造では町は活況を呈し、安政6年には陸繋形砂洲の中央に北から南へ掘割(願乗寺川とか堀川とかよばれた)が開削された。弁天町から地蔵町にかけての海岸が埋立てられ、市街地は北東部へ広がった。なおこの間の市街地の様子は前渇分間箱館全図のほかに文化年間から明治前期までの市街図を収める函館沿革図、文政(1818-1830)頃の箱館市中細絵図、嘉永5年の箱館市中細絵図(いずれも市立函館図書館蔵)や安政2年の箱館之図(盛岡市中央公民館蔵)、万延元年(1860)の箱館全図(一枚刷)などで知られ、明治6年の函館旧市街図(『北海道史』巻二)なども参考となる。

開港後、箱館には条約終結国から多くの外国人が訪れている。安政4年4月に来館したアメリカのコマーシャルエージェント(貿易事務官)E・Eライスは最初の在留外国人であった。奉行村垣範正は、搾乳のこと、豚肉を食すること、乗馬のこと、身の回りの世話をすろ女性を要求したことなど、ライスの行動を詳細に記録(村垣淡路守公務日記9.翌年にはゴソケヴィッチがロシアの箱館在留領事として来日、このほか元英国軍人で商人として活躍したプラキストン、パリ外国語宣教会士で栗本鯤(匏菴)と語学の交換教授をなしたメルメ、ロシア領事館の聖堂の司祭ニコライなど多才な人物が居留している。慶応3年(1867)10月に家数3,303人別14,660、うち男6,859・女7,801(慶応4年4月「飛かえ」)。戊辰戦争の諸戦で旧幕府の崩壊が決定的になると、最後の箱館奉行杉浦誠は平穏裏に事務を引き継ぐことに腐心、同年閏4月京都からやって来た青年区公卿の箱館府知事清水谷公孝へ蝦夷地の行政事務の引継を行った。

しかし箱館府が具体的に施策に手を付ける前に、箱館戦争が勃発、同年10月、箱館は旧幕府脱走軍に制圧された。榎本釜次郎らは五稜郭を拠点に明治新政府軍と戦争を続けたが、翌年4月、新政府軍は乙部(現乙部町)に上陸して進撃を開始、翌5月、榎本らは降伏した。“はこだてむら・はこだてまち【箱館村・箱館町】北海道:渡島支庁/函館市/旧函館区地区”、日本歴史地名大系、Japanknowledge,http://japanknowledge.com


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1 コメント

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「蛯子」のルーツ (蛯子 信隆)
2017-02-07 15:44:12
貴重な情報を読ませていただいています。
函館生まれの66歳です。

名字の順番は6400番台、全国に1500人くらい蛯子姓の人がいるそうです。

蛯子がどこからきた人なのか知りたくていろいろ調べているうちにここにたどり着きました。

ありがとうございます。

 蛯子信隆
メール;ebigoo@gmail.com
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