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『新羅之記録』の史料的検討 その7

2015-05-01 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

Ⅲ・1・2『新羅之記録」

次に、「新羅之記録」のコシャマインの戦いの記述をみてみる(数字は引用者)(9)。

①    内海之宇須岸被攻破夷賊事者、有志濃里之鍛冶屋村家数百、康正2年春乙孩来而、令打鍛冶於い刀処、乙孩与鍛冶論刀之善悪価而、鍛冶取刀突殺乙孩、依之夷狄悉蜂起而、自康正ニ年夏迪大永五年春、破東西数十日程中住所村々里々、殺者某事、起元於志濃里之鍛冶屋村也、活残人集住皆松前与天河(中略)

②    上之国者預蠣崎武田若狭守信広、福置政季之婿蠣崎修理太夫季繁、令護夷賊襲来処、長禄元年五月十四日夷狄蜂起来而、攻撃志濃里之館主小林太郎左衛門尉良景、箱館之河野加賀守政通、其後攻落中野佐藤三郎左衛門尉季則、脇本南条治郎季継、隠内郡之館主蒋土甲斐守季直、覃部之今泉形部少季友、松前之守護下国山城守定季、相原周防守政胤、祢保田之近藤四朗右衛門尉季常、原口之岡辺六郎左衛門尉季澄、比石之館主畠山之孫厚谷右近将監重政、所々之重鎮、雖然下之国之守護茂別八郎式部太輔家政、上之国之花沢館主蛎崎修理太夫季繁、堅固守城居、

③    其時、上之国之守護信広朝臣為惣大将、射殺狄之酋長胡奢魔犬父子二人、斬殺侑多利数多、依之、凶賊悉敗北、其後式部太輔経中野路来山越於上之国、会若狭守修理太夫有献酬之礼、式部太夫太輔家政者授刀(一文字)於信広被賞勇功、又修理太夫者授喬刀(来国俊)於信広、此時信広朝臣者従若洲差来進(助包)之太刀於式部太輔也、修理太夫無継子、故得政季朝臣之息女為子令嫁信広、居川北天河之洲崎之館仰家督、信広朝臣為実安東太政季朝臣之聟也、[( )内は割注を指す]

(書き下し文)

① 内海の宇須岸夷賊に攻め破られし事、志濃里の鍛冶屋村に家数数百有、康正二年春乙孩来て鍛冶に刀を打たしめし処、乙孩と鍛冶と刀の善悪を論じて鍛冶刀を取り乙孩を突き殺す。

 之に依て夷狄悉く蜂起して、康正二年夏より大永五年春の迪るまで、東西数十里程の中に住する所の村々里々を破り、者某を殺す事、元は志濃里の鍛冶屋村に起こる也。活き残りし人皆松前と天河とに集住す。

② 上之国は蠣崎武田若狭守信広に預け、政季の婿蠣崎修理太夫季繁を副へ置き、夷賊の襲来を護らしめし処、長禄元年五月十四日夷狄発向し来って、志濃里の館主小林太郎左衛門尉良景・箱館の河野加賀守政通を攻め撃つ。其後中野の佐藤三郎左衛門尉季則、脇本の南條治部少季継・隠内郡の館主蒋土甲斐守季直・覃部の今泉形部少季友・松前の守護下国山城守定季・相原周防守政胤・祢保田の近藤四朗右衛門尉季常・原口の岡辺六郎左衛門尉季澄・比石の館主畠山の末孫厚谷右近将監重政所々の重鎮を攻め落す。然りと雖も下之国の守護茂別八郎式部太輔家政・上之国の花沢の館主蛎崎修理太夫季繁、堅固に城を守り居す。

③ 其時上之国の守護信広朝臣惣大将として、狄の酋長湖奢魔犬父子二人を射殺し、侑多利数多を斬り殺す之に依て凶賊悉く敗北す。其後式部太輔中野の路を経て山越に来り、若案守修理太夫に会い、献酬の礼有り。式部太輔家政は刀(一文字)を信宏に授け勇功を賞せらる。また修理太夫は喬刀(来国俊)を信広に授く。此時信広朝臣は若洲より来りし(助包)の太刀を式部太輔に進ずるなり。

修理太夫継子無し。故に政季朝臣の息女を得て子と為し信広に嫁せしめ、河北天河の洲崎の館に家督と仰ぐ。

この記述も、①②③の三つに分割することが出来るが、内容は「松前系図」と若干異なったものになっている。

① は、「宇須岸」(現・函館市)が、「賊」=アイヌ民賊に打ち破られたこととして、その顛末を記している。志濃里(現・函館市)の鍛冶屋村に、康正2年(1456)春に、「乙孩オツガイ」=アイヌの青年に尋ねてきた。「乙孩」は鍛冶屋に「劘刀マキリ」=アイヌが使用するナイフを打たせたところ、「乙孩」お鍛冶屋との間で「刀」の善悪価」を巡って諍いあ起こり、大永5年(1525)まdw「者某シャモ」=アイヌ語で和人を夥しく殺したとある。そして生き残った和人は松前と天河あまのがわ(現・上ノ国町)に集住したとされている。

この「乙孩」が殺された事件が発端となってコシャマインの戦いが勃発したと現在解されているが[新羅之記録」には、康正2年から大永2年までの約70年間のアイヌ蜂起のもととなったと書かれえおり、コシャマインの直接的な原因とは記されていない。①と②の記述の間には、アイヌ蜂起とは関係のない記事が挟まれており、そのことからも、編集者松前景広はアイヌの殺人事件とコシャマインの戦いとを直接的に関連づけているとはいえないであろう。

② は、康正3年5月14日に原因は不明だがアイヌ民族が蜂起した。この時には、雅に武田信広は蝦夷地に渡海していることを前提にした記述になっており、「松前系図」の記述と相異していることがいえる。実は『新羅之記録』だは宝徳3年に信広が渡海したと、この記事よりも前に書かれているのである。

アイヌ民族は、この記述によれば道南十二館の内、十館を攻め落している。そして、残りの二館は、下国家政(茂別館)と蠣崎季繁(花沢館)の二館だけが攻略を免れていたとしている。②には、武田信広やコシャマインの名前は記されていないので、この康正3年の戦いに両者が参戦していたかどうかは史料上判然としないが、おそらくコシャマインは「狄之酋長」であることから、参加していたであろうし、信広も持ちこたえていた二館の花沢館に居住していたはずであり、参戦していたと考えるのが自然であろう。

③ は 「、其時」という文言で始まっている。二回目の蜂起である。道南十二館は殆ど落城し、残る 二館も風前の灯火である、正に「其時」、武田信広が「惣大将」という形で登場してくる。「松前系図」の「武者奉行」より格上げされていることが指摘できよう。そして、「狄勺の酋長胡奢魔犬父子」射殺し「侑多利ウタリ」=アイヌ語で同胞、つまり多くのアイヌ人を斬り殺し、戦いを和人の勝利に結びつけた。そして、下国家政から刀を貰い受けた云々お記述は「松前系図」と大幅な相違点は見当たらない。

① の戦いはコシャマインの戦いの原因ではなく、70年間に渡るアイヌ蜂起の遠因とでもいう事件の記述であって、直接的には関係ないと読める。『新羅之記録』のコシャマインの戦いの記述は②③であるといえる。その特徴をいくつかあげてみる。

まず、史料上初めて「胡奢魔犬」=コシャマインの名が見えることである。二点目に、陥落した館の名が増えていることがあげられる。全体的に記述が詳しくなっている。また、「松前系図」には一回目の蜂起と二回目の蜂起の間に、武田信広渡来の記事があり、信広が一回目の蜂起には参加できなかったなかったと推測できるが、『新羅之記録』には一回目の蜂起である②の戦い以前に上之国守護になっており、当初から参加していたような推測を指せる記述の仕方になっている。そして、二回目の蜂起の際、信広の地位が「武者奉行」から「惣大将」に格上げされている。

 『新羅之記録』のコシャマインの戦いの記述の時系列を再度確認すると、①武田信広は雅に渡来し、上之国守護になっていた。↓②康正3年5月14日にアイヌが蜂起し、道南十二館の内、十館が陥落し、二館のみ持ちこたえていた。↓③武田信広が「惣大将」となって、コシャマイン父子を討ち、アイヌを多数殺し、戦いは和人の勝利に終わった。信広は蝦夷地での一定の地位を築いた。以上のように纏められる。

Ⅲ・2『新羅之記録』の信憑性

Ⅲ・2・1原口館の位置

『新羅之記録』に名が記されている道南十二館と呼ばれる館は、正確には現在のどの位置に比定されるのか、依然として不明な館が多い。近年、歴史考古学の発展により北海道でも発掘が盛んである。

館がかつて有ったと伝承されている土地の考古学的調査も武田信広が構築した勝山館(新たに信広が築いた館であるので道南十二館に含まれていない)をはじめとして活発に行われている。それは、道南十二館へもその調査の手は伸び始めてきている。しかし、現在ではその後の近世期の開発事業や戦後の土地改良事業などで、調査が事実上不可能な遺跡もおおくなっている。

ここで問題にするのは、『新羅之記録』に岡辺季澄の居館として記され、コシャマインの戦いの一回目の蜂起でアイヌにより陥落さえられたとされる原口館についてである(伝原口館比定地は、現在松前町原口)。この館については、春日敏宏氏は、その後の編纂物史料にも原口館も、岡辺氏の名前も全く著されていないことから、早くに絶家したものと推測されている(10)。

しかし原口館と岡辺氏については、幕末から明治初期に著された史料ではあるが、「戸井村岡部館の古蹟と其発掘物の事」(『松風夷談』)というタイトルで、以下のような記述がある(11)。

文政四年、箱館ノ東二トイト云フ処ニテ古銭発掘シ洗イテミガキ候処、文字分リ、大観通宝、開元、永楽、洪武銭ノヨシ、依蝦夷地居住ノモノヨリ公儀ヘ申立ニ付御調子コレアリ候処、凡六十二貫余有之候由、其外水晶、朱砂ノ類百品余モ掘出候ヨシ、右サイト申処ニ石碑有、公辺御役人中ヨリ右石碑石摺ニ申付ラレ、摺候ヘ共、文字聢ト相分リ申サズ、右石摺ノ内ニ岡部六弥太六代孫岡部六左衛門尉季澄ト云名ノ所斗リ顕然ト分リ候由、昔ヨリ此辺ノ沢ニ折節光リ物度々有之、其所ノ人ニテモ浜辺へ行キ見ル事昔ヨリ禁シ候由、右ノ辺ヨリ石櫃六尺四方有此品一個掘出シ候、右ノ内ハ見モウサズ由、内ニハ如何ナルモノ有之候ヤ、外ニ沙汰之ナク、公辺御評議次第被仰出可有之由、松前ヨリ由来、

 右の記述によれば、文政4年(1821)に、下北半島の対岸の戸井(現・北海道戸井町)から、大量の62貫文もの古銭が出土し、付近の「岡部館」と呼ばれるところに「岡部六弥太六代孫岡部六左衛門尉季澄」という石碑があったとしている。出土した古銭は「大観通宝、開元、永楽、洪武銭」とあるので、何れでも日本では鎌倉・室町期に多く流通したもので、コシャマインの戦の時期と一致している。それでは、松前町原口の「原口館」はどのような遺跡だったのか。

1993年(平成5)3月に纏められた『原口館跡擬定地発掘調査報告書』では、10,11世紀の擦文時代の「防御性集落」であるとされている(12)。こんことから、少なくとも松前の原口館はコシャマインの時代の遺跡ではないということは明確である。

 以上のことを纏めると、

①    松前町原口の「原口館」は、岡辺氏とは無関係である。

②    岡辺氏の居館は戸井町の「岡部館」であると思われる。

①    ②からは『新羅之記録」の道南十二館の位置とその館主の記述は、そのまま信頼することは危険であるといえると共に、『松風夷談』のような松前藩関係者以外が編集した資料も無視はできないといえよう。また、戸井の「岡部館」のことは、『新羅之記録』には全く記されていない。『新羅之記録」の道南十二館の記述も、どの様な史料を根拠にして編纂されたのか不明であるが、十二館や勝山館といったもの以外にも館が存在したことが、この事例からは窺える。

 Ⅲ・2・2蝦夷地渡海時期の検討

 「松前系図」と『新羅之記録』では、武田信広の蝦夷地渡海の時期が食い違っていることは前述した。「松前系図」では、文脈上から康正3年の一回目の蜂起の後に記されており、『新羅之記録』では、信広の渡海の時期、並びに経路については次のように書かれている(13)。

信広朝臣者稟性大力強盛而為勇気麁豪之間、信賢朝臣与国信朝臣共家思且国、不得止事合心義

絶而欲令巳曁障害之刻、家老之数輩就哀惜、遁其難、家子佐々木三郎兵衛尉源繁網、郎等工藤九郎左衛門尉祐長、其外侍三人而、信広朝臣二十一歳之穐、宝徳三年三月二十八日密出国於夜中、是併依繁網与祐長之計略也、下関東足利、少時住、享徳元年三月来奥州田名部、知行蠣崎而後、伊駒安東太政季朝臣同心、八月二十八日渡此国、

(書き下し文)

信広朝臣は稟性大力強盛にして勇気麁豪あるお間、信賢朝臣と国信朝臣と共に且つは家を思ひ且つは国を思ひて、止む事を得ず心を合わせて義絶して己に生害に曁ばしめんと欲するの刻、家老の数輩哀惜に就き、其難を遁れ、家の子佐々木三郎兵衛尉源繁網・郎等工藤九郎左衛門祐長、其外侍三人を召具して、信広朝臣二十一歳の秋、東関足利に下り、少時住し、享徳元年三月奥州田名部に来り、蠣崎を知行して後、伊駒安東太政季朝臣と同心し、八月廿八日此国に渡る。

 右の記述によれば、信広は若狭武田氏の家督争いから逃れるために、家子佐々木繁網、郎等工藤祐長と共に、宝徳3年(1451)秋に夜半密かに若狭を脱出したとされる。一行は下野足利に暫し止まったが、享徳元年(1452)3月に奥州田名部に到着、おそらくこの地方の領主安東氏か羅、蠣崎を知行地として与えられた。しかし享徳元年8月28日に、安東氏の内紛により、敗れた安東政季と共に「此国」に渡ったとされる。つまり、信広らの渡海時期は享徳元年8月28日ということになる。しかし、同じ『新羅之記録』でも安東政季の説明の箇所では、次のように記されている(14)。

伊駒政季朝臣者十三港盛季之舎弟安東四朗道貞之息男潮潟四朗重季之婿男也、十三之湊破滅之節若冠而被生慮、糖部之八戸而改名、号安東太政季、知行田名部継家督、而蠣崎武田若狭守信広朝臣、相原周防守政胤、河野加賀右衛門尉越知政通、以計略同(享徳・引用者)三年八月二十八日従大畑出船渡狄之嶋也

(書き下し文)

 伊駒政季朝臣は十三の湊盛季の舎弟安東四朗道貞の息男潮潟四朗重季の嫡男なり。十三之湊破滅の節若冠にて生慮られ、糖部の八戸にて名を改め、安東太と号し、田名部を知行し、家督を継ぐ。而して蠣崎武田若狭守信広朝臣・相原周防守政胤・河野加賀右衛門尉越知政通、計略を以て同三年八月二十八日大畑より出船して狄の嶋に渡るなり。

 右の記述によれば、武田信広は、相原政胤、河野政通らと共に、安東政季の従者として蝦夷地に、享徳3年(1454)8月28日に渡ったとされる。前の記述と異なっており、どちらが正しいかは判然としない。『、新羅之記録』は前後で記述の食い違いが現れている点のみ、ここでは指摘しておく。

 松前藩編纂物史料からはこれ以上のことは指摘できないが、同時期の北東北での動向を加味すると、また新たなことがいえる。康正3年(1457)2月に、下北半島の田名部を知行していた蠣崎蔵人は、順法寺城主新田義純(北辺王きたべおう家)を暗殺したため、北部王家の守護である南部政経は、朝廷の許可を得て蔵人を討ち取ったのである(『八戸家系』・『八戸家伝記』)(15)。

所謂「蠣崎蔵人の乱」と呼ばれる事件で、南部氏は朝廷ならびに、室町幕府の地方機関である奥州深題大崎教兼から恩賞を受け(16)、以後北東北の安東氏の勢力は大きく後退し、代わって南部氏の時代となったのである。小稿は、「蠣崎蔵人の乱」の東北中世史における歴史学的評価を主題とするものではないので、深くは追求しないが、問題は、この反乱を起こしたとされる蔵人のその後である。

 蠣崎蔵人は敗走したが、近世期に編纂された史料では、松前に逃れたと記されている。このことは、『松前町史』通説編第一巻上巻(松前町1984年 265.6頁)にも簡単に触れられているが、史実ではなく「伝承」として紹介されているにすぎない。ここでは史料を引用し詳しくみていきたい。例えば、「後に聞は松前江渡海して後運を待し也」(『三翁昔語』巻之二(17)、「蠣崎氏は長く北蝦夷松前に移る」(『新撰陸奥国誌』巻五十四(18)とあり、何れも蔵人が、敗北して松前に逃れたとしている。戦いは康正3年3月に終結したので(『八戸家伝記』)(19)、

康正3年(9月28日以降は長禄元年)中に松前に渡ったと読み取ることが出来る。更に『南部史要』には、「松前に遁れたる蠣崎蔵人は蝦夷の事情を諳んじ能く蝦夷人を偶せるより人望を得てその地に君臨し松前氏の租となる」とあり(20)、『蝦夷国私記』でも、松前氏の祖先は若狭武田の出身ではなく、蠣崎の野武士の出であると記している。以上の諸史料の記述は、ほぼ一致しており、纏めると蠣崎蔵人が戦いに敗れて松前に逃れ、松前氏の祖先になったといえよう。

松前氏の祖先とは武田信広のことを指すと思われる。そして、その時期は康正3年(長禄元年)なのである。

 康正3年は9月28日に「長禄」と改元される。康正3年といえば、蝦夷地ではコシャマインの戦いが勃発した年である。前述したように、『新羅之記録』では享徳元年もしくは同3年とあり、前後で武田信広渡海時期が一致していない。また、東北の編纂物史料とも一致していない。「松前系図」では、康正3年のコシャマインの戦いの一回目の蜂起の後に渡海したと読めると前述した。「松前系図」と東北の編纂物史料との記述は一致している。このことから、従来は根拠薄弱だと思われていた蠣崎蔵人=武田信広説も全くの「伝承」ではないといえよう。したがって、

武田信広の蝦夷地渡海時期は一回目の蜂起後であるという可能性がある。もし、そうだと仮定すれば、「松前系図」にも、『新羅之記録』の記述にも、最初の蜂起の部分には信広の名前はなかった説明がつく。しかし、現時点では推測の域を脱しておらず、この点に関しては、更なる考証が今後も必要である。

Ⅲ・3 小括

今までの検討から、次の点が指摘できよう。

①   コシャマインの戦いは、康正3年(1457)に勃発したと思われ、蜂起は二回に分ける事ができる。

②   康正2年頃の宇須岸近郊の鍛冶屋村で起こった「乙孩」殺人事件は、コシャマインの戦いのみの直接的な原因とは、史料には書かれていない。

③   武田信広の蝦夷地渡海時期は康正3年(長禄元年)コシャマインの戦いの一回目の蜂起の後である可能性がる。

④   原口館の位置比定の検討から明らかなように『新羅之記録』の道南十二館の記述は、そのまま信用することは危険であると思われる。

この五点と、北海道で、歴史教育の教材として著された『北海道の歴史60話』(三省堂1996)の「コシャマインの戦い」の記述とは大いに異なる。

 コシャマインは、「アイヌの自由な生活を守るべく、アイヌ社会の危機感を背景に」に蜂起したとは史料上確認が取れず、「客将武田信広(後の松前氏)は敗走した和人を再編して、苦戦の末ようやくコシャマインを謀略により討つことに成功」との描写も、史料からは見いだせなかった。

蠣崎氏(後の松前氏)が酒宴での席で謀略を用いてアイヌのリーダを殺害するという場面は、蠣崎光廣・良広代、また寛文9年(1669)のシャクシャインの戦いでみられるが、コシャマインの戦いでは、最古の編纂物史料二種(「松前系図」・『新羅之記録」』)からは、そのような記述は見いだせなかった。

 それでは、こういったコシャマインの戦いの通説理解はどのように形成されてきたのか。『新羅之記録』以後に成立した編纂物史料の、コシャマインの戦いに関する記述を、次節でみていきたい。

Ⅳ・「コシャマインの戦い」の形成

Ⅳ・1 コシャマインの戦いの通説的見解

コシャマインの戦いの通説は、前掲した纏めから、

①   和人の進出によりアイヌ民族が圧迫されていた。それが東部の首長コシャマインが蜂起した原因。

②   渡島半島東部箱館地方から勃発した。

③   武田信広は当初から参加し、謀略を用いてコシャマインを討った。

④   信広は、和人の中に自己の地位を確立させた。

 この四点に集約できよう。これらの点が、後代の代表的な松前藩関係者が編纂した史料に見いだせるのか、それを以下検討する。

Ⅳ・2 通説の検討

Ⅳ・2・1

『蝦夷之国松前年々記』寛文年間(一六一一・一六七三)成立か

まず、『福山秘府 年歴部』の元と成ったと思われる『蝦夷之国松前年々記』の記事を見てみたい(22)。

長禄元丁丑

(中略)

五月十四日夷蜂起ス、攻撃志濃利之館主小林太郎左衛門良景、箱館之河野加賀守政通其通後攻滅ス、中野三郎、佐藤三郎左衛門季則、脇本之南條治部少輔季継、隠内之館主蒋士甲斐守季直、覃部之今泉刑部少輔季友、松前之守護下国山城守定季、相原周防守政胤、袮保田之近藤四朗右衛門季常、原口之岡部六郎左衛門季澄、比石之畠山ノ末孫厚谷右近将監重政、所々之重鎮□

 

同ニ年戌寅

去年反逆ノ長胡奢魔 父子二人其外斬殺ス、侑多連数多ヲ因茲山賊悉ク敗北ス

 ほぼ、『新羅之記録』と同様の内容であるが、「長禄元丁丑」の記事は途切れている。

通説の根拠は、

①  は読みとることは難しい。コシャマインの名は見えるが「東部の首長」とは書かれていない。

②  は最初に攻撃を受けたのが「志濃利」、「箱館」とあるので、戦いが東部地方から発生したのが読みとれる。

③  は、信広蝦夷地渡海は、宝徳三年と以前の記事で確認できるので、最初から参加していた可能性はある。

Ⅳ・2・2

松前広長『福山秘府年歴部』安永九年(一七八〇)序

次に、松前藩の家老職を務め、また歴史家でもある松前広長が、諸史料を集め編纂した『福山秘府』の記述を示す(22)。

長禄丁丑

〇松前年代記曰、夏五月十四日、蝦夷大乱、與ニ志乃利小林太郎左衛門良景、箱館河野加賀守政通等一戦、而後蝦賊亦攻一ニ破中野佐藤三郎左衛門季則、南條治部季継、隠内薦槌甲斐季直、覃部今泉刑部季友、松前下国山城定季、相原周防守政胤、袮保田之近藤四朗右衛門季常、原口岡邊六郎左衛門季澄、比石厚谷右近重政等之諸館主一(割注略)。雖レ然下国守護茂別(割注略)八郎式部(割注略)家政、上国館主蛎崎修理太夫季繁、猶堅守レ館居焉。干レ時 始祖武田信広膺二其択一為二先鋒一、遂討二夷賊酋長父子弐人及賊徒数輩一平治焉。於レ是諸館主各頻賞二始祖之戦功一、令三始祖推以為二季繁之嗣子一。季繁家政各解二佩刀一以貽二始祖一。季繁所レ貽太刀来国俊、家政所レ貽刀菊一文字。始祖亦與二刀干家政一。銘助包。干レ時会二親族一而略行二建国之大礼一云。是時始祖築一塁干上国河北天河洲崎一居焉、(中略)

二戌寅

松前年代記曰、是歳誅二夷酋長父子一。

按、是誅二伐賊残党一也。

①、②は『蝦夷之国松前年々記』と同じである。

も宝徳3年渡海と以前の記述に、信広は蠣崎季繁、下国家政から太刀を貰い請けたとある。しかし、『福山秘府』は更に、「建国之大礼」を執り行ったとあるので、信広の和人勢力内での地位が上昇したことがわかり、「始祖築塁干上国河北天河洲崎居焉」とあるので、信広が蠣崎の「客将」からはっきりと独立したことがわかる。

Ⅳ・2・3

新田千里『松前家記』明治十年(一八七七)成立

西後に、松前藩士族の新田千里が明治初期に著した、松前氏の歴史書『松前家記』をみてみる。

本書は始祖武田信広から、十八代当主松前徳広まで扱っており、最も完備した編纂物史料といわれ、明治以来の北方史研究に屡々引用されている史料である(24)。

長禄元年丁丑信広花沢城二在り

五月十五日東部ノ酋長胡奢麻尹父子大挙入寇、勢益猖獗ス、此時渡島南界ノ諸豪族志濃里ノ城主小林良景太郎左衛門尉ト称ス、宇須岸ノ城主河野政通加賀守ト称ス、中野ノ城主佐藤季則三郎左衛門尉ト称ス、脇本ノ城主南條季継治部少輔ト称ス、隠内ノ城主菰士季直甲斐守ト称ス、覃部ノ城主今泉季友刑部少輔トショウス、大館ノ城主下国季〔定季力〕直山城守ト称ス、相原政胤、袮保田ノ城主近藤季常四朗左衛門ト称ス、原口ノ城主岡部季澄六郎左衛門ト称ス、厚谷重政等防戦力竭キ咸城ヲ棄テ亡ク、茂別家政式部太輔ト称ス下国ノ城ヲ守リ、信広花沢ノ城ヲ守リ勢尚未タ屈セス、是二於テ諸豪会議信広ヲ推シテ主帥トス、信広之チ残兵ヲ糾シテ東発ス、六月廿七日大二七重浜二戦フ、衆寡敵セス、我軍幾ント敗レントス、信広佯走朽木中二匿ル、胡奢麻尹父子追躡ス、信広居箭一発父子ヲ洞シ、直チニ木中ヨリ跳出、大刀ヲ揮ツテ稗酋数人ヲ斬ル、倭兵奮撃大二之二克ツ、余衆潰散、諸部震摺ス、茂別家政花沢ニ来リ、季繁ト会シ各宝刀ヲ信広ニ贈ツテ其以テ戦捷ヲ賀ス季繁又伊駒政季ノ女ヲ養フテ信広二配ス、七月朔諸豪勧進、信広始メテ国ヲ建ツ、是ヨリ諸豪皆信広ニ臣事ス、八月新城ヲ天王河北ニ築キ勝山館ト名ケ信広徒ル

二年戌寅正月二日満月出ス、四月佐々木繁綱、工藤祐長ヲ東部ニ遣ハシテ胡奢麻尹ノ余党ヲ勦ス

①   については、コシャマインの蜂起の原因は記されていないが、「東部ノ酋長」とあることから、通説の根拠が確認できる。

②  「宇須岸」(現・函館)などが陥落させられている点から、当初は函館地方を中心とした蜂起と分かる。

③   信広渡海は、宝徳3年の頃に書かれているので、コシャマイン蜂起時には既に蝦夷地に渡っていた。信広は、当初からこの戦いに参加し、二回目の蜂起は「主帥」として軍を率いている。また、「謀略」に関しても、信広は、コシャマイン父子を「「朽木中二匿ル、胡奢麻尹父子追躡ス、信広居箭一発父子ヲ洞シ、直チニ木中ヨリ跳出、大刀ヲ揮ツテ稗酋数人ヲ斬ル」とあり、待ち伏せをしていて襲ったことが書かれているので、これが「謀略」にあたるのではないだろうか。

④   信広は戦いの終結後、「信広始メテ国ヲ建ツ、是ヨリ諸豪皆信広ニ臣事ス」とあることから信広は和人勢力の中で、権力を掌握したと読み取れる。従って通説の根拠もこの記事に見いだすことができる。

通説の四点が、『松前家記』の記述に殆ど確認できる。従って、コシャマインの戦いの通説は最も新しい編纂物史料『松前家記』に依拠していたといえる。

Ⅴ・おわりに

コシャマインの戦いには、史料上確認できる最初のアイヌ民族と和人との戦いである。この戦いに勝利した武田信広は、近世の極北大名松前氏の租となるのである。

 しかしコシャマインの戦いの『新羅之記録』の記述はそれが史実かどうか疑わしいことが小稿の検討で明らかになったと思われる。『新羅之記録』には、武田信広の渡海時期を宝徳三年に設定し、信広を戦いの当初から参加していたように書き換えられている可能性があることを指摘した。また、原口館の位置比定から、「道南十二館」と呼ばれる館の記述も信憑性が薄いことが指摘できた。

 更にコシャマインの戦いの通説は、その多くを明治十年に成立した『松前家記』に依っていたことも明らかになった。「松前家記」・『新羅之記録』といった編纂物史料を批判的に検討した結果、以上の点が指摘できた。このことを踏まえていうと、

 コシャマインの戦いの記述は後世に編纂された史料ほど、松前氏祖武田信広の活躍を際だたせようと書かれているのではないだろうか。

 例えば「松前系図」の「武者奉行」が『新羅之記録」では「惣大将」となり、『松前家記』では戦後信広が「建国之大礼」を行い和人の統率者となったとある。

 なぜ、そのような編集者たちは信広を英雄視する必要があったのであろう。それを研究することで、松前氏が自身の「歴史」をどのように自己の権力の正統性を主張することに利用したのか明らかになると思われる。今後はそう言った方面からのアプローチからの検討を行いたい。

〔注〕

(1)①海保嶺夫『近世蝦夷地成立史』三一書房 一九八四年、②春日敏宏「極北大名蠣崎氏の権力構造」(『松前藩と松前』二十三号 一九八五年二   月)などがある。

(2)入間田宣夫/小林真人/斉藤利男・編『北の内海世界』山川出版社 一九九九年など

(3)工藤大輔「15・16世紀の蝦夷蜂起記事について」(『第三回「環オホーツク海文化のつどい」研究報告書』一九九五年)など

(4)澤登寛聰『日本近世史研究の技法』改訂版 澤登寛聰 ブックレッド日本近世史第一集 一九九九年十頁

(5)ここでの記述は、田端宏/桑原真人/船津功/関口明『新版県史―北海道の歴史』(山川出版社 二〇〇〇年)五十八・六十一頁を参考にした。

(6)松前景広「新羅之記録」(北海道・編『新北海道史』第七巻史料―新北海道史印刷出版企業体 一九六九年)十八頁

(7)ここの記述は、木村尚俊/小林真人/田端宏/桑原真人/小野寺正巳/森岡武雄・編『北海道の歴史60話』(三星堂一九九六年)四十八・五十一頁を参考にした。前掲『北海道の歴史』ではコシャマインの戦いの記述がやや簡略的すぎるのと、本書は北海道の中学・高校生向けの北海道地域史の歴史教育の副読本としても使用できるように編集されたとしている(「はじめに」)からであり、学校教育は最もポピュラーな説を教えるのが通常であると思われ、そのような理由で小稿では本書を引用した。

(8)斎木一馬/林亮勝/橋本政宣・校訂『寛永諸家系図伝』第四 続群書類従完成会 一九八一年 一二四頁

(9)前掲松前景広「新羅之記録」十四頁・十八、九頁

(10)春日敏宏「松前藩成立期に関する一考察―家臣団編成を中心にー」(『松前藩と松前』十九号 一九八三年三月三日)

(11)『松風夷談』函館市立図書館郷土資料室蔵

(12)『史跡 原口館 平成四年度原口館跡擬定地発掘調査報告書』北海道松前町教育委員会一九九三年三月

 戸井館に関しては、「戸井館は和人根拠地域にあって、その成立、存続期間は明らかではない」(千代肇「中世の戸井館址調査報告書」百十七頁〈『北海道考古学』第五号 一九六九年〉とされている。詳細は歴史考古学的調査が待たれるが、館が存在し、和人が居住していたことは確かであると思われる。

 なお、小林真人氏も「北海道の戦国時代と中世アイヌ民族の社会と文化」(前掲『北の内海世界』八十四、五頁)で、筆者と同様の指摘をしておられるが、積極的に『新羅之記録』の記述を疑問視してはおられない。

(13)前掲松前景広「新羅之記録」十三頁

(14)前掲松前景広「新羅之記録」十七頁

(15)鷲尾順敬・編『南部家文書』鷲尾順敬 一九三九年

(16)前掲鷲尾順敬・編『南部家文書』には、朝廷からの任官を記す口宣案が多く収録されている。

(17)青森県立図書館/青森県叢書刊行会・編『青森県叢書 第五編 三翁昔語』青森県立図書館/青森県叢書刊行会 一九五三年

(18)青森県文化財保護協会・編『みちのく双書第十七集 新撰陸奥国誌』青森県文化竿保護協会 一九六五年

(19)前掲青森県立図書館/青森県叢書刊行会・編『青森県叢書 第五編 三翁昔語』

(20)菊池悟朗・編『南部史要』菊池悟朗 一九一一年

(21)『蝦夷国私記函館市立図書館郷土資料室蔵

(22)『蝦夷之国松前年々記』函館市立図書館郷土資料室蔵

(23)松前広長「福山秘府」(北海道庁・編『新撰北海道史』第五巻史料― 北海道庁 一九三七年)五・六頁

(24)新田千里「松前家記」(松前町史編集室・編『松前町史』史料編第一巻 第一印刷出版部 一九七四年)六頁

 

6 清和源氏系図 甲斐源氏系図

以下省略

7 源義家、源義綱、源義光略歴

以下省略

      以上第四回レジュメを終了する。

 


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