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第5回 村上島之允のこと -蝦夷地を知り尽くした男- Ⅱ

2016-07-29 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

(6)森銑三執筆「秦檍丸の事蹟」     『伝記』第7巻第1号 p12-19

    檍丸の傳は新舊の人名事典の何れにも出てゐない。その傳としては、岡本柳之助著北海道史稿に出てゐるものであって、これがいつも引合いに出されることになってゐる。但し岡本氏は何に拠ってその傳を立てたのか、その點が更に分からなかったが、先年伊勢の松木時彦翁から、中西弘縄著神部名人略傳といふものの「村上島之丞」の一章をわざわざ手寫して寄せらえたのに據ると、伊勢新聞明治25(1892)年5月8日の發行の号に「蝦夷地探検の祖は我伊勢人なり」として檍丸のことの記されたものがあって、北海道史稿の傳はこれをそのまま挙げてゐるのに過ぎないことが判明した。然し伊勢新聞の記事の執筆者は何人で、その記事はまたいかなる資料に據ったものか、そこまでは調べるに由がないが、更に昨年大連圖書館(1)から刊行せらえた間宮林蔵の東韃紀行を見ると、それには同圖書館蔵の同書に書き添えられてゐる「間宮林蔵、最上徳内、村上島之丞略傳」というものが附載してあって、その島之丞の部分はほぼまた内容が同一であり、文體から察するに、なおこの方が古いらしい。して見るとこれがまた伊勢新聞の記事の原據ではなかったかと思われる。但しこの略傳の記者が何人か、そこまではまだ突止められぬ。

 檍丸は、伊勢神宮社家某の次男だったといふ。然るに帝国圖書館蔵の書畫便覧遺編と題する寫本にには「村上島之丞、志摩出生人、伊勢神主、後浪人、楽翁君愛其才、公義御普請役」と記してあって、これに據れば生国は志摩だったことになり、その島之允と稱したのもまた志摩に因んだのであろうかと考へたくなって来る。然しながら檍丸自身書名の上に、「伊勢國」「勢州」などとしているのを見れば、志摩國出生といふには、なほ俄に肯(うかが)ひかかねるものがある。

 檍丸の通称は「島之允」が正しいのであらう。自らさように書いてゐる例がある。但し或は自ら「島之丞」としてゐるものも、その内見付かるかも知れぬ。

 檍丸はいつ生まれたか。その文化五(1808)年に没した時に四十五歳であったといふ從来の説に從ふならば、明和元(1764)年の出生になる。然し歿した一事は玉林寺の墓石に據って確実にせらるるものの、享年四十五歳といふのには何等確乎たる證左もない。或は今少し年が行ってゐたのではないかとも思ひたくなって来る。

 通説に據れば、天明八(1788)年に老中松平定信が京都よりの歸路伊勢に到って太神宮を拝した時、里正を通じて、檍丸が「弱年」の頃から頗る健歩で、日に三十里を行き、然も十日二十日を重ねて疲労することなく、且つ書を讀み、筆蹟を善くし、繪をも畫き、好んで諸國の地理ヲ調べて評判の高いことを聞いてこれを引見し、ついで歸府の後に幕府に召抱へたいといふ。然らば檍丸の幕府に仕えたのは天明八(1789)年daだったことになるのであるが、赤羽氏はこれを否定せられてゐる。然し億丸が定信にその才を認められてゐたのは動かすべからざる事實であり、その抜擢さられたのには、右にいへるが如き事實が(『日露交渉北海道史稿』であげらた話)存在したのであらう。赤羽氏の論據は、寛政十(1798)年に億丸がなほ浪人ときされてゐるといふのにあるが、幕臣になったのはその後とするも、それ以前は億丸は、處士として公儀からか或は松平家からか、扶持を賜ってゐたのではなかったかと考えられる。

 定信は、里正を通じて億丸の健歩を知った。この健歩の一件は、赤羽氏所引の木村謙次の蝦夷日誌にも、「早足」と見えて居り、「よしの草子」の寛政五(1793)年四月七日の記の中に、「億丸事いろいろ評判いたし、一日に四十五里づつ歩候男也とさた仕候よし」とあり、青生東谿(2)編国郡全圖に沿ううてゐる秦鼎(3)の序文にも、長久保赤水(4)の路程圖よりして億丸の地圖のことに及び、「麻呂健足、日に六七十里を行き、身自ら其の地を経渉して之を窮む。精の又なる者と謂うべし」云々といってある。億丸はよほど当時n人々を驚かしてゐたものらしいのだある。 

 定信が山田に到って億丸を識ったのは、天明八(1788)年の九月頃かと思われるが、まだ正確にその日までは調べない。憶丸はそれより定信の東歸に扈從してか、或は後れて一人で東下したか、それもまだ分からぬが、何れにもせよその年の内に既命を奉じて、地図制作の目的を以て伊豆国へ出張した。伊豆では賀茂郡松崎村(現在静岡県賀茂郡松崎町)の某寺に於いて建久九(1198)年の古暦を発見し、翌春それを自ら板刻して人々に贈った。そうした事實が、寛政元(1789)年正月末日に成った右古暦の付記に據って知られる。

 寛政元(1789)年には上総國の図が成った。寛政五年の四月には、また定信に従って伊豆相模を巡視し、命に従って鶴岡八幡宮の古文書を調査した。寛政九(1797)年の春には西遊して名古屋に到り、大須宝生院に将門記の古寫本を見てその複本を作り、家蔵の一本を以て校合した。寛政十(1798)年十月には松前考が成り、この年また鎌倉勝墍(5)圖が成った。その余の著作年代の不明の藪著も、また叙上の書と前後して作られたのであろう。

 天明八(1788)年より寛政九(1797)年に到る十年間は、関東諸國の踏査時代と見ることが出来るが、その諸國といふも、海邊の国々に限られてゐる。定信が億丸をしてそれらの踏査に当たらしめたのも、當時識者の憂振るところとなってゐた海防上の考慮からであったらうと察せられる。憶丸を伊勢に於いて召見した時定信は既にその點に考慮を拂ってゐたのであらう。

 寛政十年以降の數年間、億丸は北地の探検に従事し、ついで御普請役雇に挙げられて幕府の禄を食むに至った。探検家としての事蹟は、既に赤羽氏が叙せられたし、追ってまた皆川新作氏も一文を草せらるる筈であるから、私はその方面にh深入りしないが、なはその間に、寛政十二(1800)年の正月には、奥州駅路圖が成った一事を挙げて置かねばならぬ。これもまた億丸の代表的著作の一つである。文化元(1801)年の三月に蝦夷島奇観の膃肭臍魚蝋獵部が成った。蝦夷島奇観は億丸の著作中第一に舉ぐべきものであるが、それは恐らくこの前後に作られたのであらう。但し同書はこれまでに知られてゐる所では、函館圖書館の十三帳本が最も量が多いが、まだまだいずこかに埋もれてゐる善本があるのではあるまいか。なお、億丸はこれらの著書よりして、当時の諸侯にも接近していったのではないかとも思われる。

 文化三(1806)年の冬には億丸は江戸にゐた。十月十九日に近江の歌僧海量(6)がこれを訪問したことが、その日記に見えてゐる。「中寄記町村上島之丞秦億麿をとひ、えぞ人のたぶりをききて」と題した歌二首がある。

 十一月二十九日に海量は再訪した。「億麻呂えぞの人の手わざをかたにうつせるをみて、うみ山もいとはでゆかな えぞ人のわざは直しと君がかたれば」ここに蝦夷人の手業をかたにうつしてゐるのは億丸の蝦夷生計圖説をいふのであらう。なほ右の歌を通して、億丸がアイヌ達に好感を持ってゐたらしいことが想像せられて来るのが快い。

 年の改まった文化四(1807)年の正月六日にも海量は億丸を訪うた。「八丁堀秦億まるがたびやのこととひ」としてある。              ついで十四日の條に、「ところどころをとひ、榛まる」としてあるが、これまた「億まろ」としてあっれ、この日にも訪問してゐることが知られる。

 次に晦日の條にまた「億麻呂」とある。

 三月以降の海量の日記は傳存していなくて、この年に於ける億丸の動静を詳らかにし難いが、本年に於ける佐竹候箱館七居浜操練圖といふものを制作してゐるのを見ると、億丸はこの年にも蝦夷に到ったのであろう。十一月には松前箱館江差嶴地圖が成った。

 その翌五(1808)年は億丸の歿するとしであるが、海量の日記はこの年の分も缺けていて、それに據って億丸の動静を窺ふことの出来ぬのが遺憾である。但し植木玉厓(7)のこの年の雜記に「三月五日、朝白園集。南畝(8)弘賢(9)方彦、白藤(10)荷藤、茜天印南(11)青木丸其外生面、大勢也。席上初見、唐絵師の由、新見讃岐守内仁科五兵衛、畫名錦川、呉平」とあるのが大いに注目に値する。億丸を靑木丸と書かれてゐる例は他にもあって、その億丸たることには何等の疑いもない。して見ると、文化五(1808)年の晩春億丸は江戸にゐて、かやうな雅莚などにも出席してゐたのである。右の内、分かってゐる人だけを例記すれば、南畝は太田覃、弘賢は屋代輪池、白藤は鈴木恭、印南は大塚遜であり畫家の仁科錦川通稱呉平は右の雜記中に説明せられてゐる如くである。

 この年また東蝦夷地名考が成った。

 億丸の歿したのは八月五日であった。それは玉林寺に現存する墓石に據って明らかにせられる。恐らく江戸に歿して同寺に葬られたであらう。その墓のことは、数年前の本誌に伊藤武雄氏が述べられてゐられるからこの事には觸れない。私も八九年前に偶然同寺にその墓を見出して悦に揕へず、その後寫眞なども撮って置いたが、それはまだ筐底に納めたままになってゐる。なほ寺で教へてくれた子孫の村上氏を尋ねて、それが全然縁のない人だったのに失望したこともある。

 隠岐埋まるの著作の中に越後に關するもののあることは前號に記した如くであるが、某年の嚴冬億丸が越後に在って、二人の知友と共に人を訪はうとして大雪に埋まむるところとなり、翌朝に到って救助された一奇事を、駿河の山梨稲川(12)が「埋設記」と題して叙したのが、収めて稲川遺芳の文章の中にある、その文また甚だ奇であるが、ここには引かない。「秦億丸談越後國、甚悉矣(13)」とあるのを見れば、稲川は直接にその話を聽いたのであった。億丸はいつ北越に到り、またいつ稲川と會したのであったか、未だこれを詳らかにし難い。

 億丸は大田南畝よ屋代弘賢と識ってゐたのであるが、弘賢の不忍文庫研目の奇品の内に、「伊豆福石天然研」といふ一條があって、下に「億丸贈」と註してある。なお山崎美成(14)とも識ってゐた。美成の好問堂珍蔵記には、億丸の談話を録してゐる條がある。檍丸の筆蹟は、私はただ稿本の自著を知ってゐるに過ぎないが、伊勢の出口斉吉氏はその短冊を一葉所蔵してゐられる。億旅の歌で、「億麿」と著名してある。その書簡などもいずこかに蔵せられてゐるのではないかと思うが、未だ一通も見ることを得ないのが物足らぬ。自己の近況を郷土の親戚故舊に報じたものなどが、他日発見せらるなら、檍丸の伝記の研究は、更に数歩を進め得らるるであらう。そうした資料の捜索を、特に宇治山田方面の人々に請うて置きたいものである。

 檍丸の家族に就いては私は全然知るところがなかったが、間宮林蔵と交渉の深かった秦貞廉(15)は檍丸の養子であったといふ。これは赤羽氏を通じて初めて教えられた事実であるが、その貞廉が養子になったのはいつ頃だったのであろう。この二人の交渉に就いてもなほ後孝を俟ちたいものである。

 秦檍丸といふ珍しい名前の人物に注意を向けるようになってから、數へて見るともう十七八年になる。然もその間に知り得た事実は意外に少ない。 辛うじてかような小稿を纏めてみたものの、嘗て教えを受けた松木翁も今はない。これだけのものでも見て貰うことの出来ないのが誠に淋しい。

 最後に、大連圖書館本東韃紀行所載の三子略傳の一節を掲げて置いて見よう。「寛政中より松前へ被御手色々の人物御撰み罷下りけるが、最上徳内、村上島之丞、間宮林蔵、此三人は中にも格別の人と見えたり」。徳内は皆川氏に據り林蔵は赤羽氏にって、徹底的に研究が進められてゐるのに檍丸一人はまださうした研究家を有せずにゐるのである。


 追記 本稿起草後に出た尊經閣圖書分類目録(16)に據って同所にも檍丸の著書の蝦夷島奇觀一冊、東山道志附陸奥州駅路圖七冊、安房國地名考一冊の三部の所蔵せられてゐることが明らかになった。檍丸の著書はまだまだ發見されさうである。                          古典保存會本将門記の解題を山田孝雄氏が書いてゐられるが、それには檍丸のことがまだ秦某とせられてゐる。檍丸の所蔵してゐた将門記を江戸へ持参して人々にも示した事實が何かに見えてゐたことが記憶にある。或はそれは岩崎文庫(17)所蔵の雜記の中ではなかったと思ふが、その点もまだ判然しない。(昭和十四(1939)年十二月三十一日脱稿)

*注(1)大連圖書館  満鉄大連図書館(現:大連図書館魯迅路分館 日本文献資料館)竣工:第一期(書庫・事務室) 大正3年(1914)、第二期(閲覧室)大正8年(1919)設計:満鉄工務課・建設課 施工:不詳 中国遼寧省大連市中山区魯迅路20号 満鉄が育てた図書館 満鉄は各地に30以上もの図書館を作りましたが、大連図書館はその中心の役割をにない
20万冊を超える蔵書数を誇っていました。 現在、
大連市重点保護建築に指定されている。

*注(2)青生東谿あおう-とうけい 『日本人名大辞典』[japanknowedge]                                                                      ?-? 江戸時代後期の地理学者。現在の分県地図のさきがけとなる「国郡全図」を天保8年(1837)刊行した。名は元宣。

*注(3)秦鼎はた-そうろう  『日本人名大辞典』[japanknowedge]   *『日本国語大辞典』にも有り                   1761-1831 江戸時代後期の儒者。宝暦11年4月8日生まれ。秦峨眉(がび)の長男。寛政2年(1790)尾張(おわり)名古屋藩につかえ,翌年藩校明倫堂典籍,のち教授となる。古書の校定をこのみ,「国語定本」「春秋左伝校本」などがある。天保2年7月1日死去。71歳。美濃(岐阜県)出身。名は鼎(かなえ)。字は士鉉。通称は嘉奈衛。

*注(4)長久保赤水ながくぼ-せきすい 『日本人名大辞典』[japanknowedge] *『日本大百科全書』「デジタル大辞泉」『国史大辞典』『日本国語大辞典』にも有り。  1717-1801 江戸時代中期-後期の地理学者。
享保(きょうほう)2年11月6日生まれ。名越南溪
(なごえ-なんけい)らに師事する。安永8年(1779)日本最初の経緯度をいれた地図「改正日本輿地(よち)路程全図」を刊行。水戸藩主の侍講をつとめたあと「大日本史」地理志の編修にくわわる。享和元年7月23日死去。85歳。常陸(茨城県)出身。名は守道,玄珠(はるたか)。字は子玉。通称は源五兵衛。著作に「東奥紀行」「安南国漂流記」など。

*注(5)勝墍しょう-がい【勝概】:「デジタル大辞泉」すぐれた景色。勝景。

*注(6)海量かいりょう『日本人名大辞典』[japanknowedge] *『日本国語大辞典』にも有り  1733-1817 江戸時代中期-後期の僧。
享保(きょうほう)18年8月14日生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)の浄土真宗本願寺派覚勝寺の住持職を甥(おい)にゆずって全国各地を行脚(あんぎゃ)。江戸で賀茂真淵に和歌をまなび,彦根に草庵をむすぶ。寛政年間に彦根藩主伊井直中の命で諸藩の学制をしらべ,藩校弘道館の創設につくした。文化14年11月21日死去。85歳。近江出身。俗姓は佐々木。字は宝器,奉張。号は寒巌窟。著作に「続万葉異本考」「ひとよはな」。

*注(7)植木玉厓うえき-ぎょくがい 『日本人名大辞典』[japanknowedge]                                1781-1839 江戸時代後期の詩人,狂詩作者。
天明元年生まれ。福原灞水(はすい)の弟。幕臣。昌平黌(しょうへいこう)にまなび,古賀精里、野村篁園(こうえん)らとまじわる。狂詩集「半可山人詩鈔」におさめた「

忠臣蔵狂詩集」で知られる。天保10年11月4日死去。59歳。本姓は福原。名は飛,巽,晃。字は子健,居晦。通称は八三郎。別号に鑾峰,桂里。狂号は半可山人。

*注(8)大田南畝おおた-なんぽ 『日本人名大辞典』[japanknowedge]*『日本大百科全書』「デジタル大辞泉」」『国史大辞典』『日本国語大辞典』にも有り                                                                1749-1823 江戸時代中期-後期の狂歌師,戯作(げさく)者。
寛延2年3月3日生まれ。幕臣。松崎観海らにまなぶ。明和4年の「寝惚(ねぼけ)先生文集」でみとめられる。洒落本,黄表紙をおおくかき,「万載(まんざい)狂歌集」などで狂歌界の中心となる。寛政の改革後は一時,筆をおり支配勘定役などとして活躍した。文政6年4月6日死去。75歳。名は覃(ふかし)。字(あざな)は子耜。通称は直次郎。別号に蜀山人(しょくさんじん),四方赤良(よもの-あから)など。著作はほかに「変通軽井茶話」「一話一言」など。【格言など】ほととぎす鳴きつるかたみ初鰹春と夏との入相(いりあひ)の鐘(辞世)

*注(9)屋代弘賢やしろ ひろかた 日本人名大辞典』[japanknowedge]*『日本大百科全書』「デジタル大辞泉」」『国史大辞典』『日本国語大辞典』にも有り 通称:大郎、太郎吉、号:輪池、諱:詮虎、のち詮賢、弘賢などと改める                                      1758-1841 江戸時代中期-後期の国学者。宝暦8年生まれ。幕臣。国学を塙保己一(はなわ-ほきいち),儒学を山本北山(ほくざん)にまなぶ。柴野栗山(しばの-りつざん)の「国鑑(くにかがみ)」や塙の「群書類従」の編集をたすける。寛政5年幕府の右筆となり,「寛政重修諸家譜」「古今要覧稿」の編集に従事。蔵書家で,上野不忍池(しのばずのいけ)池畔に不忍文庫をたてた。天保12年閏(うるう)1月18日死去。84歳。江戸出身。初名は詮虎(あきとら),晩年に詮丈(あきたけ)。通称は大郎。号は輪池。

*注(10)鈴木白藤すずき-はくとう 『日本人名大辞典』[japanknowedge]                                      1767-1851 江戸時代後期の儒者。明和4年9月16日生まれ。鈴木桃野(とうや)の父。古賀桐庵(どうあん)の岳父。幕府の書物奉行で蔵書家。江戸城内の紅葉山文庫の本を筆写。写本は膨大な量にのぼったが,のち焼失。嘉永(かえい)4年12月6日死去。85歳。名は成恭,恭。字は士敬。通称は岩次郎。編著に「白藤書屋蔵書目録」など。

*注(11)茜天印南いぬずか-いんなん 『日本人名大辞典』[japanknowedge]                                            1750-1814* 江戸時代中期-後期の儒者。寛延3年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩士犬塚純則の子。江戸の昌平黌(しょうへいこう)でまなび,員長となる。寛政の末ごろ江戸本郷に私塾をひらいた。文化10年閏(うるう)11月12日死去。64歳。名は遜。字(あざな)は退翁。通称は唯助。著作に「昌平志」「文翰拠依」など。   

*注(12)山梨稲川やまなし-とうせん『日本人名大辞典』[japanknowedge]*「デジタル大辞泉」『国史大辞典』『日本国語大辞典』にも有り  1771-1826 江戸時代後期の儒者。明和8年8月4日生まれ。江戸で陰山豊州(かげやま-ほうしゅう)にまなび,郷里の駿河(するが)(静岡県)にかえって楽山吟社をおこす。中国語古音の音韻を研究し,「文緯」「古声譜」をあらわした。文政9年7月6日死去。56歳。名は治憲。字は玄度。通称は東平。別号に昆陽山人。詩文集に「稲川詩草」など。

*注(13)矣 字音イ[白川静「字通」] [japanknowedge]

*注(14)山崎美成 やまざき-よししげ『日本人名大辞典』[japanknowedge]*『国史大辞典』『日本国語大辞典』にも有り         1796-1856 江戸時代後期の随筆家。寛政8年生まれ。江戸の薬種商。小山田与清(ともきよ)の門人となり,家業をかえりみなかったため零落したという。屋代弘賢(やしろ-ひろかた),滝沢馬琴らと耽奇(たんき)会をおこし,「耽奇漫録」「兎園(とえん)小説」をあらわした。安政3年7月20日死去。61歳。江戸出身。字は久卿。通称は新兵衛,久作。号は北峰,好問堂。著作はほかに「三養雑記」など。語末の助詞。断定・決定・決意など、強い語気を示す語である。

*注(15)秦貞廉➡むらかみ-ていすけ:村上 貞助「高梁歴史人物事典」                                  安永9年~弘化3年5月15日(1780~1846)高梁市出身。江戸時代後期の画人。秦一貞(はたかずさだ)又は貞簾(さだきよ)と言い、号は横文斉(おうぶんさい)・俄羅斬庵(おろしあん)。幕府の役人で蝦夷地探索を行った村上嶋之允の養子となる。嶋之允は伊勢国(現;三重県)に生まれ、秦億丸の筆名を使うこともあった。健脚で画筆が巧みで地図の作製に秀でていたため、幕吏に登用され蝦夷地調査に派遣された。貞助・間宮林蔵は嶋之允の門弟。文化4年(1807)フヴォストフによってカムチャッカへ連行された択捉島番人からの聞き書き『赤賊寇辺実記』を纏めたのを契機に北辺への関心を抱き後に義父となる村上嶋之允や間宮林蔵と共に蝦夷地を踏査した。同5年(1808)ソウヤ(宗谷)を出発しカラフトを経てアムール川下流地域の交易の実情を記した『東韃(とうだつ)地方紀行』3巻は林蔵の口述を貞助が編纂して挿図挿をいれたもので「吉備秦(はた)貞簾(さだきよ)編」と記されている。同7年(1810)初稿が完成した『北蝦夷地部』10巻、翌年(1811)伊能忠敬を訪れ、秋には松前へ赴いて幽囚されていたロシア船デェアナ号艦長ゴロウニンや士官ムールにつきロシア語を習ぶ。驚くべき上達ぶりを示した。同9年(1812)邦訳したムールの陳情書や諸資料を携えて荒尾但馬守と、出府、ゴロウニンの解放に尽力。翌10年(1813)松前奉行支配調役下役に任ぜられる。文政3年(1820)遠山左衛門尉景晋の慫慂もあり、義父・村上嶋之允の未完の画帳『蝦夷生計図説』を巧みな画才で文政6年(1823)に完成させた。これは習俗を詳細に記録した貴重なアイヌの民俗資料である。北海道大学所蔵の『蝦夷弾琴図』には「横文斉筆」の著名とロシア文字で「ムラカミ」と刻した円印が捺されており、的確な描写がみられる。弘化2年(1845)『辺策私弁評』を著して、幕府の北辺の海防・開拓政策に疑問を投じた。その他、享和3年(1803)に台湾に漂着した箱館の船頭文助の記録も残している。弘化3年(1846)66歳で死去。墓は、東京谷中の玉林寺にある。

*注(16)尊經閣圖書分類目録そんけいかく-ぶんこ【尊經閣文庫】』『日本国語大辞典』[japanknowedge]解説・用語              東京都目黒区駒場にある私文庫。旧加賀藩主前田家の蔵書、和漢書数万部を収める。その主要部分は第五代綱紀が収集したもので幕府の紅葉山文庫と並び称される。

*注(17)岩崎文庫とうよう-ぶんこ[トウヤウ-]【東洋文庫】:「デジタル大辞泉」東京文京区にある東洋学関係文献を所蔵する図書館。大正6年(1917)に岩崎久弥が購入したモリソン収集の図書をもとに、既存の岩崎文庫を加えて大正13年(1924)財団法人として発足。昭和24年(1949)国会図書館の支部となる。*『ウィキペディア』で補足(特色あるコレクションとしては、中国関係欧文資料を中心とするモリソン文庫、モリソンの子息が収集した東南アジア関係資料を中心とするモリソン2世文庫、岩崎久弥旧蔵の和古書コレクションを中心とする岩崎文庫をはじめとして、文庫長であった榎一雄などの国内外の研究者・収集家による蔵書群も収蔵されている)


 


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