最近ふと思う。
誰が最終的にコストを負担するか?
あまり気にもされていないかもしれないけど、いろいろな出来事には、最後に支払いが生じる。ツケで良い思いして逃げ切った人がいれば、その人の支払いは誰かが負担することとなる。
例えば、太平洋戦争では、作戦参謀の不適切な戦略の代償を現場の兵士が血でもって償い、現場の兵士が不足すると、国許の男手が赤紙一枚で補い、それでも足りないと、国民の財産を拠出させた上、周辺国民も巻き込みながら、終いには国を焼き払われて、国民の命で償わされた。国民が血と命と財産で支払いを負担した。
現在も、年金、国の借金、いろいろなものの支払いが求められていくだろう。
いったい誰が負担するのか?
そして、誰が負担しなかったのか?
まるで空爆のように税金や年金や健康保険などの率が引き上げられ、逃げることができない。
一億総中流とか、あり得ないことが実現すると、そのツケは誰かが支払うこととなる。貧困は生まれるして生まれたのではないか?
気になる。別に世の中、どっかのアニメの世界のように「等価交換」であるわけではないのだが、特定の人たちに金をばらまいたら、誰かがそれを負担しないと成立しない。誰も負担しないようでも国が借金として負担し、まるでババ抜きのような各税金による負担の押し付け合いや、世代間の負担の押し付け合いになり、負担しなかった人と負担させられた人が生じる。
そう、太平洋戦争の時のように、大きな失敗となったときに誰がこのコストを負担させられるのだろうか?
今起きていることは、必然だったのではないのだろうか?過去のツケとして。
だとしたら、将来に向けて種をまかねば、ツケだけで終わってしまわないだろうか?
なんとなく、そんなことを考えた1日でした。