たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

思いついた! 1

2024年02月02日 | 離婚、その後

久々に自分のブログを見て、驚いた。ブログが変形している!60日以上更新をしないと、文章の羅列が並んでいるだけの見にくいレイアウトになるらしい。

ただでさえお洒落なレイアウトが出来ずに、ひたすら文章を書いていただけなのに、さらに見ずらいことになっていた。それでも、日によっては100人を超える人が訪れてくれていてビックリ。たいていは一桁ほどだけど。ちょっと反省をして、ぼちぼち日記を再開しようと思う。

最近は、起業をしよう!と思いついて、準備をしている。思い付きが多すぎて『私は躁状態なのか?』と思うことがある。離婚の項目でも書いたけれど、50代にしてせっかく手に入れた就職先を手放す気はないけれど、副業で地域活性化につながる仕事をしよっと思っている。離婚したら、いろいろ身軽になった気がする。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㊵

2023年11月14日 | 日記

どういう訳か突然の冬。夏のネジが急に切れてしまったらしい。冬布団の入れ替えが間に合わず、早朝、寒くて目を覚ます。なんということ。

体が寒さに慣れていないので、ひざが痛んだり、肩がカチカチに固まる。子どもが「温泉に行きた~い」と。私もだ。高齢になって住むなら、温泉地もいいなと思う。

そして風呂の話。今どきの家だと、お風呂付住宅が多いと思う。うちも、ありがたいことに風呂がある。ありがたいよな~、好きな時にすぐ汗を流せるし、風呂あがりにパジャマでくつろげる。風呂の風味(?)も、柚子風呂、薬湯、バスロマンなど、思いのままだ(うちは、たまに自家製薬湯風呂をする)。電気を消して薄暗くするのも落ち着いて良いものだ。おっと、うっかり眠りそうになる。

昔読んだ前田京子さんの『お風呂の愉しみ』を真似して、石けんを作ってみた。市販のものより使いづらいが、しっとり感は素晴らしい…なんて書いてみると、我が家はとっても充実したバスタイムを過ごしているように見える。でも実際は、こんなに優雅な時間を過ごしていない気がする。ん?

たいてい、最後のぬるい残り湯(とっても少ない!)を最大限に利用するため、体をキュッと丸めて浴槽に寝転ぶように入る。自分のためだけに給湯するのは何だか勿体ない(主婦のケチ根性)。この体勢でこのまま風呂場を暗くして寝てしまったら、溺れてしまうのでは…?顔が沈めば目が覚めるか?それとも、寒くて目が覚めるのが先か?

銭湯でもいいのだが、広々した温泉に憧れてしまう。風呂で手足を伸ばして、熱い湯に浸かる贅沢よ。

もっと素敵なのは(銭湯や温泉だと)風呂洗いから解放されること。湯を家の外に求めると、お風呂掃除をしなくて良くなる。お風呂って…なんて汚れやすく、かびやすいのか。しょっちゅう壁やら床やらこすり、たまにかび取りをしないと、手に負えない汚れに発展する。家じゅうで、一番手間のかかる場所だと感じている。お掃除嫌~い。

元の話に戻る。高齢になったら温泉地に住みたい。齢をとったら銭湯など外の風呂を使う、つまり家に風呂のない生活は可能で、現実的なんだろうか?内風呂の気楽さと掃除の面倒さを、天秤にかけてみる。いろんな人の声を聞いてみたいもんだ。


ちょっと思いついた⑲ 神様のギフト

2023年11月13日 | 思いついたこと

秋になった。急に冷え込んできて、山がまだらに紅葉し始めた。私は月を見るのが好きで、山を見るのも好きだ。ただし、登るのはしんどいのでパス。職場が山に囲まれた地で嬉しい。通勤のたび、色合いの変わっていく山を目にすることができる。

職場の裏手に小路がある。街路樹というほど立派なものではないが、モミジと桜が交互に植えられている。秋と春と交代で主役が入れ替わる感じだ。私は、どちらか一つにすればいいのにと思ってしまうが、植樹した人はどちらも楽しみたかったのだろうか。それにしても、山の影側なので、可哀そうなくらい貧弱な様相だ。そこを歩くとつい「春、秋、春、秋…」と木の前でつぶやいてしまう。

季節が一周すると一年…私はこれまで五十数回、桜を眺めたことになる。あと何回眺められるだろうか。

こんなことを書いているのは、今読んでいる本に影響されてのことだと思う。医者の書いた、病院内のあれこれ話だ。当然と言えば当然だが、人は死ぬ。子どもでも、40代でも60代でも。私の寿命がもし60代だったとしたら、あと十回程度しか花見ができない計算になる(少なっ!)。でも実は、あと一回もないかもしれないのだ。普通に生きていると、何となく平均寿命くらいまで生きられる気がするが、そんな保証はない。こんな自分の人生にびっくりする。真面目に将来の計算や設計をするけれど、先が何も分からない不安定さを忘れて立てた計画に、意味はあるのかと、時々思う(勿論ある。無計画では人生成り立たないことも多い…のだけど)。

50代と言えば、昔だったらとうに片足突っ込んでる…墓に。そういうお年頃なのだ、私。

子どものころから、先に先に計画することが好きだった。あとで慌てることが嫌いだから。体力も気力も乏しい私は、後から動く馬力がないのだ。『先に計画、そして体力温存』がモットーだ。まずは義務(と思っていた)家事育児、ご近所とのつながりを計画に盛り込んで、ゆとりがあればやりたいことをと思っていたが、そんなゆとりもなく…温存する体力もなかった。要領良くはなかったのだろう。とりあえず子供を寝かしつけて、自分も寝る。それでおしまい。

うちの場合、育児期間が一般的な人より少し長めだったのもあるか。まあ、中年期はそういう時期だ。そしてそろそろ老年期に近づいてきた。やりたいことが少しある。読みたい本はたくさん。欲しいもの少し。聴きたい曲もたくさんある。

時間にゆとりができ始めたのは、ギフトだと思う。さあ今から(と、自分の背中を押す)と思いワクワクする。


ちょっと思いついた⑱ 幸せでいたい?

2023年11月10日 | 思いついたこと

不満があるから、満足がある。逆もしかり。

幸福があるから、不幸がある。逆もしかり。

考えてみたら、幸福だけが単体で存在するわけはなく、不幸との対比で幸福が存在する。不満も同じで、満足する状態が想定できるから、不満が湧き起こる。

同じことをもう一度。神社へ行くと、幸せであるように神頼みをする。でも、幸せが単体で存在するわけではなく、今の状況と(あるいは過去のある時点と)比較したうえで幸せを想定する。言い古された言葉だけど、コインの裏表のようなもので、幸福は必ず不幸とセットで存在する。神様と悪魔も同じじゃないか。神様だけでは存在できず、悪魔があって初めて神様が現れてくる(逆でもある)。もっと言うと、神様と悪魔は同じ存在を別の視点で見た姿かもしれない…と、ぼんやり思う。これは、またの機会にゆっくり考えよう。

 

幸せでいたいのなら、自分が幸せだと気付いていれば(確信していれば)そして不幸に気付いていなければいい…のではないか。当ったり前~すぎて「そんな馬鹿なこと!」と言われるかもしれない。でも、そうなんだと思う。ある時点と比べてないことに気付いてしまったり、常識っぽいものに煽られて不足を気付かされてしまうことが、不幸のはじまりなんじゃないかな。常識ではなく、常識っぽいところがミソ。

宗教に詳しくはないが、悟りを開いた者がいく極楽。すべて満たされた極楽という世界は、退屈なのではないかと想像したりする。常に満腹の人は、食事の楽しみを知らない。それと同じで、すべて満たされた世で淡々と過ごす魂は、幸せを感じるのだろうか?悟った魂でないと、極楽という平和で淡々とした世界に耐えられないのかもしれないと思う。だから、極楽は解脱した人のみにひらかれているのか、なんて思う。


ちょっと思いついた⑰ 老後のこと

2023年10月31日 | 思いついたこと

前回は、老人の側から『老人の悲惨』系記事の反論を書いたが、逆に社会の側からも考えてみる。

老人は生産性が低い(これは経済だけをとらえた、とても狭い範囲での考え方だが)という理由から軽く扱われがちだ。どちらかと言うと生産性より、消費者であることに価値を置かれている気がする。こんな在り方も、老人の無力感を助長する。生産性の話をすると、お金を稼ぐ奴が一番偉いのかって議論につながりそうだが、それは一旦脇に置いて、素直に生産性について考える。

 

お金のように数値に見えるものではない生産性があることを、政治家を含め多くの人は見逃している。

例えば『女性が輝く社会』だっけ(ちょっと古いか)?こんな耳障りのいい言葉に誤魔化されて、女も働こうという考え方が前面に出てきた。悪くない。それを望んでいた人にとっては。

でもその裏返しとして、お金にならないことをしても輝けない?生産性が低い?価値が低い?そんな暗黙の前提条件を付けられた気がする。これまでは主に主婦が担ってきた地域活動やPTA、ご近所との連携…これらはお金に換算できない。しかし、地域の安全や住みやすい社会に貢献してきたと思うのだが。これは目には見えないし、なくなってすぐにそのありがたさが実感できるものではない。しかし暫くたつと、失ってしまった無償の社会貢献に気付く。それはほんの小さなこと、例えばゴミ捨て場が荒れてくるという、ちょっとしたことから始まる。

 

同じことが老人にも言える。地域の知的・文化的財産や知恵を継承すること、家庭内での役割、成熟のモデルになること…もっと言うと、このセカセカした社会のスピードを緩める制御装置の役割もあると思う。ちょっとくらい老人がモタモタしても、深呼吸して「ま、しょうがないね。ゆっくりどうぞ」くらい言えるゆとりを取り戻したい。老人のモタモタを『自分の焦りに気付き、落ち着きを取り戻すきっかけ』と考えたら、世の中の苛立ちや怒りも減るのではないか。だって、思い出してほしい。そのモタモタは、明日の我が身なのだ。私は、老人になって認知や動きが鈍くなっても「ま、しょうがないね。ゆっくりどうぞ」と言って欲しい。怒鳴られ、家に引きこもるのは嫌だ。これは、我儘じゃないと思うのだけど、どうだろう。

家や施設に老人を押し込めるのではなく、外に扉を開けていけばいい。世の中にはいろんな人がいるのだと分かれば、皆、自分はこれでいいんだと安心できる。そしてその先に、みんなが住みやすい社会が続いている。こんなふうに単純にはいかない?私は(私を含めた)皆次第で、できると思う。

文化や知恵の継承、教育的モデルなんて抽象的な価値は、生産性にはカウントされにくいけどね。

そんな訳で、私は今日も「ま、しょうがないね。ゆっくりいこう」と相手にも自分にもつぶやく。