たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

3連休!何する? その2

2024年04月10日 | 日記

期間限定一人暮らしの3日間は、あっという間だった。きっと『数日後には子供たちが帰ってくると分かっているから楽しめた』のかもしれない。そう、一人暮らしに憧れるのは、私のないものねだりなのだろう。

子ども達の春休みが明けて新学期。久々の登校に疲れたのか、さっさと布団に入る。ただ同じ部屋に寝ているだけ。それが嬉しいと感じる。一人も楽しいけれど、一緒も嬉しい。眠ってしまった子ども達。もう小さくもない(というか大人の背丈もある)子どもの頭をなでながら、いつまでこんな風に過ごせるのだろうかと物思いにふける。


3連休!何する?

2024年04月08日 | 日記

4月初日から有休をとった。定休日と合わせて3連休で、少し早いゴールデンウィークという感じ。私以外の家族が宿泊を伴うおでかけだったので、念願の一人暮らし状態だった。人生、半世紀以上生きてきて、一人暮らしをしたことがなかった私は、嬉しくてワクワクしていた。離婚前、大家族だったころは、一人に憧れていた。ようやく叶った。

静かだ。日中、子どもたちが学校へ行っていれば家は静かなんだが、それとは違う感じがする。気配が空っぽな感じ。朝から京都のマンガミュージアムへ出かけて、懐かしい漫画を読みふけってきた。昼ご飯も忘れて読み続け、気が付いたら閉館の音楽が鳴っていた。夢中になっていると、渇きも空腹も忘れるらしい。ダイエットしたい方は、是非マンガミュージアムへ(笑)。

夜は、好きなだけ音楽をかけて、この日のために取って置いた酒とつまみ。ああ楽しい。


欲しい! その2

2024年03月25日 | 日記

先回の続き。

読書用の椅子を探している。本を一冊読めるだけの、集中力の続く椅子がいい。居眠りできる椅子がいい。空を見ながら考え事のできる椅子がいい。

今は何とお手軽だと思うが、インターネット上でたくさんの椅子を見ることができる。そのこだわりを読むことができる。そして、分かったつもりになる。…でも実際のところは座ってみないと分からないよね、と思っている。時間を作って椅子巡りをしてみよう。今日はここの椅子、明日はそこの椅子。椅子は読書の時間の大切な基本設定(!)なので、じっくりゆっくり探すつもり。

私は買い物に時間がかかる。オーブンレンジやホームベーカリーは、欲しいけれど必要か?と4~5年も悩んだ。本当に使う?必要な機能は?置く場所は?お手入れは?なくても何かで代用できるのでは?

端から見ると、まるで買わない理由を探しているのかと勘違いされそうである。でも欲しいのよ、本当は。

椅子を探すという大義名分(?)のついでに、神社へ行ったり、本屋へ寄ったり、公園を散歩したりできるかもしれないとも思っている。人生の望みはゆっくり叶えていく方が面白い副産物が得られると感じる。欲望や欲求を飼いならせると、人生はより楽しめる。


欲しい!

2024年03月21日 | 日記

本を読むのは楽しい。子どもの頃から時間を忘れて読んでいた。暇ができると『どの本にしよっかな』と考えている。あまり丁寧な読み方ではないのかもしれないが、1冊の本を読み終える前に次の本も気になって、同時進行で読むことが多くなった。

ある本に『読書というのは本を読むことだけでなく、それに付随するすべてのことを含めて読書なのだ』というような文があった。これを読んでから、無性に読書用の椅子が欲しくなった。長時間読んでも疲れない椅子。私の指定席となる椅子。私の居場所。

国産の木材で作られた椅子…あるいは、籐で作られた椅子…なんて考えていたら、1つのイメージが浮かんできた。椅子に座ると目の前に大きな窓。そこから先は自然が広がっている。山かもしれないし、木々の豊かな風景かもしれない。

今まで何となく家が欲しいなと思っていたけれど、その時考えるのはただ家の条件だけ。木が植えられる庭、駐車場、南向きなど。家のイメージが漠然としていた。

それも大切だけど、それだけでなく自分の住んでいること、本を読んでいる場面が想像できる家という一番大事な条件が抜け落ちていた。

続く


布団が吹っ飛ぶ!

2024年03月19日 | 日記

昨日は風が強い日だった。こんなにも花粉が舞っている日は布団を干さず、家にお籠りするに限る…とは言ってられないのが残念。

そう言えば先日の強風の折、上の階から布団が降ってきた。びっくりした。

上の住人は気付いていないようだったので「布団が落ちましたよ~」と言いに行った。「えー、マジ~?」という声が、インターホン越しに聞こえる。

不運なことに、落ちてきた布団はフェンスに引っかかっている…有刺鉄線が巻き付けてあるフェンスに。

私も手伝って、布団の救出活動が始まる。針が刺さっているので引っ張れない。さりとて持ち上げるには重すぎる。あっちを持ち上げ、こっちを持ち上げ、苦労の挙句、ようよう救い出した。満身創痍の布団くん。それ以来、ベランダに布団は干していない様子。

強風の日は布団ばさみを使用していても、布団は飛ばされる。現に、くだんの布団は2つのはさみで留められていたらしい。

みなさんも、お気を付けあれ。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㊵

2023年11月14日 | 日記

どういう訳か突然の冬。夏のネジが急に切れてしまったらしい。冬布団の入れ替えが間に合わず、早朝、寒くて目を覚ます。なんということ。

体が寒さに慣れていないので、ひざが痛んだり、肩がカチカチに固まる。子どもが「温泉に行きた~い」と。私もだ。高齢になって住むなら、温泉地もいいなと思う。

そして風呂の話。今どきの家だと、お風呂付住宅が多いと思う。うちも、ありがたいことに風呂がある。ありがたいよな~、好きな時にすぐ汗を流せるし、風呂あがりにパジャマでくつろげる。風呂の風味(?)も、柚子風呂、薬湯、バスロマンなど、思いのままだ(うちは、たまに自家製薬湯風呂をする)。電気を消して薄暗くするのも落ち着いて良いものだ。おっと、うっかり眠りそうになる。

昔読んだ前田京子さんの『お風呂の愉しみ』を真似して、石けんを作ってみた。市販のものより使いづらいが、しっとり感は素晴らしい…なんて書いてみると、我が家はとっても充実したバスタイムを過ごしているように見える。でも実際は、こんなに優雅な時間を過ごしていない気がする。ん?

たいてい、最後のぬるい残り湯(とっても少ない!)を最大限に利用するため、体をキュッと丸めて浴槽に寝転ぶように入る。自分のためだけに給湯するのは何だか勿体ない(主婦のケチ根性)。この体勢でこのまま風呂場を暗くして寝てしまったら、溺れてしまうのでは…?顔が沈めば目が覚めるか?それとも、寒くて目が覚めるのが先か?

銭湯でもいいのだが、広々した温泉に憧れてしまう。風呂で手足を伸ばして、熱い湯に浸かる贅沢よ。

もっと素敵なのは(銭湯や温泉だと)風呂洗いから解放されること。湯を家の外に求めると、お風呂掃除をしなくて良くなる。お風呂って…なんて汚れやすく、かびやすいのか。しょっちゅう壁やら床やらこすり、たまにかび取りをしないと、手に負えない汚れに発展する。家じゅうで、一番手間のかかる場所だと感じている。お掃除嫌~い。

元の話に戻る。高齢になったら温泉地に住みたい。齢をとったら銭湯など外の風呂を使う、つまり家に風呂のない生活は可能で、現実的なんだろうか?内風呂の気楽さと掃除の面倒さを、天秤にかけてみる。いろんな人の声を聞いてみたいもんだ。


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2023年10月13日 | 日記

今までなぜ思いつかなかったのか?簡単なことなのに。

何のことかと言うと、先日フリースを着ることによってマイクロプラスチックを放出している話をした。罪悪感を持ちながらも、毎年冬にはフリースパジャマのお世話になっていると。

ここに記述することで意識にのぼると、不思議なことに解決策や、解決するかはわからなくてもいろんなアイデアがやって来る。今回は本当に向こうからやってきたと思う。

というのも、たまたま見ていた生協のチラシに、暖かそうな綿のネルのパジャマが載っていた。普段だったら衣類のチラシなんて見ないのに。考えてみたらネルの上に綿入れを羽織れば充分温かい。今まで何故気付かなかったのか?と思う。簡単なことなのに。そしてこれなら、マイクロプラスチックを振り撒くことはない。

おそらく『だって仕方ないでしょ、寒いのに耐えられないんだから。多少マイクロプラスチック問題を抱えていようが、それは必要悪よね』なんて気持ちがあったと思う。これはフリースだけの問題ではない。

何でも現状維持に居付いてしまうと「仕方ないでしょ」と思考停止に陥ってしまう。たまには心の中のちょっとした気持ち悪さや罪悪感を、意識の上に浮かび上がらせて、解消する方法がないか考えるのも、精神衛生上良いのかもしれない。無意識に、嫌な感情を抱え続けるのは、何となく気分が悪いし、しんどいと思う。くつろげる場、居心地の良い人生というのは、小さな、本当にちょっとした心の不協和音に気付いてそれを修正していった先に出来上がっていくものなんだろう。

という訳で、今のパジャマが擦り切れたら、綿のパジャマにしようと思う…とは言え、今のフリースパジャマ、20年以上着ているんだよな(そして、まだまだ着られると思ってる)。


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2023年10月10日 | 日記

あっという間に秋。つい数日前まで暑くて、ジリジリした日差しを感じていたのに。慌てて長袖を着る。服が少ないと衣替えの必要がないので、とても楽だ。残念ながらお洒落にもあまり興味がないので(私はきっと枯れているのだろう…)悪目立ちしなければ、同じような服をずっと着ていても気にならない。

ただ一つ、気になっていることがある。数年前に読んだ記事のこと。フリースのような化学繊維は、ホコリとなったり洗濯の排水となって、マイクロプラスチックを放出しているそうだ。確かに心当たりがある。洗濯後の布地を触ると、手にざらざらした感触があるのを不思議に思っていた。まだホコリがとれていないのか?と疑問だったが、あれがマイクロプラスチックだったのだ。身につけた時に肌に刺激があるような、乾燥するような感覚は、それが原因だったのか。なるほど。

そう知りつつも、これまでずっとフリース素材のパジャマを着ている。フリースのような温かくて扱いの楽な素材が、他に見当たらないのだ。で、罪悪感を持ちつつ使っている。敷き布団パットもしかり。分解できないゴミは出したくないな。

 

こう書いていて気が付いた。私はミニマリストではないが、少ない持ち物ですっきり暮らしたいとか、原発はやめて自然エネルギーによる電気の社会だったらいいなとか、省エネ生活がしたいとか、望みがいろいろある。これらは結局『自然に還らないゴミを出したくない』につながっていたのだ。野菜ゴミを出すのに罪悪感はないが、プラゴミやペットボトルを資源回収に出しに行く時の恥ずかしさは、キタナイゴミ(環境の中で循環されないゴミ)を出すことに対する羞恥だったのだ。

人間が生きる以上、環境に負荷をかけることは当然のことだ。そうしなくては生きていけないから。しかしそれは、程度問題の話。海や魚をプラスチックまみれにして、空気中の二酸化炭素を急速に増やし、土壌を農薬まみれにして、それでもなお、それを認めようとせず経済を語るあり方にうんざりしている。人は何のために学んできたのか?『経済』という言葉の前に、これまで学んできたことは一抹の塵になってしまう。『経済』はどんな罪をも許される免罪符のようになってしまっている。いくら金を積んでも、環境は元に戻らないというのに。

だから私は、汚く食べ散らかされた皿が嫌いだ。そこには、羞恥心や慎みが感じられないから。そして罪悪感を感じながらフリースパジャマを着る。


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2023年09月14日 | 日記

臨時収入で買ったごちそう肉を食べた。久々の焼肉!

久々過ぎて、どんな野菜を一緒に焼くのか忘れてしまった。もやしは買い忘れ、玉ねぎも切り忘れてた。頭の中は肉ばかり。

焼肉のたれを作る。といっても、分量は適当。玉ねぎ一個を細かく刻んで、ごま、ニンニク、ショウガ、細ネギを水、醤油と梅シロップで煮て、ごま油を少し。食べるラー油みたいな感じで、具ばかりのタレ(タレというのか?)。大根おろしも入れればよかったと、後で思いつく。次の焼肉がいつになるのか分からないので、忘れてしまいそう。

自分のうちで焼肉をすると、何故かお店よりもあっさりした焼肉になる。家でもお店でも、焼いて出てきた油は捨てているはずなのに、何が違うのだろ?焼肉に限らず、ギョーザでもハンバーグでも、さっぱりした出来上がりになる。すると、どうしても食べる量が増える。今は落ち着いたが、一時期は1回に100個以上ギョーザを作ってた(あんまり食べるので、野菜の分量多めの緑のギョーザを作った。これは不評で「もっと肉の入ったギョーザがいい」とリクエストされたこともある)。

ところで、詳しくは分からないが、牛肉には多幸感を感じさせる物質(ホルモン)の原材料が含まれているらしい。それが、満足感につながる…という。けどね、牛肉なら何でもいい訳ではないと思う。申し訳程度に牛が入っているコンビニエントな食べ物(それが何なのかは言えないが)を手早く摂取する食事に幸福を感じるだろうか?多幸感を味わえるので牛肉を!という宣伝、ちょっと野暮だなと思う。

ホルモン云々は事実かもしれないが、多幸感の大元ではない。整った食事、食卓のメンバー(一人でこっそりおいしいものを食べる食事も、幸せなんだけどね)、食事への期待や空腹感、こうしたものが多幸感に大きくかかわってくる。

次の焼肉、いつになるか分からないけれど、それまで頑張ろうって思う。


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2023年09月13日 | 日記

今住んでいる家に越してくるまでは、何もトラブルにならなかったのに…というベランダスリッパの話。

この家に移って来て、これまで通りベランダスリッパを置いた(以前仕事場で使っていたもの)。よく中高生が上履きとしてはいている、トイレスリッパのような素材。

夏あたりから、スリッパは履くのもアチチな状態になった。これまでの家よりもひさしが短いのか、スリッパに直射日光が当たっている。熱すぎてピョコピョコ跳ねながら洗濯物を干す。そしてそのスリッパ、気のせいかだんだん小さくなっている様子。小さいため、きちんと履くと足が痛くて…仕方ないので、つま先で引っ掛けてピョコピョコ。縮んでる?そんなことってある?不便ながら使い続けていたら、遂に2/3程の大きさになってしまった。

 

そんなある日、近所のホームセンターに行ったら、スリッパの売り場に『日光で極端に縮むことがある』と表記されていた。…そうなんだ。すっかり縮んで反り返ったスリッパ、もう履くのは無理なので、飛び石のようにしている。

そこでもう一足、子どもが高校時代に履いていたスリッパ君に登場してもらった。この夏、スリッパ君にはかなり活躍してもらったのだが、やはり縮んだ。またまた、つま先でピョコピョコ。うーん、何か良い方法はないか?これまで、ベランダスリッパで悩んだことなんてなかったよ。このままだと、夏を超すたびに買い替えが必要になる。それは私の主義に反するぞ。

毎年使い捨てにならない方法を考えている。まだ良い案はない。とりあえず『つま先で引っ掛けてピョコピョコ』は続く。


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2023年09月12日 | 日記

久しぶりに街へ出た。外国人観光客が少しずつ戻ってきている。

交通費を浮かせるためと健康のために、最寄り駅から少し離れた駅で下車。よく歩いた一日だった。書きながら少し眠い。

 

さて、ネットニュースのヘッドラインで、物価の値上がり、生活の困窮についての記事が躍る。が、実際の生活で、そこまで大騒ぎするほどじゃないと感じていた。でも、それは田舎で生活しているから、生活への打撃が少なかったのかもしれない…というのも、街でいろんなサービスを受けてみて、その値段の高さにびっくりしたのだ。ランチを食べる、電車で移動する、買い物をする…財布の中身があっという間に消えていく。どんなマジックか??と思う。

この夏、人出不足で休日や時間外に仕事をした。ちょっとだけ臨時収入があったので、おいしいものでも食べようと、街へいいお肉を買いに行っただけなのに、軍資金の減り具合に驚いて、気持ちよく買い物ができない。ドキドキ。

それでも一緒に行った子供たちに見栄を張って、肉を買いこんでしまった(帰りの電車賃がギリギリだったことは内緒)。こんな綱渡り的な芸当も、後から思い返すと笑えてしまう。

 

そんなことがあって思う。田舎で自炊して慎ましく暮らすってことは、物価の影響を受けにくい。だってキラキラしたお店がないので、欲望が掻き立てられることはないし、基本的にいつもの食材でいつもの料理を作るだけなのだから。水道光熱費も、意識するだけである程度下がる。だから、一食1,600円のスパゲッティにタマゲてしまう。自分で作ればいくらでできる?って考えてしまう。しかも、もっと私好みの味にできるぞ。

それはそうとして、せっかくのごちそう肉、お金のことを考えずおいしく食べたいと思う。久しぶりの焼き肉、しっかり腹を空かせておこう。


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2023年09月11日 | 日記

迷っていることがある。もう数カ月くらい、するかしないか迷っている。

それは、音楽配信サービスに申し込むか…ということ。なーんだ、そんなことって思われるかもしれない。モノやサービスを買う前に、それが本当に要るのか、したいのかをいつまでも考え続け、決断しないのは、私の癖(楽しみ)だ。音楽好きだけれど、そうそうCDが買える訳でもなく、でも聞いてみたい曲はいくつもある。たくさん聞けると思うと、貧乏性の私はあれこれ欲張ってしまい、じっくり聴けなくなってしまいそう。聴かなきゃ損とばかり、曲数を気にしそうで嫌だな。余裕のなさは、私の嫌な一面だ。

 

だいたい、○○放題というのは(私にとって)曲者だ。食べ放題、携帯のかけ放題、映画見放題…どれも私の欲望を刺激する。たくさんサービスを利用しないと勿体ないと思ってしまい、楽しめる適量が自覚できなくなる。楽しめなくなるほど過剰な娯楽は、それこそ人生を損させる。それを誤楽という(うーん、ウマい!?)。

こんなことを考えてはいるが、おそらくここに書いている時点で9割がた、加入しようと思っている。どの会社もだいたい月に1,000円程度。それが高いのか安いのかは、自分の気持ち次第。

 

ところで、何故サブスクのことを言い出したのか。数年前にある演奏家のピアノCDを買った。とある作曲家のソナタ全集、全部で10枚くらいのセットだった。高かったのよ、結構。それなのに、聞いてみたら、私の好みの演奏ではない。慣れるかと何度も聞いたけれど、どうも好きになれない。高い出費だったのに、ガーン。…こういうことがあると、配信サービスの方が安心できる。好きな演奏に出会えるまで聴けるから。

もうひとつ。先日あるコンサートへ行った。それまでオーケストラにあまり関心がなかったけれど、縁あって、ゲネプロの現場から見せてもらえた。奏者の息遣いまで聞こえそうな現場で、曲を聴き、迫力を肌で感じ、ラフな格好なのに曲はぴたりと決まるそのギャップに魅せられてしまったのだ。格好いい!

コンサートの曲目は、組曲の中の有名どころのピックアップだったが、これを聴いたからには全曲味わいたいと思うよ。そして、同じ作曲家のほかの曲も聴きたい。

こんなことがあってからずっと、サブスクに加入しようか迷い続けている。加入して暇さえあれば聴いている自分を想像している。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉜

2023年09月08日 | 日記

夏休みも終わり、通常運転に戻る。先日家の整理をした。子どもが不要という服や靴をリサイクルショップへ持って行く。子ども達は、夏を越えると体も足も大きくなる。以前はシーズンオフの服も引き取ってくれたのに、今回はシーズンが合わないという理由で断られた。半年ほど家に寝かせておかなくてはいけない。

私は、子どものように売れるような服は持っていない。この夏は、生地の古くなったものを切り刻んで雑巾にしたり、その辺で棒を拾ってきて、はたきを作ったり…。お下がりでいただいたノースリーブに袖を付け、スカートのウエストを詰めた。洋裁なんてほとんど知らない(せいぜいボタン付けや裾まつりくらい)けれど、あれこれ考えながらやってみると、下手なりにも何とか形になる。嬉しい。縫い目を細かく見なければ、外出だってできる。

はまるほど洋裁が好きになる訳ではないが、まだ着られる服を捨てずに済み、服を買わずに過ごせるのは嬉しく有り難い。理由は2つ。まだ着られる服を捨てるという罪悪感を覚えずに済むこと。そして服を買いに行かなくて良くなること。

若い頃は服選びも楽しかったなあ…。でも、子どもを育てている間は汚れてもいい格好ばかりで、気が付くと中年に。そしてこのお年頃になって、どこで服を買ったらいいか分からなくなってしまったのだ。そしてどんな服を選んだらいいかも分からなくなった。買いに出かけても疲れるばっかりで、ちっとも楽しくない。億劫なのだ。これがオバサンになるということか。

若い頃は、何を着てもそれなりに似合うんだな。そりゃあ服選びも楽しいさ。齢をとると、似合うの幅が狭くなる。色にしても、形にしても。それでがっかりする。

ふと思い出した。昔読んだ本『フランス人は10着しか服を持たない』。当時話題になって続編まで出たので、知っている人もいるだろう。主人公が描くフランス人マダムは、決まった形の服をいつも着ている。一番似合って、品よく見え、好みのスタイルなのだろう。その時は定型化した服選び、それがちょっとつまらないと感じたが、今は違う。そんな手があったか!って感じ。それなら、買う時も毎日の服選びも悩まず、見栄えも良く、ご機嫌でいられると思う。マダムに倣って、自分が気に入っていて、貧相でなく、似合うスタイルを探してみようか。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉛

2023年08月24日 | 日記

夏休みが終わろうとしている。暑い休みだった。いくらエアコンをつけているとはいえ、干した布団や洗濯物を取り入れたり、エアコンを切って掃除をしたり、あれやこれやで、室温はそんなに低くない。子ども達にとっては、登校したほうが、かえって涼しく過ごせたかもしれないと思う。

 

今どきの学校は、どこも冷房付きだ。これだけの酷暑なら、ないと辛いし、下手すれば熱中症の危険もある。ありがたい配慮だ。ありがたいのだが、教室は寒いと感じるほど冷やしているらしく、子どもは夏でもセーターやベストを着ている。いくらなんでも冷やし過ぎなのでは?と、いつも思う。その上、使っていない特別教室まで冷やす必要ある?学校に限らず各種施設でも同じことを思う。教室の場所によって温度差があるというのが理由かもしれないが、上着が必要になる程というのは、やりすぎじゃないだろうか。

夏なんだから、多少汗ばむのは当たり前。命の危険がない程度に(エアコンを)効かせればいいのでは?

おそらくエアコンを導入した時点では、暑さによる危険を防ぐために設置したのだろう。それが、設置してしまうと、危険回避からさらに、快適さを求める(それも、一番暑いと感じる人が涼しく感じるまで部屋を冷やす)という考え方にすり替わる。せっかくエアコンがあるのだから、当然そうなるよね。それで、どこも寒い教室になってしまったのだろう。教室が寒いと聞くたびに、勿体ないおばさんの心はざわめく。夏は暑いから夏なのだ。

 

ところで、夏休み、子ども達は思ったより忙しい。部活に行ったり、試合があったり、友人と出掛けたり、ダラダラしたり(→忙しいというのか?)。おじいちゃん・おばあちゃんに会ったり、普段行かないような美術館やら散歩やら。私も一緒に楽しく過ごせた。あと何年、こんな風に過ごせるだろうかと考える。夏休みを共に楽しもうと、私の気合が入る。そして夏休みの終わりを惜しむ子どもと一緒に、少し夏を惜しむ気持ちになる。


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2023年08月22日 | 日記

服より大切なのは靴だ。若い頃に就職活動などで無理にパンプスなどを履いていたので、私の足指は少し変形しているし、ねじれている気がする。足を踏み込んでも、まっすぐ足裏に体重を乗せられない。指の側面に体重が乗る感じになる。

今までは何となくサイズを見て靴を選んでいたが、今回男性用でサイズもちょっとだけ大きいスニーカーを履いてみたら、とっても楽~(その時は男性用と気付かずに買ったのだが)。靴の幅が男女で異なるのだろうか?もう女性用には戻れない。あぁ、また一つ女を捨ててしまったのか?…なんてこれまで自分が思っていたサイズは、実は、私にとって小さすぎたのかもしれない。足指のねじれは解消していないけれど、長距離歩いた時、走ったときの疲れが全く違う。

そんな私のスニーカーを子どもが気に入ってしまい、とても欲しがったので、譲ることにした。次の私のスニーカーも、大きめ男性用。

こういうことは、もっと早くに思いつけばよかった。サイズという数字にとらわれ過ぎて、足の声を聞けていなかったんだと思う。いくら靴メーカーや専門家がサイズを示しても、気にすることなく自分の足が喜ぶ靴を選ぼう。私の靴は足先に割とゆとりがある。つまり、専門家の言うところのジャストサイズではないし、その上男性用だ。それでも、その方が負担が少ないと実感している。メーカーが言う足先にちょっぴりゆとりがある靴は、目安にはなっても、私のサイズではない。他人に自分のサイズを決めてもらう必要はないと気付く。

 

私は靴のことだけを言っているのではない。服のサイズだって、似合う色だってそう。もっと言うと、行動も思考も他人からのお着せだというのに、それに気づかず自分を合わせていることはあるまいか。テレビなんてその最たるものではないか。

ある事件や事柄について、どう思うべきか、何を楽しい・面白いと思うべきかという誘導に溢れていると感じていた。余計なお世話だと、テレビを見ながらいつも怒っていた。そんなテレビに向かって起こる私を、子どもたちは嫌がった。テレビをやめて清々した。ふーっ。

自分の気持ちや価値観が、外からの雑音のせいでゆがんでしまったり、それと気付かずに自分の本心だと勘違いしたり…ということは、気を付けていても起こってしまう。いつも、自分の心と体の声に耳を澄まそう。自分の意志じゃないと気付いて嫌々従うのならまだマシで、気付かず外の声を自分のものとして取り込んでしまうと、本当に自分が思っていること、したいことが分からなくなってしまいそう。