たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

ちょっと思いついた③ ファミレスのロボット君

2023年07月31日 | 思いついたこと

暑すぎて、通りを歩く人はほとんどいない。ほんのちょっとの距離でも、出歩きたくないと感じる日差しだ。そんな中で郵便屋さん、配達業者、作業員の人達、大変だと思う。いろんな人に支えられて、世の中は成り立っている。ありがたいことです(→ここだけ丁寧語)。

 

ところで久しぶりに会った友人と、ファミレスに行った。ファミレスなんて何年ぶりだろう。席に着いて、いろいろ驚くことがあった。注文はテーブル上のタブレットですることや、料理がロボットで運ばれてくること。昔見たテレビ番組では、ロボットが注文を取りに来て、ロボットが料理を運ぶという場面があったが、それが現実に始まっている。

ロボット君、料理を持ってくるが、席の近くに来るだけなので、客が取りに行って配膳する…ちょっとセルフサービスに近い感じ。そして通路に人や椅子などの障害物があると、ロボットは通れない。友人はそのたびに椅子をずらして、ロボット君が通りやすいように通路を空けていた。せわしない。

このロボット君は、音で存在をアピールして通路を開けてもらう(早い話、「どいて~」と言っているようなもん)という、従業員ではできない裏技(!)まで駆使して、職務にまい進する。見慣れない光景に、目が釘付けになる。

 

ロボットが給仕の仕事をしてくれることで、ウェイトレスの仕事は減った、あるいは、楽になったのかな?そして、客側は、満足のいくサービスを受けられるようになったのかな?

昔から不思議に思っていたこと。私たちは機械化をすることで、辛い仕事・危険な仕事をロボットに任せて、人は楽に暮らせる…ことを夢見ていたんじゃないだろうか。かつてのギリシアの、市民と奴隷の関係のように。それなのに、オートメーション化が進んで、ロボットと人間とが仕事を奪い合う社会になりつつある。あれ?大量生産できたり、、大変な仕事を機械化することで人がハッピーになれると思ったからこそ、ロボットは開発されてきたのではないのか?それなのに結果は、安く生産できたり、安くサービスを提供できるようになったかもしれないけれど、逆に考えると、人間の仕事がなくなる上に、安く生産可能になったからと言っても、もうけが人件費に加算されるわけでもなく、一体どんなゆとりが生まれたのだろう?

単純労働は切り捨てられ、ロボットができない複雑でややこしい事案や、気遣いのいる案件ばかりが仕事として残るとしたら、かなりしんどい社会になりそうだ。その上、ロボット君に「どいて~」と言われたり、ロボット君のお世話をしつつ…私たちは何を目指して前進しているのだろう。労働はロボットに任せて、人間は悠々自適に生活するという世界にはなりそうにない。変だな。

便利とか豊かという言葉が、いったい誰の視点での言葉なのか?そして、本当に良い結果をもたらすことなのか?よく考えてみる必要がある。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑲

2023年07月28日 | 日記

毎年暑いと言っているが、今年の夏はとびきり暑い。

汗だくになりながら家事をしていたら、少し頭痛がしてきた。元々頭痛持ちだったので、今まで気にしていなかった。少し前に、頭痛も熱中症の症状の一つだと知って驚いた。以後、頭痛にも気を付けるようにしている。家事をやめ、エアコンをつけ、水分補給…休んでいると少し痛みが治まってきた。やはり熱中症?

頭痛がなければ気付きもしなかった。アブナイ、アブナイ。こんな風に、気付かぬうちに暑さにやられていくこと、あるんだ。

窓を開けて風を通す、綿や麻の衣服を着る、扇風機を使うというような工夫では追い付かないほどの暑さっぷり。これがあと一カ月以上も続くのかと思うと、電力は足りるのか(そして我が家の電気料金は、支払えるのか!?)と心配になる。

 

近所に飲料水の自販機がある。見ていると、安くもないのによく売れている。補給用車両もしょっちゅう来ている。トラックに使用後のペットボトルをたくさん積んで走り去っていく。あの空ペットボトルの山を見ていると、心が痛む。一瞬の利用のためにあれだけのゴミが出るのか。そして暑い道路わきに、じっと立っている冷蔵庫…じゃなくて自販機。ゴミを出し、電気を使い、お金を出してるからいいでしょと言わんばかり。せめて、みんなコップを持ち歩いて、コップに注ぐ形式の自販機にできたらいいのに。

ところで、暑さに効くもの、ひとつ見付けた。ハッカ油。水で薄めてスプレーすると、涼しさがしばらく続く。前から清涼感があると分かっていたのに、なぜ思いつかなかったんだろう。職場で着る衣服や首筋にスプレーしておく。ああ涼しい。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑱

2023年07月27日 | 日記

久しぶりに石けんを作った。現在、熟成期間中。

売り物のように美しくはないけれど、使い心地に変わりはないので良しとする。洗剤ではなく石けんで、いろいろ洗う家庭は増えてきたかもしれない(本当に増えたか定かではないが、書籍やネット上には石けん生活の記事が多くみられるようになった)。前田京子さんの『お風呂の愉しみ』あたりから、石鹸、重曹が見直されてきたのでは?と思っている。私はこの本で、重曹や精油の存在を知った。今では、ないと困るほどだ。

 

何故、洗剤ではなく石けん?環境に良い(逆に良くないという人もいる)とか、体への害が少ないとか、いろいろ言われている。例えば、浄水場できれいにしたはずの水から、洗剤(柔軟剤か?)のニオイがするそうな。浄水しきれないんですね~。それを上水として利用することになる…嫌だな。

でも、石けんを使う一番の理由は気持ち良いから。食器洗剤ひとつをとっても分かると思うけれど、洗った後の手の荒れた様な感覚や、手や食器に残った香料の香り。香りがするということは、水で洗い流しても、香料は流しきれないってこと。洗濯洗剤も同じ。それを口や皮膚から摂取する??シャンプーで髪を洗い流した時の、流しきれないヌメヌメ感と手のカサカサ感。そしてあの香り。あのヌメヌメをしっとりというのか…でも、ヌメの正体が分からないのに、ヌメを髪に残したままというのも、気分が良くない。それなら、椿油でもうっすらつけておく方が自分に合っている。

石けんで洗ったときの、あのさっぱり感と言ったら!市販の石けんはすっきり油(脂)を落としてくれる。きもちい~。ただ、アトピーや、乾燥肌の人は、コールドプロセス(製法)の石けんの方がしっとりするので良いかも。

私は、市販の固形せっけんで髪を洗うと、ゴワゴワして収拾がつかなくなる。仕方ないので、市販の石けんシャンプーを使っている。固形せっけんで、髪から肌からぜーんぶ洗えたら、風呂場の小物が減るのに。それが、自作のコールドプロセス石けんだと、洗髪も結構イケる。何故?この製法だと、保湿成分(グリセリン)をしっかり石けんに閉じ込めるので、溶けやすいけれど、肌にはマイルドなのだそうだ。

 

牛乳パック1ℓ分の石けんを作ったので、しばらくは石けんライフを楽しめそう。

 


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑰

2023年07月26日 | 日記

今朝はダラダラ。睡眠時間が足りないと、てきめんに体が動かなくなってしまう。気合だけではどうにもならない。速度を緩めて生きるよう、体が教えてくれるんだと思う。

 

若い時から、せっかちというか万能感の塊だったところがあり、この位はできるはずという、目一杯の予定を計画して、思い通りに計画が進められない自分に落ち込む…という繰り返しだった。毎日そんなに懸命には生きられないし、予定には思いがけない障害がつきものだし、何をそんなに生き急いでいたんだか。

周囲の人が、効率的にたくさんの用事や仕事をこなしているように見えて、私は無力感に悩まされたりもした。今でも時々、周りの人が多大なタスクをこなしていて、自分が何もしていないような無力の迷路に迷う。中年になってもまだ、自分の万能感と折り合いがつかない。はあ~。

 

ただひとつ気付いた。せっかちで真面目に(まるで時計の秒針がチクタク鳴るように)予定を積み上げようとする、その頑張りを放棄し始めると、他者へのまなざしが優しくなるような気がする。自分がミスをすれば、他人のミスも理解できるようになるのと同じで、「まっ、いいか。お互い様」と言えるようになる。あきらめとも違う。相手のありようを了解する感じに近い。これが齢をとるということか?人生、練れてきたということか(カッコいい!)?…単に、自分が怠けものになった言い訳だったりして。へへっ。

古から言い古されている『つらい経験は人を優しくする』のは、確かにそうで、悲しいことがある人の悲しみを理解しやすくする。そして、人の幅を大きくする(条件付きで)。条件については、またそのうち。

 

そんな訳で、今朝はいつもより20分遅くダラダラ起きて、慌てて子どもの弁当を作り、朝食を食べさせた。20分くらい遅く起きても、充分間に合うことが分かった。

ビバ!ダラダラ!


ちょっと思いついた② 華麗に加齢

2023年07月25日 | 思いついたこと

今年も梅干しのシーズンになった。ベランダでジリジリ日にあぶられながら、梅を干している。子どもの頃は梅干しなんて嫌いだったのに、今では、ないと物足りなく思う。人の味覚は変わるもんだと驚いている。子どものころ食べられなかったのに、大人になってそのおいしさに目覚めるのは、よくあることだと思う。私は結構ある。レバー、銀杏、牡蠣、みそ汁などなど。

 

ここ最近、いろんなところで「(体調や体力など)齢を取って、いいことがない」的な愚痴や、もっと直接的に「齢をとって得することは何?」と聞かれたりするようになった。こういうところに自分の老いを感じる。なんだか齢をとって、ひとつも良いことがなく、諦めたり、足掻いてるように見える。確かに体が痛んだり体力が落ちたため、辛い思いをしたり、できたであろう体験を逃したりしているかもしれない。

けどね、さっきの例で言えば、おいしく感じられる味覚センサーが発達したから、好物の幅が広がった。舌が豊かになったんじゃないかな。

歳を経て得るもの、他にもある。例えば賢さ。難しい数学や語学は、今更ムリ!だけど、人との接し方、自分の怒りへの対処、モノのとらえ方…経験を積むと賢くなる気がする。まあ、経験によって頭が固まってしまい、頑固ちゃんにもなり得るけれど。

 

そもそも『齢をとって得』と考える時点で、どうかな。若さに対抗する何か得(徳じゃなくて)がないと許せないというのは、寂しい。

得か損かと言われたら、得の方が嬉しく感じるけれど、私たちは、得をするために生きているんじゃない。得をすることが人生の最終目標じゃない、ってことを忘れてる。世の中に溢れている『オトク』ワードに振り回されないように注意してる。その言葉によって自分を見失ってしまったら、それこそ人生の損失だと思うけれど、どうだろう?


ちょっと思いついた① 欲望!欲望!

2023年07月24日 | 思いついたこと

齢(よわい)を重ねたせいか、今の生活が恵まれているせいか、若いころのような強い欲求が減ってきた。これを世間一般では『枯れる』というのか…。細かいところでは、先日書いたように炭酸水メーカーが欲しいな~、なんて思っているのだが(他にも、給料が上がったらいいな、発泡酒でなく毎日本物ビールが飲みたいなとか)、強烈に何かを欲していない気がする。

まあ生活できる程度に収入があり、うそんこビールなら飲めているし、ぼちぼちな、佳き人生なんじゃないか。向上心が足りないからそんなことで満足するんだと言われそうな、ユルイ考えなのかもしれない。ユルくて時々、自分が堕落しているのかと心配になることもある。でも基本的には、これでいいんだと思っている。

ホームベーカリーの項でも書いたけれど、欲望を持ち、それをすぐに達成させない。その欲望が本物かどうか確認する期間と欲望を満たす条件を課すことで、その道のりを楽しんでいるような気がしている。欲望が何でもすぐに満たされるのって面白い?想像してみて。欲しいものが何でもあって、望むことのない生活を。もしくは、すぐに望みが叶ってしまうことで、欲望が満たされることに対して鈍感になってしまった自分を。欲望は適度に飼いならす生き方の方が、きっと楽しい。

 

望みを先延ばしできる耐性があったり、諦められる潔さがある人の方が、欲望に振り回されていない『人としてのゆとり』を感じられるので、好ましく思う。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑯

2023年07月21日 | 日記

炭酸水メーカーは初期費用は掛かるが、少なくともゴミは出ない。カートリッジ式で回収してくれる。容器を返却できるのは、なかなか良い。1本当たりの金額は多少安いかなという程度だけど、それでも良い。うちの牛乳もリユース瓶を使っているが、容器のゴミが出ないので、後が楽だ。

よし、炭酸水メーカーを買おう…と、簡単にはいかない。まず置く場所がない。結構な大きさの装置なので、置けそうな場所のサイズを測るが、入らないことが判明。置けない。今のところ我慢している(たまにどうしても我慢できなくてペットボトル買ってる)。

重曹で作る方法もあるらしい。早速試してみたけれど、しょっぱい(当然か)。おいしくない(残念)。一回でやめた。いまだペットボトルゴミと、飲みたい欲求のはざまで格闘している。

 

しばらく悩むのは私の常なので、周囲の人は呆れているかもしれない。ホームベーカリーを買う時も、5年ほど悩んだ。本当に使う?どこに置く?そんな私を見て、近所の人は「一度使って見なよ」と貸してくれた。1週間ほど借りて、きれいに(ホームベーカリーを)掃除して、いくつもパンを焼いた。騒音、パンのおいしさ、簡便さ、いろいろ考えた。結局買って、最終修理できないほどに使い倒した。じれったいと感じるかもしれないが、この悩む間も、実は楽しんでいるのだと思う。買おうかどうしようか、買って本当にマメにパンを焼くのか、焼くとしたらどんなパンを?欲しい機能は何か。そんなことを寝る前、パン屋の前を通りかかったときなどに想像する。そして置く場所を定め、本当に気持ちが盛り上がった所で、クリック『ポチ』。

という訳で、もう少し悩みながら台所をすっきりさせて、定位置を決めたら…炭酸水メーカー買うかな?


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑮

2023年07月20日 | 日記

数年前に、ゼロ・ウェイスト・ホームという本を読んだ。ゴミを出さない(減らす)ために、どう生活を工夫するかという内容だ。真似できそうなこと、できなさそうなこと。料理にしろ、裁縫にしろDIYにしろ、手仕事の幅が大きければ大きい程、ゴミは出さずに済む。うん、よく分かった。あとは、どこまで楽しめるか…これは節約でも同じ。私は面白いと思うけれど、ビンボー臭いと思って面白がれない人には、難しいこと。

それで思い出した。私の知り合い、スーパーで〇割引シールが貼ってある商品を、恥ずかしくて買えなかったらしい。おおっ、私の知らなかった文化だ!『食品廃棄を減らすために、割引商品を買ってください』というお店の貼り紙を見て「こういう風に書いてくれると、(割引商品も)買えるのよね~」と言っていた。そうなんだ。そう思っている人が他にもいそうなので、こうした貼り紙はじゃんじゃん張って欲しい。

 

ゴミを出さないことにこだわるのは、私が気分よく過ごすため。もちろん、地球環境に負担をかけたくないとか、大量消費文化に飽き飽きしている(それに大量消費は結構面倒。四六時中、買ったり、捨てたり…)とか、大義名分はあるけれど、それ以上に使えるモノ、無駄使いしたモノを捨てることに罪悪感を覚えるから。私が苦しいのだ。出来る範囲という限定はあるが、ゴミの出ない生活をしたい。ゴミが出るのはしょうがないでしょ、と大人のふりをして『しょうがない』を連発したくない。少しずつでも工夫しながら前進出来たら、生活は楽しくなる。

 

ゴミついでに、今の迷いごとひとつ。

一時期、家族中が炭酸水を飲むので、ケースで炭酸水を買っていた。あれば飲む。ペットボトルのゴミの山。ラベルをはがし、キャップを外し、洗って、ゴミ袋へ。それだけでも一苦労。二週間に一度の回収日、そんなゴミが大袋ふたつ。こんなにも保管する場所もないし(狭い台所の床に積み上げられたゴミ)、回収場所へ持っていくのも恥ずかしかったなあ。

そこで、炭酸ボンベ(通称ミドボンを)を酒屋で買ってきて、炭酸水を自分で作った。圧力を調節する装置を準備して、水の入ったペットボトルに炭酸を注入していくのだ。注入後、ボトルを100回くらい振り振りして、水と炭酸を馴染ませて出来上がり。なかなかの肉体労働だった。2~3年やってみたが、挫折。ペットボトルゴミは嫌だが、100回振り振りもしんどい。それでも夏はやっぱり炭酸よね~と、悩んでいた。

そんな折、各社から炭酸水メーカーが販売されているに気付く。さてどうしようか。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑭

2023年07月19日 | 日記

ごみを捨てる話。

今どきは、商業施設はともかく、その他の場所ではごみ箱撤去の流れが起こっているように感じる。よく『家庭ごみのポイ捨て、お断り』のような文言がごみ箱に貼ってあったりする。貼らなければいけないほど、当たり前に家庭ごみを捨てていくのだろうか。マナーが悪いよ…なんて思う私は、古いのだろうか。

忘れ物を探しもせず、取りにも行かず、人に捨てさせることについて昨日書いたけれど、自分のゴミを人に押し付けるという意味では、根っこが同じ問題だと思う。自分ちで出したごみを人に捨てさせる、(商業施設から)給料をもらっているなら、ごみは片付けとけっていうことか?捨てて欲しければ、自分が給料を払って誰かを雇って欲しいもんだ。

ある人は、「子供が弁当を食べた後のゴミが捨てられなくって、困る」…だって。何が困るものか。持ち帰ればいいだけのこと。子ども云々って言っているけれど、捨てているのは大人本人だ。まだある。ここの商品を買っているのだから、それに付随するゴミ(弁当のラップや空き容器)は、施設が処分して当然??という『新・常識っぽいもの』だ。ごみ箱があれば、私も捨ててしまうが、本来それはお店の厚意であって、店の義務でも何でもない。ごみ箱がないと文句を言う筋合いのものではない気がする。でもまあ、そんなことお客に説教をする店はないもんね~。店が何も言わないからって、やっていいわけではない。

ゴミを持ち帰りたくなければ、弁当・水筒を持ち歩こう。うん、うん。

ごみや忘れ物に限らず、自分の始末はできるだけ自分でつけられるといい。人間ひとりですべてができるわけではない。助け合わなくては暮らせない、というのは承知している。でも、自分のできる範囲で自分の尻拭いは自分でできたほうが、恥ずかしくないと思う。自分が損にならないように、さらには、誰かに損をさせてでも得(利益)を獲ってやろうという浅ましさは、顔に出る。人付き合いに出る。

何かのため、誰かのために行動することを損だと言ってバカにするような人、相手を言いくるめて自分の思い通りにして得意がっている人、そんなのを価値と思うような『常識っぽいもの』には、馴染みたくないなあ。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑬

2023年07月18日 | 日記

最近、うっかり忘れものがとても増えた。どこかへ出かけては、帽子、傘、スマホ…置いて帰ってしまう。先日なんて3日連続で忘れ物をしてしまい、参った。そのたびに電話して、取りに行ってと、嫌になる。そもそも若いころから忘れっぽいのに、年齢が上がるにつれ、その度合いが増している。

なんとか忘れないよう、鞄にポケットを付けたりして工夫をするのだが、手から離した途端、持ち物たちは自由を求めて私の意識の外へフワフワ出て行ってしまう。そのたびに電話をかけて、確認して、連れ帰る。

 

ところである公共施設の話。その施設、利用者が多いためか、忘れものも多い。帽子や傘はもちろん、シャツ、靴下、キッチンタイマー、眼鏡や靴(!)まで。…靴?二足制ということもあるけれど、上履きで帰ったんだろうか?まさか裸足では帰らないよね?不思議だと思うけれど、月に2~3足は忘れられている。

新品に近いような、きれいなものも多い。私なんて10年使った傘でも取りに行くのに。

数カ月保管後、貴重品を除いて、忘れものたちは廃棄処分される。勿体ない。まだきれいで使えるのに。靴だってシャツだって、それを買いに行き、試着し、時間とお金をかけて手に入れたはずなのに、(最終ゴミになるのが分かっていても)それを簡単に手放してしまう、その心持がよく分からない。

金持ちなんだなー(棒読み)。

自分が良いと思い、気に入って買ったはずなのに、手元から離れるとそういう愛着とか、時間やお金をかけたその労力を忘れてしまうのだろうか?それ以前に、使える物を捨てるな~そんな奴は勿体ないオバケに食べられてしまえ~、と内心叫んでいる。せめてリサイクルショップに持って行って、使ってくれる人に引き継ぎたいと思うのだが、そうもいかないらしい。

時々『鉄道忘れ物市』なる催しを見掛けるけれど、ウチでもやりたーい!儲からなくていいから(本音は儲かった方がいいけれど)、使える物は誰かに使ってもらいたい。ごみ袋に忘れ物の山を片っ端からつっこんでいく時の罪悪感…胸が痛い。こういう仕事は嫌だな。

人は現金なもので、ビンボーになるとモノを大切にする。それは当然?いやいや、当然じゃないと思う。同じモノなのに、懐具合によって価値が変わるのはおかしいでしょ。持ち金によって物に対する態度が高慢になったり、丁寧になったりって、自分の価値観に筋が通っていないということ。つまりお金に価値観が振り回されているってことになる。もしくは価値がお金に依存してるってこと。お金は単なる数字であって、価値ではない…はず。

話が大げさになってきた。もっと簡単に言うと、面倒がらずに忘れ物をしたら探しましょう、取りに行きましょうってこと。大人たちのモノに対する態度を見て、子どもは学ぶ。責任や価値を。他人にごみ処理を押し付けて、無責任に次々買うのは慎みたいと思う。

それで思い出した。ごみは自分で持ち帰ろうって話。…という訳で、次はごみ捨ての話。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する⑫

2023年07月14日 | 日記

梅雨に入って、はっきりしない天気が多い。さっきまで曇っていたのに今は土砂降りで、雷も鳴っている。外出しない雨の日は楽しい。雨の音を聞いているとなぜかワクワクする。ちょっとしたお祭り気分だ。

 

先日実家へ帰省した。年老いた両親が二人。テレビをずっとつけて過ごしている。そのテレビの音が大きい。多分歳のせいで聞こえづらくなっているのだろう…が、音がうるさくて落ち着かない。しゃべっていても、テレビの音が気になって会話に集中できない。以前はそんなことなかったと思うのだが、しばらくテレビのない生活をしていると、テレビの雑音(!)が気にかかって仕方がない。昼間の番組はモノを買わせる番組(CMではなく!)ばかりで、ちっとも面白くない。こんな番組でも、賑やかしにつけておくということか。仕事を引退し、寂しがっている親にテレビを消そうとは、とても言えないが。

それにしても商品を勧める口調がわざとらしくて、良い商品を扱っているという誇りも、誠実さも、ちっとも伝わってこないというのは、なんなんだろう。

 

テレビをつけていると、考えること、感じることが出来なくなる。目にも耳にもうるさすぎて、思考を邪魔されるのだ。その上、こう考えるべき・こうあるべきという『常識っぽいもの』を押し付けられる。余計なお世話じゃ。

以前19時のNHKニュースで、アナウンサーが巷へ出て『天候不順で野菜の価格高騰』についてインタビューを(?)し、「困りますねえ」と街行く人たちに言わせていた。誘導し、「困った」を言わせようという思惑が見えるアナウンサーの言葉に、嫌な気分がした。そして、農家の苦悩をすっ飛ばして値上がりは困るという安易な報道しかできないニュースを、腹立たしく思った。報道側がそういう発想しかできないのか、視聴者の理解力をバカにしているのか。

 

今回は、怒りの談議になってしまった。精神衛生上よくないなあ。夜の雨の音、風の音は、テレビの騒音より心安らかでいられる。落ち着きや静寂は、テレビよりも賢さをもたらしてくれる気がするんだけどな。少なくとも、人が誰かをバカにして喜んだり、視聴者にある種の考え方を押し付けてこようとする高慢さに触れずに済むから、私自身が良い人間でいられる気がする。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑪

2023年07月13日 | 日記

マスクのこと。

コロナ以前よりマスク星人だった私。冬は暖を取るため、春・秋は花粉のため、ノーメイクを隠すためと、いろんな意味で重宝してきた。マスクも白一辺倒ではなくなってきて、花柄や水玉など、家の端切れで作って楽しんでいた。そんなところにやってきたコロナウィルスの大流行。前ならマスクをしていると、風邪?花粉?と、いちいち尋ねられたものだった。それがマスク必須の世の中になった途端、何も聞かれなくなった。楽~。ただ、マスク圧が強すぎて、ちょっと、うっかり忘れると周囲の目が厳しい。バッグにマスクを常備するようになった。

 

楽~と喜んだのもつかの間、不織布マスクの価格は急騰するし、使用済みマスクのゴミがそこら中に落ちている。せめてごみ箱に捨てようよ、と思う。予防のためとはいえ、高価な使い捨てマスクを買い、どんどん捨てていく(それも道端に!)様子を眺めていると、何ともやりきれなくなる。必要な職種の人が使うのは理解できる。別にマスク自体を否定するつもりはない。私もしている。でも、心が痛むのは何故だろう。

 

ひとつに、不織布マスクという石油製品の使い捨てが気になっているんだと思う。これは100均のプラスティック商品にも通じることだけど、一回もしくはごく短期間だけの使用でゴミになるもの、そして自然に帰らないものを捨て続けるのは、苦しく感じる。私はこれまでどの位不織布マスクを捨ててきたんだろう、考えると怖い。

マスクを買う…この行為を、ひとつ遡って考えてみる。当然マスクを作る人がいるわけで、一時期なんて不足が叫ばれて、休む間もないほどにせっせと生産されていたことだと思う。同時期、トイレットペーパーやティッシュペーパーも、不足する不安から買い占めが起きた。50年位前の石油ショックみたい。人間って学習しないなと思った。買い占めなくてもいいような仕組みを、町内会や、ご近所で作ることを考えられないか…とも思った。まあ、買いだめができるほど豊かなのねって感じ。当時私のつれあい(だった人)も、自分用にトイレットペーパーを買い込んでいた。あーあ。

話を戻して、マスク生産者のこと。お金のために生産しているとはいえ、使い捨てられるものを意欲的に作り続けるのはしんどいのではないだろうか?どうせなら、生産物は大切に使って欲しいと思うのではないだろうか?私が作った料理が余って、もしくは傷んで、平然とゴミにされたら、私は悲しい。「使う人」という先に思いを馳せられたら、良いものを作ろう、喜んでもらおうと工夫したりして、働き甲斐があるというものだろうに。使い捨て前提の仕事って…。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑩

2023年07月12日 | 日記

前回の続き。

効率重視、ボタン一つで意のままになる(と勘違いしたくなる)ような世界に住んでいると、どうも待てなくなる。信号ひとつ待てなくなる。

せっかちで慌てることをみっともないとは感じない、むしろ急ぐこと、急がせることを正当な権利と主張するような風潮になってきた。でも、急ぐことで作った時間をどう使うの?

こんなことを考える時、いつも思い出すことがある。新幹線、リニアモーターカーによって移動時間が〇分時間が短縮されるというニュース。その短縮にどれだけの意味があるのか、いつも疑問に感じている。その余った時間で私たちは何をしている?余らせた時間でさらに金儲けをして、ゲームをして、時間を惜しんでスマホをいじるの?

今ふと思いついた。お金儲けの良いところは、生活に金銭的ゆとりが生まれるだけではない。自分と向き合わない正当な理由とみなされるし、孤独を感じなくても済むことだ。だから安易にお金もうけに走ってしまう…のではないか。人間賢くなるには、自分と向き合ったり、人を見たり、自然を味わう経験が必要だと思う。そんな大切な体験をせずに、余らせた時間をお金儲けやスマホに捧げるのは勿体ない。

 

私の話は、思いつくまま書き散らすのですぐ逸れる。書き出しは、花が土に慣れるのに時間がかかる話だった。

こんなに元気に咲いてくれた。萎れたようにうつむいた時、早々に諦めて抜かなくてよかった。私自身も失敗したり、不運が続いてうつむく事態になっても、早々に投げ出すのはやめよう。淡々と、黙々と生活していればまた花開くときがくる。絶対。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑨

2023年07月10日 | 日記

訳あって現在の家に引っ越した時、旧住居に生えていた植物をいくつか一緒に連れてきた。挿し木をした子、根っこごと植え替えた子、どの子も『枯らし名人』の私と共に来たことは試練だっただろうと思う。

植え替えた途端、しゅんと下を向いてしまったオオムラサキツユクサや、ちっとも根付かないローズマリーにゼラニウム。おかしい。丈夫な植物と言われているはずなのに、なぜ元気に大きくならない?考えられるのは、土のせいか?特に土を買う訳でもなく、敷地内の石ころだらけの砂や、草むしりした時の枯れ葉、クリーンセンター(ごみ処理場)で無料配布している剪定チップ、そんなものを適当に植木鉢に押し込んで植えているので、土が合っていなかったのかもしれない。

 

元気はないが、それでも枯れずにいるので、そのまま経過観察…というか、忘れかけていた頃に花を咲かせた!驚いたし、嬉しかった。ゼラニウムなんて今では大きくなりすぎて、剪定しなくてはいけないほど。オオムラサキツユクサだって、3カ月くらいずっと咲き続けている。新しい環境、新しい土に馴染んで成長するのには時間が必要だったんだ。

ボタン一つでエアコンをかけ、ご飯を温め、買い物ができる生活に慣れすぎて、時間をかけること、かかることで完成する世界があることをつい忘れてしまう。タネを仕掛けて待つことの面白味、ワクワクするような期待って、生きていることを楽しくすると思う。クリスマスプレゼントを待つ子供のように、そして日常生活に埋もれて忘れかけていた頃にひょっこり咲き出す花のように。

 

ところで、話は全く変わる。先週、職場での紙の大量消費について書いた。書いたことで、私の心に強く意識付けられたのかどうかは分からないが、紙を節約するアイデアを提案してみた。あっけないほど簡単に、許可された。言ってみるものだ。ちょっぴりエコに前進。嬉しい。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する~⑧

2023年07月07日 | 日記

昨日の続き…と言うか、もっとすごいこと。

とある施設の職員の話。施設に、食品会社から自社製品の寄付があった。こういうことはたまにあるし、一見よさげな話に聞こえる。でもよく見ると、賞味期限が微妙に過ぎている。もちろん食べられるし、ウチで消費する分には平気。我が家の賞味期限は、印字してある期限を参考に、最終的には目と鼻で決めるから。とは言え、人に差し上げるのではなく、ていの良い処分…いやいや、可哀そうな入所児に寄付したんだよね。

そして子供たちは、そのことに対してお礼状を書かされるのだ。

 

寄付のことと、駄菓子を製造しそれを買い与えることには、善意や、世間で言う正当性にも大きな開きがあるのだろう。でも、ちょっと似ている。

東京電力の福島原発事故の際、国中が西の野菜を求めて大騒ぎしている最中(さなか)、当の福島の子らの学校給食は福島県の素材で作られていた。地産地消だってさ。農家を、子ども達を馬鹿にしていると思った。腹立たしかった。そして西に住んでいる私も、申し訳なく西の野菜を食べていた。

ある食品安全関連の講習会で「地産地消だから、福島で福島の野菜を食べ、西の人間は西の野菜を食べるのが当たり前」などと言い放つ、食品安全に関心の高いマダム(いわゆる意識高い系?)もいた。平然と、声高に言うけれど、私はそれに反論できなかった。私も西の野菜の人間だから。

法的には問題ないけれど、これも今までの話と似ている気がする。

 

モノ言わぬ弱者に対して、安全性にイエローカードが出ているものを差し出してしまうのは心苦しいことと思える人でいたいと思う。子ども達に思いやりのある人間になりましょう、と言うのなら、思いやりの見本を示さなくてはと思う。

あれ、話せば話すほど、エコとか省エネから離れていく。