暑すぎて、通りを歩く人はほとんどいない。ほんのちょっとの距離でも、出歩きたくないと感じる日差しだ。そんな中で郵便屋さん、配達業者、作業員の人達、大変だと思う。いろんな人に支えられて、世の中は成り立っている。ありがたいことです(→ここだけ丁寧語)。
ところで久しぶりに会った友人と、ファミレスに行った。ファミレスなんて何年ぶりだろう。席に着いて、いろいろ驚くことがあった。注文はテーブル上のタブレットですることや、料理がロボットで運ばれてくること。昔見たテレビ番組では、ロボットが注文を取りに来て、ロボットが料理を運ぶという場面があったが、それが現実に始まっている。
ロボット君、料理を持ってくるが、席の近くに来るだけなので、客が取りに行って配膳する…ちょっとセルフサービスに近い感じ。そして通路に人や椅子などの障害物があると、ロボットは通れない。友人はそのたびに椅子をずらして、ロボット君が通りやすいように通路を空けていた。せわしない。
このロボット君は、音で存在をアピールして通路を開けてもらう(早い話、「どいて~」と言っているようなもん)という、従業員ではできない裏技(!)まで駆使して、職務にまい進する。見慣れない光景に、目が釘付けになる。
ロボットが給仕の仕事をしてくれることで、ウェイトレスの仕事は減った、あるいは、楽になったのかな?そして、客側は、満足のいくサービスを受けられるようになったのかな?
昔から不思議に思っていたこと。私たちは機械化をすることで、辛い仕事・危険な仕事をロボットに任せて、人は楽に暮らせる…ことを夢見ていたんじゃないだろうか。かつてのギリシアの、市民と奴隷の関係のように。それなのに、オートメーション化が進んで、ロボットと人間とが仕事を奪い合う社会になりつつある。あれ?大量生産できたり、、大変な仕事を機械化することで人がハッピーになれると思ったからこそ、ロボットは開発されてきたのではないのか?それなのに結果は、安く生産できたり、安くサービスを提供できるようになったかもしれないけれど、逆に考えると、人間の仕事がなくなる上に、安く生産可能になったからと言っても、もうけが人件費に加算されるわけでもなく、一体どんなゆとりが生まれたのだろう?
単純労働は切り捨てられ、ロボットができない複雑でややこしい事案や、気遣いのいる案件ばかりが仕事として残るとしたら、かなりしんどい社会になりそうだ。その上、ロボット君に「どいて~」と言われたり、ロボット君のお世話をしつつ…私たちは何を目指して前進しているのだろう。労働はロボットに任せて、人間は悠々自適に生活するという世界にはなりそうにない。変だな。
便利とか豊かという言葉が、いったい誰の視点での言葉なのか?そして、本当に良い結果をもたらすことなのか?よく考えてみる必要がある。