前回は、老人の側から『老人の悲惨』系記事の反論を書いたが、逆に社会の側からも考えてみる。
老人は生産性が低い(これは経済だけをとらえた、とても狭い範囲での考え方だが)という理由から軽く扱われがちだ。どちらかと言うと生産性より、消費者であることに価値を置かれている気がする。こんな在り方も、老人の無力感を助長する。生産性の話をすると、お金を稼ぐ奴が一番偉いのかって議論につながりそうだが、それは一旦脇に置いて、素直に生産性について考える。
お金のように数値に見えるものではない生産性があることを、政治家を含め多くの人は見逃している。
例えば『女性が輝く社会』だっけ(ちょっと古いか)?こんな耳障りのいい言葉に誤魔化されて、女も働こうという考え方が前面に出てきた。悪くない。それを望んでいた人にとっては。
でもその裏返しとして、お金にならないことをしても輝けない?生産性が低い?価値が低い?そんな暗黙の前提条件を付けられた気がする。これまでは主に主婦が担ってきた地域活動やPTA、ご近所との連携…これらはお金に換算できない。しかし、地域の安全や住みやすい社会に貢献してきたと思うのだが。これは目には見えないし、なくなってすぐにそのありがたさが実感できるものではない。しかし暫くたつと、失ってしまった無償の社会貢献に気付く。それはほんの小さなこと、例えばゴミ捨て場が荒れてくるという、ちょっとしたことから始まる。
同じことが老人にも言える。地域の知的・文化的財産や知恵を継承すること、家庭内での役割、成熟のモデルになること…もっと言うと、このセカセカした社会のスピードを緩める制御装置の役割もあると思う。ちょっとくらい老人がモタモタしても、深呼吸して「ま、しょうがないね。ゆっくりどうぞ」くらい言えるゆとりを取り戻したい。老人のモタモタを『自分の焦りに気付き、落ち着きを取り戻すきっかけ』と考えたら、世の中の苛立ちや怒りも減るのではないか。だって、思い出してほしい。そのモタモタは、明日の我が身なのだ。私は、老人になって認知や動きが鈍くなっても「ま、しょうがないね。ゆっくりどうぞ」と言って欲しい。怒鳴られ、家に引きこもるのは嫌だ。これは、我儘じゃないと思うのだけど、どうだろう。
家や施設に老人を押し込めるのではなく、外に扉を開けていけばいい。世の中にはいろんな人がいるのだと分かれば、皆、自分はこれでいいんだと安心できる。そしてその先に、みんなが住みやすい社会が続いている。こんなふうに単純にはいかない?私は(私を含めた)皆次第で、できると思う。
文化や知恵の継承、教育的モデルなんて抽象的な価値は、生産性にはカウントされにくいけどね。
そんな訳で、私は今日も「ま、しょうがないね。ゆっくりいこう」と相手にも自分にもつぶやく。
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