たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

ちょっと思いついた⑨ 私って誰?

2023年08月29日 | 思いついたこと

昨日の続き。

私というものが何を指しているのか、実ははっきり示せないという困った事態になった。おかしなことを言っていると思われるかもしれないが、もともと『私』というものが定義づけられないなら、『私』はないのと同じことになるのか?じゃあ、こうして考えている『私』は何なのだ?

もう一つおかしなことを言う。『私』がないのなら、私は何も所有していない。だって、ないもの(私)は何も所有できないからだ。ということは、失うものは何もないはず。所有していると思っている『誤解』があるだけ。惚けようが惚けまいが、怖いものなしではないか。あれ?昨日の冒頭で、惚けるのが心配と書いたが、思わぬ形で解決した。何も所有していない私は、心配しなくても何も失わない。

…自分で書いていて、狐に化かされたように感じている。

でも実際問題、何が怖いって、自分の尊厳が惚けて失われる気がするのが怖いのだ。それが耐え難い。でも自分というものが何を指すのか分からないのに、尊厳も恥もない。それでも…。

私というものが分からないのに、私は良き人間であろうとか、佳き人生を送ろうと奮闘している。そうしようとする主体(私)は、何なんだ?

だんだん沼にはまって、話が回収できなくなってきた。回収は諦めて、違う観点で話をしてみる。

 

日本は衛生環境や医療技術の向上で、長寿が叶いやすい国になった。なんと、めでたい。おめでたいはずなのに、長寿がもとで痴呆になる可能性も増したのだろう。

残念なことに、年寄りの割合が増えたからって、社会がのんびり回るようにはならない。年を追うごとに経済性・効率が至上命題となって厳しく私たちにのしかかる。

 

そして、その痴呆は商売になり、惚けないためのお勉強ワークやら、○○レッスン、サプリメント等々が登場した。人の不安がある場所には儲け話が潜んでいる。そう考えると、ちょいと嫌な気分になる。好きでお勉強ワークをするのなら楽しくて良いが、惚けないようにと不安に駆られてするワークは受験勉強並みに苦しい。ワークをした時の私と、しない時の私を比較できないのに(つまり、効果なんて分かりっこないのに)面白くないワークを継続するのは、私には難しい。それなら、その時間は自分の楽しみのために使いたい。もう一度言うと、自分の不安を鎮めるために人生の時間とお金を費やすより、好きなことをして、好きな人と会って過ごす方が良い一生を送れる気がする。


ちょっと思いついた⑧ 私って誰?

2023年08月28日 | 思いついたこと

人生、何が起こるか分からないからこそ楽しいと言いたい!…のだが、今ではなく将来について考えすぎてしまい、心積もりをしたり心配する話の続き。

今はまだ実感がないのだが、何が一番心配かというと、お金より惚けてしまうことだろうか。

惚けるで思い出したが、先日読んだ本に『認知症で記憶を失っても、その人はその人なんだろうか』という問いがあった。他人から見たら、認知症を患っていようがいまいが、その人がその人本人なのかもしれない。誰か(例えば友人)と認知症の人との間で以前から継続してきた関係性が、認知症発症後もまだ友人の心の中では続いているから。

でも、認知症の人本人の視点でもなお、「記憶を失っても痴呆を患う前の私と同じ私」と、そう言えるのだろうか?事故で記憶を失っても、「以前から今まで継続して存在する私」と言えるのか?そもそも私って何?

 

私というのが体を指すなら、髪や爪を切ったら…さらに、手足を切断するような事故に見舞われたら、それは私なのか。最近では臓器移植なんてこともしているが、術後の体は、完全に私なのだろうか。おそらく臓器移植をする人たちは、脳こそが『私』というのかもしれない。脳さえ機能していたら、体を切り貼りしていようが、損傷していようが『私』だと。そういう人の言う脳とは、記憶や性格のことを指しているのだろう。脳という物質そのものを『私』とは言っていない。脳を培養液に浸けて、細胞が死なないように保存できたとして、それを『私』とは名付けないだろう。

ある人が経験してきた歴史とそこで得た技術、そして対人関係をはじめとする外界に対する反応様式。これらをひとまとめにして『私』と認識しているのだと思う。

では、事故や痴呆で記憶を失ったら、私は私なのか(…と話が戻る)?認知症で性格が荒々しくなったように見えたら、それは私ではなくなるのか?あぁ、話がややこしくなってきた。一体『私』とは何を指しているのだろう。惚けてしまうとは、何を失うことなんだろう。

 


ちょっと思いついた⑦ 将来の不安と尻拭い

2023年08月25日 | 思いついたこと

一瞬の雷雨で、少し気温が落ち着く。植物が急にイキイキしてくる。ベランダでハーブを育てているが、タイムがこの暑さのせいか全滅してしまった。同じ鉢に、名も知らぬ植物が一本生えてきた。土の中にタネが混じっていたのか、どこからか飛んできたのか?せっかくなので、抜かずに水をやっている。ひまわりに似ているとも思ったが、一向に花を咲かせる気配がなく、ただ大きくなるばかり。何の植物だろう?

昔、知人に鉢植えをもらった。鉢に土が入っているだけ。

「何を植えた?」

「内緒」

仕方がないので、なんだか分からないままに水やりを続けた。伸びてきた植物は、どうも芋っぽい。しばらくすると、鉢を飛び出し、ベランダ床面をズルズル這って成長し続ける。鉢なので芋(さつま芋だった)もそんなに大きくはなれず、蔓ばかりどんどん広がっていく。困ったな…。あの芋、結局どうしたっけ?

話は戻って、何が咲くのか分からないというのは、ちょっと楽しみ。そもそも花をつけるのかなあ?そして、何が起こるか分からない人生も、何が起こるか分からないからこそ楽しみ、と言えたらいいんだけど。そうも言い切れず、将来の心積もり(心配)を考えてしまう小心者の私。何が怖くて将来を心配するのだろう?と考えてみる。お金?健康?ボケてしまうこと?孤独?思いつくのはそのくらいか。

お金はあればあるだけ、身の回りのお世話や家事労働、欲を満たした食事などが叶えられる。でも、誰もが可能なわけではない。だいたい、何でも欲が満たされ、自分の手仕事や家事労働をお金で解決する暮らし(自分が手を加える範囲が小さくなる暮らし)は、楽しいものなのか?程度にもよるけれど。自分が自身の生活に手を加え、創り上げていく生活の方が面白いのではないか…と思う。

掃除や片付けも、ちょっとしたモノの修理でも、自分でできたほうが工夫が生まれるし、生活というものが分かるようになる。掃除をすればこそ、汚れやすい場所や、どう生活すればキレイが長持ちするか、なんてことも考えるようになる。掃除や片づけは、トイレの尻拭いと同じだと思う。自分が散らかしたら自分で片付ける。自分がやらかしたことを自分で始末できるのに、他人にやらせて平気でいたくない。

以前ホテルの客室清掃をしたことがある。びっくりするような散らかし方で、ゴミさえゴミ箱に捨てられていない部屋をいくつも見てきた。この人の尻はキレイなのか?

とはいっても、私も掃除が好きではない。それでも、それなりにきれいな家に住みたくて、今日もせっせと床を磨く。

将来への心配の話だった。つまり、身の回りのことが自分の手でできれば、お金もかからないし、生活への気付きも増えて面白くなると言いたかった。最後の結論、えらい端折ってしまった。話はまだ続く。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉛

2023年08月24日 | 日記

夏休みが終わろうとしている。暑い休みだった。いくらエアコンをつけているとはいえ、干した布団や洗濯物を取り入れたり、エアコンを切って掃除をしたり、あれやこれやで、室温はそんなに低くない。子ども達にとっては、登校したほうが、かえって涼しく過ごせたかもしれないと思う。

 

今どきの学校は、どこも冷房付きだ。これだけの酷暑なら、ないと辛いし、下手すれば熱中症の危険もある。ありがたい配慮だ。ありがたいのだが、教室は寒いと感じるほど冷やしているらしく、子どもは夏でもセーターやベストを着ている。いくらなんでも冷やし過ぎなのでは?と、いつも思う。その上、使っていない特別教室まで冷やす必要ある?学校に限らず各種施設でも同じことを思う。教室の場所によって温度差があるというのが理由かもしれないが、上着が必要になる程というのは、やりすぎじゃないだろうか。

夏なんだから、多少汗ばむのは当たり前。命の危険がない程度に(エアコンを)効かせればいいのでは?

おそらくエアコンを導入した時点では、暑さによる危険を防ぐために設置したのだろう。それが、設置してしまうと、危険回避からさらに、快適さを求める(それも、一番暑いと感じる人が涼しく感じるまで部屋を冷やす)という考え方にすり替わる。せっかくエアコンがあるのだから、当然そうなるよね。それで、どこも寒い教室になってしまったのだろう。教室が寒いと聞くたびに、勿体ないおばさんの心はざわめく。夏は暑いから夏なのだ。

 

ところで、夏休み、子ども達は思ったより忙しい。部活に行ったり、試合があったり、友人と出掛けたり、ダラダラしたり(→忙しいというのか?)。おじいちゃん・おばあちゃんに会ったり、普段行かないような美術館やら散歩やら。私も一緒に楽しく過ごせた。あと何年、こんな風に過ごせるだろうかと考える。夏休みを共に楽しもうと、私の気合が入る。そして夏休みの終わりを惜しむ子どもと一緒に、少し夏を惜しむ気持ちになる。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉚

2023年08月22日 | 日記

服より大切なのは靴だ。若い頃に就職活動などで無理にパンプスなどを履いていたので、私の足指は少し変形しているし、ねじれている気がする。足を踏み込んでも、まっすぐ足裏に体重を乗せられない。指の側面に体重が乗る感じになる。

今までは何となくサイズを見て靴を選んでいたが、今回男性用でサイズもちょっとだけ大きいスニーカーを履いてみたら、とっても楽~(その時は男性用と気付かずに買ったのだが)。靴の幅が男女で異なるのだろうか?もう女性用には戻れない。あぁ、また一つ女を捨ててしまったのか?…なんてこれまで自分が思っていたサイズは、実は、私にとって小さすぎたのかもしれない。足指のねじれは解消していないけれど、長距離歩いた時、走ったときの疲れが全く違う。

そんな私のスニーカーを子どもが気に入ってしまい、とても欲しがったので、譲ることにした。次の私のスニーカーも、大きめ男性用。

こういうことは、もっと早くに思いつけばよかった。サイズという数字にとらわれ過ぎて、足の声を聞けていなかったんだと思う。いくら靴メーカーや専門家がサイズを示しても、気にすることなく自分の足が喜ぶ靴を選ぼう。私の靴は足先に割とゆとりがある。つまり、専門家の言うところのジャストサイズではないし、その上男性用だ。それでも、その方が負担が少ないと実感している。メーカーが言う足先にちょっぴりゆとりがある靴は、目安にはなっても、私のサイズではない。他人に自分のサイズを決めてもらう必要はないと気付く。

 

私は靴のことだけを言っているのではない。服のサイズだって、似合う色だってそう。もっと言うと、行動も思考も他人からのお着せだというのに、それに気づかず自分を合わせていることはあるまいか。テレビなんてその最たるものではないか。

ある事件や事柄について、どう思うべきか、何を楽しい・面白いと思うべきかという誘導に溢れていると感じていた。余計なお世話だと、テレビを見ながらいつも怒っていた。そんなテレビに向かって起こる私を、子どもたちは嫌がった。テレビをやめて清々した。ふーっ。

自分の気持ちや価値観が、外からの雑音のせいでゆがんでしまったり、それと気付かずに自分の本心だと勘違いしたり…ということは、気を付けていても起こってしまう。いつも、自分の心と体の声に耳を澄まそう。自分の意志じゃないと気付いて嫌々従うのならまだマシで、気付かず外の声を自分のものとして取り込んでしまうと、本当に自分が思っていること、したいことが分からなくなってしまいそう。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉙

2023年08月21日 | 日記

早朝にジョギング(半分は散歩)をするようになった。いつから始めたか忘れたが、台風の日を除いて、もう一週間くらいは続いていると思う。体を動かすことがそんなに好きではない割には、休まず続いている。たかだか一週間と言うなかれ。始めた当初の目標は「三日坊主になりませんように…」だったのだから。もう充分達成した。

毎日、その日思いついたコースを一時間ほど、走ったり歩いたりしている。早朝仲間(と言っても知らない人だけど)は、随分多い。10人と言わず、20人くらいはすれ違っていると思う。近所に、良い散策コースがいくつかあることが大きい。

石畳の小路、見上げると深緑が両脇にそびえていて気持ちが良い。ほかにも、川沿いコース、ゆるゆる山登りコース、比較的新しく造成された隣街のきれいな街並み見学コースなど、本当に飽きることがない。ちなみに街並み見学コースでは、道が直角ではない形で枝分かれしていたりして、危うく迷いそうになった。あぶない、あぶない。新しい感じの町なのに交差点が直角に交わっていないのは、山の形に合わせた土地開発をしたためなのだろう。

 

特にランニングウェアを持っていない。早朝ジョギングが続くかどうか分からないので買う気もなく…というか、続いたとしても買う気はなく、ほとんどパジャマのような(でも断じてパジャマではない)ヨレた出で立ちで走っている。知人に会わなくてよかったと思う。この先も、会いたくはないものだ。

ふと10年以上前のことを思い出す。以前住んでいた家は、目の前がスーパーマーケットだった。便利だったな。そんなロケーションのため、部屋着でつっかけを履いて買い物に行ったりしてた。ある日、店で知人に会った。私の恰好を上から下まで眺めて一言。

「近いっていいわね」

本気か?皮肉か?その時ちょっと恥ずかしかったな~。それ以来、少しだけ服に気を遣った。それなのに、早朝ジョギングでは、誰とも出会わないことを願ってヨレた出で立ち…。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉘

2023年08月18日 | 日記

この夏のある日、実験的に一日だけ晩酌をやめた。ちょっと我慢が必要だったけれど、飲まずに布団をかぶった。翌朝、なんだか胃が軽い感じがした。ちゃんと朝ご飯を待つ胃になっている。気持ちいい。

今日も休肝日にしようかな…と思ったが、そんな急にやめられない。それでも朝の気分の良さを体感すると、休肝日がそれほど苦痛でもないと思えた。昨年までの家庭内トラブルがひと段落し、気持ちが落ち着いてきたことも関係しているかもしれない。一日やめ、二日やめ、酷暑の盛りでも「今日はやめておこう」と言えるようになった。そしてなんと、冷蔵庫にビールを入れるのをやめた。飲もうと決めた日の朝に、一本だけ冷やしておく。こうしてお酒は『週2~3日のお楽しみ』に変化した。缶ゴミの量が激減した。

 

ふと思った。それまではホンモノビールの価格が高いのでウソンコビールを飲んでいたけれど、酒量が半分(以下)に減らせるのなら、本物ビールを飲んだとしても、今までより安く済むのではないだろうか?うんうん。

そんなある日、ホンモノビール1ケースが届いた。とある所からの頂き物。あぁ、なんて(素敵な)悪魔的誘惑なんだ…と思ったが、意外に飲み散らかすことなく、今のところ慎ましやかに嗜んでいる。

 

話を振り出しに戻す。ウソンコビールが値上がりするらしい。でも私、怖くないもんねー。値上がりしたところで、2~3日飲むのを控えれば、値上がり分くらい吸収できちゃうと思うから。逆に安いうちに買いだめする方が、アルコールに誘惑されてしんどくならないかな。この際だから飲酒量をグッと減らして、ホンモノビール派に転向しようかと思案中。そんなに簡単にいくかは、分からない。でも、ちょっと減酒が上手くいくと、こんなにも気持ちの、そして金銭的な余裕が生まれる。

心配してくれた友達に感謝。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉗

2023年08月17日 | 日記

久しぶりにホンモノビールを飲んだ。あ、やっぱり味が違う。ホンモノと思って飲むからなのか、本当に舌が違いを感じているのかは、はっきりしないが、やはりおいしいと思う。酒屋で働いている知人から聞いたけれど、10月からウソンコビール(第3のビールのこと)は税率が変わるらしい。もちろん高くなるんだよね。安くなることはないよなあ…。

精神的にしんどい事が続いていた一昨年、昨年は、毎日の晩酌が欠かせなかった。酒量が増えそうで、自分自身ハラハラしていた。だから、一日の摂取量を決め、それを死守した(死守なんて大げさに書いているけれど、気を許すととこまでも増える予感がしていた)。お酒がないとご飯が食べられなかった。

友達に会った時に、ビールを飲むより牛乳を飲む方が良いと、しつこく言われた。お酒を飲む人ならわかってくれると思うけれど、牛乳はお酒の代わりにはならない。

「子どもじゃないんだから~」

と、笑って聞いていた。だってせいぜい350mlを1缶。たいした酒量ではない。少なくとも、私にとっては。

「少ないからアルコール依存じゃないと思ってるんでしょ?」

そりゃあそうだ。

「でも、やめようと思ってやめられないのは依存だよ」

と言われた。やめようとは思っていないけれど、やめられないのは事実。その場では真面目に取り合わなかったけれど、晩酌の度に彼女の「依存だよ」が頭をよぎる。当時飲まないとやってられないと思うような心のゴタゴタをいっぱい抱えてた。うーん、やっぱり依存してるかも。こんなことを考えながら飲むお酒には、罪悪感という苦みが溶けている。


ちょっと思いついた⑥ 今の私と先の私

2023年08月16日 | 思いついたこと

人生は先が見えない。きっとその方が良い。見えるとつまらなくなるから。

見えないから目標を持てるし、努力したくなる。思いがけないことが起こるから、そのびっくりするような出来事に面白がったり、悔しがったり、悲しくなったり。その経験をしっかり見据えることで、人は賢くなっていく、多分。見えてしまって、その決まったレールの上を走るだけというのは、優勝が決まったチームの消化試合並みに、だるい生涯になりそう。

でも、見えないと不安を感じることも確か。私は、先の人生をきっちり計画したくなる小心者だ。計画したところで、人生は思い通りにならない。頭では分かっているんだけどね。だから、口癖のように、何度も「なるようにしかならない」「その時出来ることをするだけ」とつぶやいて、心に沁みこませる。

そう、人生は思い通りにはならない(つまり先が見えない)。運や縁に振り回されて、自分の意志や努力だけでどうにかなるものではない。そんなの当たり前…なんだけど。

誤解のないように言うと、意志や努力を否定しているわけではない。それが自分の望むところなら、人は勝手に努力する。イラストを描くのが好きな子どもは、言われなくても勝手に描いているし、どう描いたらいい絵になるか考え、練習する。そんな努力は応援したいと思う。ただ、努力の過程に何も面白さや得るものがなく、将来有利になるからというためだけの努力は、不毛に感じる。先の人生が見えないのに、明日交通事故にあうかもしれないのに、今の時間を生きなくてどうする?

 

未来の自分は自分ではない。空想上の自分である。未来の自分のために何かを達成しようと努力したり、お金を貯えたりするということは、今の自分のために生きているのではない。将来いるかいないか分からない『仮想の私』に尽くして、せっせと努力しているということになる。私たちは今、こうした将来のための努力を良しとする(価値とする)社会に生きているが、その価値観を強烈に取り入れてしまうと、いつまでも今の自分のために生きることはできない。生きている自分とは、まさに今の自分でしかないのに、いつまでも私の人生を生きられない。

アリでも、キリギリスでもない、私でいたい。

 

 


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉖

2023年08月15日 | 日記

台風が接近している。今日は直撃しそうな模様だ。今まで運の良いことに、台風で生活に支障が出るほどの被災をしたことは一度もない。家族も、家も、私の周囲で困ったことが起きた経験がない。警報が出て学校が休みになるかな…?だとか、夜中の大風に、心がワクワクするなんてことがあったくらい。

もういい大人になってから、台風で物干し竿が落ちてきたことがあって、そこで初めて台風準備を意識しだした。

昨日は竿を下ろしてベランダを片付け、何かあっても調理しなくてもいいよう、食事・お茶を多めに作った。風呂の水を残した。思いつくのはそれくらい。被災経験がない想像力は、とても貧弱なのかもしれない。

昨日職場の人と、電気が止まったら、断水したらと、シュミレーションしてた。ガスが止まったら…お風呂は入れないけど、水シャワーで何とかなるか(夏で良かった)?食事は2~3日は作らなくても、飢えることはない程度に準備した。水道は?飲み水とトイレが最重要。飲料水を汲み置きして、ふろの水は残しておけばいい?電気は…一番困るかな、まず冷蔵庫が。PCは電源が落ちたら、後が面倒かもしれないが、うちの場合、すぐ生活困難に結びつくわけではない。照明はなかったら、さっさと寝るだけ。懐中電灯があれば、トイレくらい行ける。それ以外は電気が来なくても何とかなる気がする。家が流されたらお手上げだな、なんて考えてた。

普段慎ましく暮らすと、非常事態にも強い(だからって慎ましく暮らすことを押し付けているわけではない。どう暮らすかはそれぞれ)。低所得者万歳(笑)!こういう時ばかりは、私が勝った(?)と思う。失うものが少ない。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉕

2023年08月14日 | 日記

月を見るのが好きだ。毎日姿を変え、大きさも変え(ているように見える)、頭上から光を降り注ぐ。田舎に住んでいるためか、月が明るい。お月見をしていると、眩しくさえ感じる。

不思議に思うのだが、月を見ているとなぜか心が浮き立つ。三日月、満月、十六夜…どんな形の日でも、「月がきれいだよ」と言って回りたくなるし、実際に言っている。その時、一緒に浮き立ってくれる人がいないのが残念。私は前世でオオカミだったんだろうか?いやいや、満月でなくても嬉しい気分になるので、オオカミじゃないか。

 

月は、今日の失敗を慰めてくれる。愚痴を聞いてくれる。明日へ期待している自分を、見守ってくれる。そして涙が出そうになる。別に悲しい訳じゃないんだけど。どうして月を見るとこんな気持ちになるのか、いつも考える。結局分からないまま、気付いたら月を見ながら眠っている。

昔、心理療法をしていた頃のこと。ある特定の子どもの箱庭の最中だけ、どうしても抗いきれない眠気に襲われていた。私の先生から「それには何か意味があるんだよ」と言われた。考えようとすると睡魔に意識を連れていかれていた。そんなことを思い出した。あの子はどうしているだろう?

 

気候の良い晴れた夜はゆかしい。蚊取り線香にいぶされながら、擦り切れたキャンプ用椅子に座って(それにしても最近の椅子は、なんて座り心地がいいのだ!)お茶時々ビールを片手に、ぼんやり空を見上げる。月に会えた嬉しさと、自分が抱える不安や悲しさ、楽しかったこと、いろんな気持ちがないまぜになった、名前のない感情を抱えながら。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉔

2023年08月11日 | 日記

昨日、『一駅歩いた分を貯金して日帰り温泉!』と意気込んで書いた…が子どもが一言。

「そんな簡単に貯まるわけないじゃん」

えー、そうかな?私が少しがっかりしていると、

「まあ、楽しみがあった方がいいからねえ。ゆっくり貯めたら」なんて慰められた。ただでさえジョギングが続けられるか危ぶんでいるのに、楽しみというか目標が遠い彼方になっては、私のやる気が萎えてしまう。まずは日帰りの距離でハイキングと温泉(風呂)が楽しめる場所を探そう。ハイキングじゃなく、神社の散策でもいいな、など、自分が美しい山や、手入れの行き届いた庭園を歩く姿を想像する。日帰り旅行で歩き回り、さらに鼻歌を歌って晩御飯を作れることが目標。「疲れた」ではなく「面白かった」と言える旅がしたい。

いつまで早朝ジョギングが続くことやら…と思っていたら、案の定、今朝はなかなか起きられなかった。2日目にして、これだ。体力をつけるんでしょ、元気になると面白いことがいっぱいできる、なんて自分を励ますが、起きられない。結局、ここでジョギング宣言をしたことが、一番大きな動機付けになった。毎朝走ると言い放ったんだから、もう少し続けようって…いい格好しいだな。

近所を歩いたり、走ったり。近所と言っても私は地元の人間でないので、普段生活している範囲しか道を知らない。通ったことのない道を選んで、あっちへふらふら、こっちへふらふらしてみる。看板は見たことがあるのに、建物を見たことのなかった保育園、びっくりするような豪邸や急な坂道。自分の住んでいるところなのに、全然知らないことばかり。道の先が気になる。ハイキングの前に、自分の町をもっと知るのもいいなと思う。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉓

2023年08月10日 | 日記

何をしてもすぐ疲れれてしまう程、体力が落ちた。多分年齢のせいと言うより、体を怠けさせたせいだと思う。そもそも体を動かすことが特別好きではないし、暑い、そして寒い中、わざわざ出かけていく気にもならない。出来ることならお家に引きこもっていたいくらいなのに、何故わざわざ疲れることをする?と、こんな調子で過ごしてきた。

近所の人に、スポーツクラブへ行こうと誘われたが、迷いなく断った。またある人から、一緒にジョギングとも言われ、別の人からはケガをしないようにジョギングのメニューを考えてあげるとも。走るのはしんどいよ。元気な友人が多い、まったく。

 

そんなこんなで今まで来たが、やはりこの辺りが限界か、ちょっと遠出をしたり、いつもと違う種類の外出をするとぐったりするようになった。仕方がないので、少し運動をすることにした。いつもより少しだけ早く起きて、近所を走る。歩く、走るをしながら見回すと、犬の散歩、ランニング、家の前の掃除…思ったよりたくさんの早朝仲間がいるもんだ。新入りの私は、黙ってぺこりとお辞儀して通り過ぎる。

体力をつける目的とは言いつつ、疲れない程度に外をうろつく。疲れるまで走ると、三日坊主になりそう、きっとなる、絶対。なので、気分良く帰れる頃合いが良い。それでも、継続できるか不安だな。走るのが辛かったら、自転車でもいいかとちょっぴり考えている。最終、軽い(ハイキング程の)山登りをして、温泉に浸かって帰る…くらいの楽しみが出来たらいいとぼんやり計画する。ジョギングがてら通りすがりの神社で手を合わせたご利益か、朝からいいことを思いついたと嬉しくなる。体力がついて、一駅歩く、車の代わりに自転車を使うようになれば、その浮いたお金で旅行貯金ができるぞ?地球にやさしく自分に楽しいアイデアだと思う。朝のジョギング(散歩)に目的が出来たので、しばらくは続けられそう。

前にも書いたけれど、体力があれば人生はより楽しめる。逆に体力不足は、本人の気力も削いでしまうので、何を見ても感動できなくなるし、興味が失せてどうでもよくなるのだ。手っ取り早く良き人生を送るには、気力を充実させて頭を空っぽにすることなんじゃないかな→何故空っぽ?それはまたそのうち。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉒

2023年08月09日 | 日記

幼いころから汗っかきなので、年々酷暑になっていく夏は辛い。暑さもつらいのだが、自分の汗のかきっぷりにしんどさを感じる。においや汗染みも気になる。更年期になると体がほてって、汗をかくというけれど、私は子どもの頃からずっとこの調子なので、更年期なのかどうかさっぱり分からない。とにかく朝から晩まで、汗っかき。

家を出る前にシャワーを浴びても、外に出た途端、汗だくだくで、もうどうしようもない。かぐわしい香りで上書きするか、制汗剤をつけるか…?きっとみんなそんなところだと思う。でもね、暑いのに汗をかけなくする…その理屈が私には納得できないし怖いので、使っていない。割と一般的に広まっている制汗剤を使いたくないと感じてしまうのは、私のかたくなさかもしれないけど。でも、納得できないものを身に着けるのは気持ち悪いと思う。スプレーでも、化粧でも、食べ物でも。その上、スプレー缶はゴミ出ししにくい。今のところ、自作のハッカスプレーで涼を感じながら、匂いの上書をしている。

 

汗臭さや体臭をごまかす手立てとして使われる香料が原因で、近頃、香害という言葉が聞かれるようになった。合成された香料によって身体不調に陥るそうだ。私も不調とまではいわないが、あの香りは苦手、いや、嫌いだ。ドラッグストアや、ホームセンターの中は、あの香りであふれていて、ちょっと気分が悪くなる。運の悪いことに、ご近所さんの排水から(もしかして洗濯物から?)強烈にあの匂いが上がってくる。そこの住人は平気なのかな?

汗臭いのも、合成香料が臭いのも、どちらも気分が悪い。でも汗臭いほうが、病気やアレルギーの原因にならないのでまだましだと思うけれど、そんな理屈、誰も良しとしないだろうな…だからと言って、汗臭さを肯定している訳じゃないが。ただ、まだマシと言うだけ。

夏は汗をかくのが当たり前っていう常識をもっとみんなが共有できたら、もう少し悩まずに済むのに。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉑

2023年08月08日 | 日記

子ども達は、粉もの料理が好きだ。焼き菓子、パン、ピザ、麺類。私の方針(と言うほど大層なものでもないが)で、食費は、手作りである限りケチらないと子供に伝えている(それ以外のお金はしっかりケチる!)。なにせ、食べ物が私たちの体を作るのだし、体が充実していないと気力も落ちる。よりよく生きるには、まず食事だと思う。そして、おいしいは幸せな気分に直結している。うん、うん。

近頃、子どもはピザをよく作る。強力粉に油や塩、水を混ぜてコネコネする、あのピザだ。昔ホームベーカリーを持っていた頃は、ベーカリー君に任せて生地を作り、たまに焼いていた。で、今は全く作っていない。そんな作ってくれない母ちゃんに見切りをつけて、自分で作り始めたというところか。子どもたちは、今、ベーカリー君がいないので、自分でコネコネしている。作り始めたころは、その辺中に粉をまき散らし、作るのも、掃除も大がかりだったもんだ。それが数カ月のうちに腕を上げ、スマートに、気軽に作ってくれるようになった。

慣れるというのは、こんなにも作ることへのハードルを下げるのか。今度作り方を教えてもらおうと思っている。子どもに教えてもらえるなんて考えると、ちょっと嬉しくなる。

 

中高生にもなると、自分の興味のあることや志向の強さによって、技や知識の幅をどんどん広げていくようになる。ピザに限らず、子どもにかなわないと感じる技術が、うちにはいくつかある。ちょっと前までチビッ子だったのに…。親がいい加減でも、子どもはちゃんと『好き』を見つけて実行している。頼もしくてうれしい。

うちが裕福ではないお陰で(!)、手仕事をマメにしたり、自分が本当に好きなもの、必要なモノをじっくり吟味する習慣が身に着いたのかもしれない。こうして身に着けた習慣が子ども達の人生に良いご縁(人でもモノでも)をもたらしてくれることを願っている。