昨日の続き。
私というものが何を指しているのか、実ははっきり示せないという困った事態になった。おかしなことを言っていると思われるかもしれないが、もともと『私』というものが定義づけられないなら、『私』はないのと同じことになるのか?じゃあ、こうして考えている『私』は何なのだ?
もう一つおかしなことを言う。『私』がないのなら、私は何も所有していない。だって、ないもの(私)は何も所有できないからだ。ということは、失うものは何もないはず。所有していると思っている『誤解』があるだけ。惚けようが惚けまいが、怖いものなしではないか。あれ?昨日の冒頭で、惚けるのが心配と書いたが、思わぬ形で解決した。何も所有していない私は、心配しなくても何も失わない。
…自分で書いていて、狐に化かされたように感じている。
でも実際問題、何が怖いって、自分の尊厳が惚けて失われる気がするのが怖いのだ。それが耐え難い。でも自分というものが何を指すのか分からないのに、尊厳も恥もない。それでも…。
私というものが分からないのに、私は良き人間であろうとか、佳き人生を送ろうと奮闘している。そうしようとする主体(私)は、何なんだ?
だんだん沼にはまって、話が回収できなくなってきた。回収は諦めて、違う観点で話をしてみる。
日本は衛生環境や医療技術の向上で、長寿が叶いやすい国になった。なんと、めでたい。おめでたいはずなのに、長寿がもとで痴呆になる可能性も増したのだろう。
残念なことに、年寄りの割合が増えたからって、社会がのんびり回るようにはならない。年を追うごとに経済性・効率が至上命題となって厳しく私たちにのしかかる。
そして、その痴呆は商売になり、惚けないためのお勉強ワークやら、○○レッスン、サプリメント等々が登場した。人の不安がある場所には儲け話が潜んでいる。そう考えると、ちょいと嫌な気分になる。好きでお勉強ワークをするのなら楽しくて良いが、惚けないようにと不安に駆られてするワークは受験勉強並みに苦しい。ワークをした時の私と、しない時の私を比較できないのに(つまり、効果なんて分かりっこないのに)面白くないワークを継続するのは、私には難しい。それなら、その時間は自分の楽しみのために使いたい。もう一度言うと、自分の不安を鎮めるために人生の時間とお金を費やすより、好きなことをして、好きな人と会って過ごす方が良い一生を送れる気がする。