たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

ちょっと思いついた⑫ 運の貯金

2023年09月20日 | 思いついたこと

3連休が終わった…と言っても、私は毎日出勤。たとえ出勤でも、こうして毎日出掛ける用事があるのは悪くない(家に引きこもるのも好きだが)。

 

仕事は毎日同じことの繰り返しがほとんどだが、それでも風景は毎日変わる。その日のメンバーの体調や気分、仕事量の多少、イレギュラーな事象、それによって少しずつ変化がある。そして何より私の職場は自然豊かなところにあるので、季節や天気によって景色が違い、私を慰めてくれる。なのでそのお返しに、時間があるとき人知れず周囲のゴミ拾いをして(ゴミならぬ)徳を集める。

何だかこっそり徳を積む(ゴミ拾いをしているだけなんだが)ことで、ヨイ人になった気分。私の中の徳貯金がチャリーンと音を立てる→いつもヨイ人でいる訳ではない。気が向いた時だけ。

 

『ちはやふる』というコミックの中で、主人公と同じかるた部のかなちゃんも、他人の脱ぎ散らかしたスリッパを整えることで、運の貯金をしていたことを思い出す。そんな迷信を笑う人もいるかもしれないが、私は『そういうものかもしれない』と感じている。それに、ヨイ人の気分になることは、単純に嬉しい。

自分の気分がすごーく落ち込んでいるときと、とても前向きな時、この両極端な時に徳貯金をしたくなる(今回は落ち込み型)。だから、気まぐれ貯金。なかなか預金高が増えない。

 

徐々に気候が良くなってきて、仕事以外にも出かけてみようという気になる。せっかくの秋なので、神社巡りついでに美しい庭園でも…と思う。早速図書館で、神社・仏閣の由来や庭の説明などが書かれている本を借りてきた。有名どころは、あまり紅葉が深くなると大混雑するので、きっと今がタイミング。落ち込んだ自分を、神様の領域で見つめ直してこよう。


ちょっと思いついた⑪ 受診圧力

2023年09月19日 | 思いついたこと

昔と違い、体調不良に対する周囲の視線が厳しい。コロナ以降は、特にそう感じる。人にうつす可能性がある病気の場合は、出歩く(出勤する)と厳しく非難されるようになった。ちょっと前までは、体調が悪くてもそれを押して出勤することが真面目と言われていたのに。以前から、病気によっては空気感染するという知識があったにもかかわらず…だ。世の風潮は変化しやすい。

さて、体調不良の出勤が、勤勉さと結び付けられて褒められること、感染をまき散らすとして敬遠されること、どちらの社会的圧力も決して病人の心配をしているわけではない。前者は、周囲が病人の担当している仕事の負担を負わずに済み助かるし、後者は、周囲の人たちの感染リスクを低減する。単にそういう意味だ。

 

インフルエンザの流行で学級閉鎖とするのは、そうすることで感染拡大をある程度抑えることができるから。それはよく分かる。でもちょっと辟易していることがある。発熱して学校を欠席すると、すぐに学校から連絡があって

「病院へ行きましたか、検査しましたか」

と聞かれる。病院へ行っていないと、遠回しに『行って検査をしてほしい』と求められる。おそらく感染症に罹患した頭数をカウントし、出席停止期間を定めるために。

私は医者ではない、ただの親だ。専門家ではない。でも、熱が出たら何でもかんでも病院で検査するというあり方には首をかしげてしまう。子どもの様子を見ながら、まだ家で様子を見ようだとか、熱はないが様子がおかしいので早目に受診しようという勘働きや、子どもへの丁寧な観察がそこにはない。子どもの機嫌や食欲など全体を見て判断する能力が失われてきたのか。それともそういう判断に価値がなくなってしまったのか。子どもを見ずに体温や数値と検査結果を見て分かったつもりになるのは、どういうことだろう。

繰り返すが、私は医者ではない。だからこう書くと、子どもにもしものことがあったらどうするのか、無責任じゃないかと非難する人も出てきそうだけど…。

私はあまり病院には連れて行きたくないのだ。病人を疲れさせ、他の病気をもらうリスクを負い、必ず投薬される。(病院に行かず自力で治せる場合でも)受診すれば薬が出てくる。お土産のように。おそらく世の受診者はそう求めているから、そうなったのだろう。それもちょっとモヤモヤする。


ちょっと思いついた⑩ 失敗の効用

2023年09月15日 | 思いついたこと

小心者の私は、失敗するととても落ち込む。こんな時、あぁ出勤したくない、隠れてしまいたいと、心の中で身もだえする。私の真面目そうな外観(でも実は、ちょびっと真面目で、大半はいい加減で忘れっぽい)が災いして『一見デキそうだけど、ダメダメさん』という、相手をがっかりさせるポジションにいると感じている。特に失敗したときの自分はそう感じる。本当に隠れてしまいたい…。はぁ~。

失敗するたびに、次は失敗しないようにと対策を考えるけれど、自分では思いもよらない落とし穴にはまる。あとで思い返して、何故こんなことをした?!と、自分でもびっくりすることをやらかす。私はミスのデパートだ。こうして書いていると、恥ずかしくなる。今のところ、大きなトラブルは回避できている(と思う)のが救い。

自分のミスを意識するのは辛いが、それでも良いこともある。他人のミスに対しておおらかになれることだ。人が失敗してもあまり腹が立たなくなってきたように思う。まあお互い様だよねって、笑って済ませられるようになった。もっと早くにこの境地に達していれば、子ども達に対して怒ることも少なくて済んだのにって思う。他人に腹を立てない生活は楽だ。

 

失敗同様、自分の弱点(欠点)に自覚的でいると、相手の弱点に出会った時に少し寛容になれる気がする。自分の弱点を認めることは、自分にがっかりすることにつながるので悲しくなるけれど、その悲しみが相手に対する優しさをも生むのではないか。そんなことを考えていると、なんだか周囲のみんながイイ人に見えてくる。そしてイイ人に囲まれた私は、なんて運がいいのだろうと嬉しくなる。

そういえば、この前職場の人との会話で「イイ人ばっかりで、楽しく働けてる」と、お世辞でなく本気で言ったらビックリされた。「イイ人ばっかり??○○さん(私のこと)は、イイ人に出会ったことないんじゃない?」と。うーん、そうかな?うちの職場、比較的穏やかな人ばかりだと思うんだけどな。でもまあ、そう思っていれば、腹を立てたりイライラすることも減って、生きるのが楽になる。

 


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㊱

2023年09月14日 | 日記

臨時収入で買ったごちそう肉を食べた。久々の焼肉!

久々過ぎて、どんな野菜を一緒に焼くのか忘れてしまった。もやしは買い忘れ、玉ねぎも切り忘れてた。頭の中は肉ばかり。

焼肉のたれを作る。といっても、分量は適当。玉ねぎ一個を細かく刻んで、ごま、ニンニク、ショウガ、細ネギを水、醤油と梅シロップで煮て、ごま油を少し。食べるラー油みたいな感じで、具ばかりのタレ(タレというのか?)。大根おろしも入れればよかったと、後で思いつく。次の焼肉がいつになるのか分からないので、忘れてしまいそう。

自分のうちで焼肉をすると、何故かお店よりもあっさりした焼肉になる。家でもお店でも、焼いて出てきた油は捨てているはずなのに、何が違うのだろ?焼肉に限らず、ギョーザでもハンバーグでも、さっぱりした出来上がりになる。すると、どうしても食べる量が増える。今は落ち着いたが、一時期は1回に100個以上ギョーザを作ってた(あんまり食べるので、野菜の分量多めの緑のギョーザを作った。これは不評で「もっと肉の入ったギョーザがいい」とリクエストされたこともある)。

ところで、詳しくは分からないが、牛肉には多幸感を感じさせる物質(ホルモン)の原材料が含まれているらしい。それが、満足感につながる…という。けどね、牛肉なら何でもいい訳ではないと思う。申し訳程度に牛が入っているコンビニエントな食べ物(それが何なのかは言えないが)を手早く摂取する食事に幸福を感じるだろうか?多幸感を味わえるので牛肉を!という宣伝、ちょっと野暮だなと思う。

ホルモン云々は事実かもしれないが、多幸感の大元ではない。整った食事、食卓のメンバー(一人でこっそりおいしいものを食べる食事も、幸せなんだけどね)、食事への期待や空腹感、こうしたものが多幸感に大きくかかわってくる。

次の焼肉、いつになるか分からないけれど、それまで頑張ろうって思う。


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2023年09月13日 | 日記

今住んでいる家に越してくるまでは、何もトラブルにならなかったのに…というベランダスリッパの話。

この家に移って来て、これまで通りベランダスリッパを置いた(以前仕事場で使っていたもの)。よく中高生が上履きとしてはいている、トイレスリッパのような素材。

夏あたりから、スリッパは履くのもアチチな状態になった。これまでの家よりもひさしが短いのか、スリッパに直射日光が当たっている。熱すぎてピョコピョコ跳ねながら洗濯物を干す。そしてそのスリッパ、気のせいかだんだん小さくなっている様子。小さいため、きちんと履くと足が痛くて…仕方ないので、つま先で引っ掛けてピョコピョコ。縮んでる?そんなことってある?不便ながら使い続けていたら、遂に2/3程の大きさになってしまった。

 

そんなある日、近所のホームセンターに行ったら、スリッパの売り場に『日光で極端に縮むことがある』と表記されていた。…そうなんだ。すっかり縮んで反り返ったスリッパ、もう履くのは無理なので、飛び石のようにしている。

そこでもう一足、子どもが高校時代に履いていたスリッパ君に登場してもらった。この夏、スリッパ君にはかなり活躍してもらったのだが、やはり縮んだ。またまた、つま先でピョコピョコ。うーん、何か良い方法はないか?これまで、ベランダスリッパで悩んだことなんてなかったよ。このままだと、夏を超すたびに買い替えが必要になる。それは私の主義に反するぞ。

毎年使い捨てにならない方法を考えている。まだ良い案はない。とりあえず『つま先で引っ掛けてピョコピョコ』は続く。


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2023年09月12日 | 日記

久しぶりに街へ出た。外国人観光客が少しずつ戻ってきている。

交通費を浮かせるためと健康のために、最寄り駅から少し離れた駅で下車。よく歩いた一日だった。書きながら少し眠い。

 

さて、ネットニュースのヘッドラインで、物価の値上がり、生活の困窮についての記事が躍る。が、実際の生活で、そこまで大騒ぎするほどじゃないと感じていた。でも、それは田舎で生活しているから、生活への打撃が少なかったのかもしれない…というのも、街でいろんなサービスを受けてみて、その値段の高さにびっくりしたのだ。ランチを食べる、電車で移動する、買い物をする…財布の中身があっという間に消えていく。どんなマジックか??と思う。

この夏、人出不足で休日や時間外に仕事をした。ちょっとだけ臨時収入があったので、おいしいものでも食べようと、街へいいお肉を買いに行っただけなのに、軍資金の減り具合に驚いて、気持ちよく買い物ができない。ドキドキ。

それでも一緒に行った子供たちに見栄を張って、肉を買いこんでしまった(帰りの電車賃がギリギリだったことは内緒)。こんな綱渡り的な芸当も、後から思い返すと笑えてしまう。

 

そんなことがあって思う。田舎で自炊して慎ましく暮らすってことは、物価の影響を受けにくい。だってキラキラしたお店がないので、欲望が掻き立てられることはないし、基本的にいつもの食材でいつもの料理を作るだけなのだから。水道光熱費も、意識するだけである程度下がる。だから、一食1,600円のスパゲッティにタマゲてしまう。自分で作ればいくらでできる?って考えてしまう。しかも、もっと私好みの味にできるぞ。

それはそうとして、せっかくのごちそう肉、お金のことを考えずおいしく食べたいと思う。久しぶりの焼き肉、しっかり腹を空かせておこう。


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2023年09月11日 | 日記

迷っていることがある。もう数カ月くらい、するかしないか迷っている。

それは、音楽配信サービスに申し込むか…ということ。なーんだ、そんなことって思われるかもしれない。モノやサービスを買う前に、それが本当に要るのか、したいのかをいつまでも考え続け、決断しないのは、私の癖(楽しみ)だ。音楽好きだけれど、そうそうCDが買える訳でもなく、でも聞いてみたい曲はいくつもある。たくさん聞けると思うと、貧乏性の私はあれこれ欲張ってしまい、じっくり聴けなくなってしまいそう。聴かなきゃ損とばかり、曲数を気にしそうで嫌だな。余裕のなさは、私の嫌な一面だ。

 

だいたい、○○放題というのは(私にとって)曲者だ。食べ放題、携帯のかけ放題、映画見放題…どれも私の欲望を刺激する。たくさんサービスを利用しないと勿体ないと思ってしまい、楽しめる適量が自覚できなくなる。楽しめなくなるほど過剰な娯楽は、それこそ人生を損させる。それを誤楽という(うーん、ウマい!?)。

こんなことを考えてはいるが、おそらくここに書いている時点で9割がた、加入しようと思っている。どの会社もだいたい月に1,000円程度。それが高いのか安いのかは、自分の気持ち次第。

 

ところで、何故サブスクのことを言い出したのか。数年前にある演奏家のピアノCDを買った。とある作曲家のソナタ全集、全部で10枚くらいのセットだった。高かったのよ、結構。それなのに、聞いてみたら、私の好みの演奏ではない。慣れるかと何度も聞いたけれど、どうも好きになれない。高い出費だったのに、ガーン。…こういうことがあると、配信サービスの方が安心できる。好きな演奏に出会えるまで聴けるから。

もうひとつ。先日あるコンサートへ行った。それまでオーケストラにあまり関心がなかったけれど、縁あって、ゲネプロの現場から見せてもらえた。奏者の息遣いまで聞こえそうな現場で、曲を聴き、迫力を肌で感じ、ラフな格好なのに曲はぴたりと決まるそのギャップに魅せられてしまったのだ。格好いい!

コンサートの曲目は、組曲の中の有名どころのピックアップだったが、これを聴いたからには全曲味わいたいと思うよ。そして、同じ作曲家のほかの曲も聴きたい。

こんなことがあってからずっと、サブスクに加入しようか迷い続けている。加入して暇さえあれば聴いている自分を想像している。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㉜

2023年09月08日 | 日記

夏休みも終わり、通常運転に戻る。先日家の整理をした。子どもが不要という服や靴をリサイクルショップへ持って行く。子ども達は、夏を越えると体も足も大きくなる。以前はシーズンオフの服も引き取ってくれたのに、今回はシーズンが合わないという理由で断られた。半年ほど家に寝かせておかなくてはいけない。

私は、子どものように売れるような服は持っていない。この夏は、生地の古くなったものを切り刻んで雑巾にしたり、その辺で棒を拾ってきて、はたきを作ったり…。お下がりでいただいたノースリーブに袖を付け、スカートのウエストを詰めた。洋裁なんてほとんど知らない(せいぜいボタン付けや裾まつりくらい)けれど、あれこれ考えながらやってみると、下手なりにも何とか形になる。嬉しい。縫い目を細かく見なければ、外出だってできる。

はまるほど洋裁が好きになる訳ではないが、まだ着られる服を捨てずに済み、服を買わずに過ごせるのは嬉しく有り難い。理由は2つ。まだ着られる服を捨てるという罪悪感を覚えずに済むこと。そして服を買いに行かなくて良くなること。

若い頃は服選びも楽しかったなあ…。でも、子どもを育てている間は汚れてもいい格好ばかりで、気が付くと中年に。そしてこのお年頃になって、どこで服を買ったらいいか分からなくなってしまったのだ。そしてどんな服を選んだらいいかも分からなくなった。買いに出かけても疲れるばっかりで、ちっとも楽しくない。億劫なのだ。これがオバサンになるということか。

若い頃は、何を着てもそれなりに似合うんだな。そりゃあ服選びも楽しいさ。齢をとると、似合うの幅が狭くなる。色にしても、形にしても。それでがっかりする。

ふと思い出した。昔読んだ本『フランス人は10着しか服を持たない』。当時話題になって続編まで出たので、知っている人もいるだろう。主人公が描くフランス人マダムは、決まった形の服をいつも着ている。一番似合って、品よく見え、好みのスタイルなのだろう。その時は定型化した服選び、それがちょっとつまらないと感じたが、今は違う。そんな手があったか!って感じ。それなら、買う時も毎日の服選びも悩まず、見栄えも良く、ご機嫌でいられると思う。マダムに倣って、自分が気に入っていて、貧相でなく、似合うスタイルを探してみようか。