不満があるから、満足がある。逆もしかり。
幸福があるから、不幸がある。逆もしかり。
考えてみたら、幸福だけが単体で存在するわけはなく、不幸との対比で幸福が存在する。不満も同じで、満足する状態が想定できるから、不満が湧き起こる。
同じことをもう一度。神社へ行くと、幸せであるように神頼みをする。でも、幸せが単体で存在するわけではなく、今の状況と(あるいは過去のある時点と)比較したうえで幸せを想定する。言い古された言葉だけど、コインの裏表のようなもので、幸福は必ず不幸とセットで存在する。神様と悪魔も同じじゃないか。神様だけでは存在できず、悪魔があって初めて神様が現れてくる(逆でもある)。もっと言うと、神様と悪魔は同じ存在を別の視点で見た姿かもしれない…と、ぼんやり思う。これは、またの機会にゆっくり考えよう。
幸せでいたいのなら、自分が幸せだと気付いていれば(確信していれば)そして不幸に気付いていなければいい…のではないか。当ったり前~すぎて「そんな馬鹿なこと!」と言われるかもしれない。でも、そうなんだと思う。ある時点と比べてないことに気付いてしまったり、常識っぽいものに煽られて不足を気付かされてしまうことが、不幸のはじまりなんじゃないかな。常識ではなく、常識っぽいところがミソ。
宗教に詳しくはないが、悟りを開いた者がいく極楽。すべて満たされた極楽という世界は、退屈なのではないかと想像したりする。常に満腹の人は、食事の楽しみを知らない。それと同じで、すべて満たされた世で淡々と過ごす魂は、幸せを感じるのだろうか?悟った魂でないと、極楽という平和で淡々とした世界に耐えられないのかもしれないと思う。だから、極楽は解脱した人のみにひらかれているのか、なんて思う。
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