たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

ちょっと思いついた⑰ 老後のこと

2023年10月31日 | 思いついたこと

前回は、老人の側から『老人の悲惨』系記事の反論を書いたが、逆に社会の側からも考えてみる。

老人は生産性が低い(これは経済だけをとらえた、とても狭い範囲での考え方だが)という理由から軽く扱われがちだ。どちらかと言うと生産性より、消費者であることに価値を置かれている気がする。こんな在り方も、老人の無力感を助長する。生産性の話をすると、お金を稼ぐ奴が一番偉いのかって議論につながりそうだが、それは一旦脇に置いて、素直に生産性について考える。

 

お金のように数値に見えるものではない生産性があることを、政治家を含め多くの人は見逃している。

例えば『女性が輝く社会』だっけ(ちょっと古いか)?こんな耳障りのいい言葉に誤魔化されて、女も働こうという考え方が前面に出てきた。悪くない。それを望んでいた人にとっては。

でもその裏返しとして、お金にならないことをしても輝けない?生産性が低い?価値が低い?そんな暗黙の前提条件を付けられた気がする。これまでは主に主婦が担ってきた地域活動やPTA、ご近所との連携…これらはお金に換算できない。しかし、地域の安全や住みやすい社会に貢献してきたと思うのだが。これは目には見えないし、なくなってすぐにそのありがたさが実感できるものではない。しかし暫くたつと、失ってしまった無償の社会貢献に気付く。それはほんの小さなこと、例えばゴミ捨て場が荒れてくるという、ちょっとしたことから始まる。

 

同じことが老人にも言える。地域の知的・文化的財産や知恵を継承すること、家庭内での役割、成熟のモデルになること…もっと言うと、このセカセカした社会のスピードを緩める制御装置の役割もあると思う。ちょっとくらい老人がモタモタしても、深呼吸して「ま、しょうがないね。ゆっくりどうぞ」くらい言えるゆとりを取り戻したい。老人のモタモタを『自分の焦りに気付き、落ち着きを取り戻すきっかけ』と考えたら、世の中の苛立ちや怒りも減るのではないか。だって、思い出してほしい。そのモタモタは、明日の我が身なのだ。私は、老人になって認知や動きが鈍くなっても「ま、しょうがないね。ゆっくりどうぞ」と言って欲しい。怒鳴られ、家に引きこもるのは嫌だ。これは、我儘じゃないと思うのだけど、どうだろう。

家や施設に老人を押し込めるのではなく、外に扉を開けていけばいい。世の中にはいろんな人がいるのだと分かれば、皆、自分はこれでいいんだと安心できる。そしてその先に、みんなが住みやすい社会が続いている。こんなふうに単純にはいかない?私は(私を含めた)皆次第で、できると思う。

文化や知恵の継承、教育的モデルなんて抽象的な価値は、生産性にはカウントされにくいけどね。

そんな訳で、私は今日も「ま、しょうがないね。ゆっくりいこう」と相手にも自分にもつぶやく。

 


ちょっと思いついた⑯ 老後のこと

2023年10月30日 | 思いついたこと

前回、齢をとることに悲観的な内容の多い昨今のネット記事に、文句を言ったところで終わった。

そんな記事の代わりに、威張るでもなく悲観するでもなく、当たり前のこととして加齢を考えたいなと思う。齢をとる(そこまで生きられたこと)は、本来寿ぐことであるし、素直にめでたいと感謝できるような考え方を私はしたい。

もう20年位前の話だが、我が子と同じ幼稚園に通っていた子どものおじいちゃんのこと。毎朝園バスを見送りに来ている、その顔が実に素敵で、良い人生を送ってきたんだろうなと想像させる感じだった。こんなふうに年を取りたいと、密かに思っていた。

つい半年前にも、とある写真展に出品されていた作品に、見入ってしまう様ないい顔のおばあちゃんがいた。しわだらけなんだけれど、このしわがなかったら、こんなに味わい深い表情にならないだろうな…。おばあちゃんも、カメラマンも素晴らしいとその時思った。

 

ろころで、悠々自適だとか、楽隠居の意味をもう一度考え直した方がいいと感じる。これらの言葉を『(もう社会の役割を果たしたのだから)これからは、お客様人生で過ごそう』という意味で使っていないだろうか。こんな世のコマーシャルに惑わされてはいけない。旅行に行って、ご飯は作ってもらって、退屈は誰かに紛らわせてもらうような生き方は、虚しさと隣り合わせだ。外から与えられるだけの刺激は、慣れてくると退屈を感じ、さらに強い刺激を求めてしまう。そして、どこかで破綻する。そんな消費するだけの(やってもらうだけの)過ごし方をしてはいけない。

結局、『老後の悲惨』系の記事は、こうした消費ばかりの生活ができないことに対する『悲惨』なのだ。でも私は、消費ばかりの生活の方が悲惨だと思う。悲惨というより空虚と言った方が近いか。

単にお金を払って、刺激を求め、世話をしてもらう生き方は楽しい?刺激をさらに強く求め、生活能力を失っていく、その先にあるのは虚しさではないのか。

そんなことを考えながら、自分で掃除をして、食事を作るよう、うつうつ閉じこもる親に伝える。


ちょっと思いついた⑮ 老後のこと

2023年10月27日 | 思いついたこと

『仕事を隠居して、悠々自適に人生の残り時間を過ごせる老年期』なんてものを夢見る世は、もう終わったのだろうか。

周囲の人から、ほどほどに敬われて過ごす時間。これまでに培ってきた知恵や経験を、自分なりにまとめる時間。そして世間を少し離れた立場で、生き死にを考える時間。

引退してこんな豊かな時間を持てるのは、なんと運の良いことなのだと思う。生まれてから老年に至る間に、さっさと人生を終えてしまう可能性はいくらでもあったのに…なんて思う私は、能天気なんだろうか。

近頃のインターネットの記事を眺めていると、下流老人だの、老後破綻だの、気分の悪い言葉がいくつも出てくる。人の人生に対して敬意もなく不安をあおるようなタイトルを見ていると、イラっとする。世の老人がそんなくだらない記事に惑わされることなく、充実して過ごせる風潮になるといい。

 

なぜこんなことをいうかと言うと、自分の親が老年になって、仕事を引退し、すっかりうつになってしまったからだ。これまでの人生、仕事しかなかったという訳ではないが、人間関係とは、積極的につながろうとしなければ、疎遠になってしまうのだろう。家に引きこもり、実際には心配しなくてもいいことに、いちいち不安を感じ…例えば、家が古くなって倒壊するだとか、迷惑電話に怯えるという、私から見たら妄想のような不安で一日を過ごしている。しんどいだろうな。

冒頭で怒ったような、下流老人の記事のせいで親がうつになったとは言わない。言わないが、老人は途方もなくお金を持っていないと破綻するだとか、体の不調や不自由さを惨めだとか、そういう風に思わせることで、あおって注目を集めようとする意図が感じられて不愉快だ…歳とって体の自由が利かなくなってくるのは当然のことじゃないか、余計なお世話だ。

行動の範囲が少しずつ狭くなっていき、外からの刺激よりも内なる言葉に耳を傾け、人生の始末を徐々につけていく。そういう風に人は出来ているのだ、きっと。

それを若い人間の感覚で、惨めだ哀れだなんて失礼千万。そんなろくでもない記者(ライター)がいなくなるだけで、もう少し穏やかな世になると思うのだが。人を落ち込ませてそんなに楽しいか、まったく。

つづく

 

 

 

 


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㊳

2023年10月13日 | 日記

今までなぜ思いつかなかったのか?簡単なことなのに。

何のことかと言うと、先日フリースを着ることによってマイクロプラスチックを放出している話をした。罪悪感を持ちながらも、毎年冬にはフリースパジャマのお世話になっていると。

ここに記述することで意識にのぼると、不思議なことに解決策や、解決するかはわからなくてもいろんなアイデアがやって来る。今回は本当に向こうからやってきたと思う。

というのも、たまたま見ていた生協のチラシに、暖かそうな綿のネルのパジャマが載っていた。普段だったら衣類のチラシなんて見ないのに。考えてみたらネルの上に綿入れを羽織れば充分温かい。今まで何故気付かなかったのか?と思う。簡単なことなのに。そしてこれなら、マイクロプラスチックを振り撒くことはない。

おそらく『だって仕方ないでしょ、寒いのに耐えられないんだから。多少マイクロプラスチック問題を抱えていようが、それは必要悪よね』なんて気持ちがあったと思う。これはフリースだけの問題ではない。

何でも現状維持に居付いてしまうと「仕方ないでしょ」と思考停止に陥ってしまう。たまには心の中のちょっとした気持ち悪さや罪悪感を、意識の上に浮かび上がらせて、解消する方法がないか考えるのも、精神衛生上良いのかもしれない。無意識に、嫌な感情を抱え続けるのは、何となく気分が悪いし、しんどいと思う。くつろげる場、居心地の良い人生というのは、小さな、本当にちょっとした心の不協和音に気付いてそれを修正していった先に出来上がっていくものなんだろう。

という訳で、今のパジャマが擦り切れたら、綿のパジャマにしようと思う…とは言え、今のフリースパジャマ、20年以上着ているんだよな(そして、まだまだ着られると思ってる)。


ちょっと思いついた⑭ 自分の居場所

2023年10月11日 | 思いついたこと

何を唐突なこと言っているのかって感じだが、私は自分の場所を作るのが苦手だと思う。自分の家は良いのだが、これまでの人生で(うまく理由が説明できないのに)居心地が悪い、落ち着かない、心と体が同じ場所にいないような感覚の場所…例えばバイト先だとかご近所さんとのおしゃべりの輪などが、いくつもあった。そのたびに、居心地が悪いのは自分のせいだと落ち込んでいた。私が馴染めないのは私のコミュ力が低いせい。だって私以外の人は楽しそうに、もしくは堂々とその場に存在しているから。そんな姿を横目で眺めつつ、(居心地が悪くても)我慢して馴染む努力をすることが正しいって考えていた。ほら、石の上にも3年と言うし。

でも、馴染めない場所で、その場に応じた適切な言動をするのは難しい。自分の居心地が安定しない場所では、自分の歩みさえ「右足はどっちだっけ?」なんて状態になる。何をしても場違いなことをしている気がして(実際はそうでないかもしれない)、惨めに落ち込む。これは私だけなんだろうか?

 

中年になった今でも、ここは自分の場ではないと感じて落ち着かなくなることがある。中年なんて、人生経験を積んで、そつなく生きていける頃なんじゃ…?と思う。なのに、馴染めない場所でもそれなりに振舞う技術は身についていないと感じる。自分の不器用さにがっかりする。

 

そして迷っている。この居心地の悪さは、もしかして自分にとって運気の良くない場所だというアラームなのだろうか?それとも、私が単に不器用なだけなんだろうか?どちらの考え方を採用して行動しようか迷っている。今までは、しばらく我慢して、それから逃げた。それが正しいような気がしているが、一方で、自分が負けたような気もして悔しくもある。


生活を創る~無駄を省いて、無駄を満喫する㊲

2023年10月10日 | 日記

あっという間に秋。つい数日前まで暑くて、ジリジリした日差しを感じていたのに。慌てて長袖を着る。服が少ないと衣替えの必要がないので、とても楽だ。残念ながらお洒落にもあまり興味がないので(私はきっと枯れているのだろう…)悪目立ちしなければ、同じような服をずっと着ていても気にならない。

ただ一つ、気になっていることがある。数年前に読んだ記事のこと。フリースのような化学繊維は、ホコリとなったり洗濯の排水となって、マイクロプラスチックを放出しているそうだ。確かに心当たりがある。洗濯後の布地を触ると、手にざらざらした感触があるのを不思議に思っていた。まだホコリがとれていないのか?と疑問だったが、あれがマイクロプラスチックだったのだ。身につけた時に肌に刺激があるような、乾燥するような感覚は、それが原因だったのか。なるほど。

そう知りつつも、これまでずっとフリース素材のパジャマを着ている。フリースのような温かくて扱いの楽な素材が、他に見当たらないのだ。で、罪悪感を持ちつつ使っている。敷き布団パットもしかり。分解できないゴミは出したくないな。

 

こう書いていて気が付いた。私はミニマリストではないが、少ない持ち物ですっきり暮らしたいとか、原発はやめて自然エネルギーによる電気の社会だったらいいなとか、省エネ生活がしたいとか、望みがいろいろある。これらは結局『自然に還らないゴミを出したくない』につながっていたのだ。野菜ゴミを出すのに罪悪感はないが、プラゴミやペットボトルを資源回収に出しに行く時の恥ずかしさは、キタナイゴミ(環境の中で循環されないゴミ)を出すことに対する羞恥だったのだ。

人間が生きる以上、環境に負荷をかけることは当然のことだ。そうしなくては生きていけないから。しかしそれは、程度問題の話。海や魚をプラスチックまみれにして、空気中の二酸化炭素を急速に増やし、土壌を農薬まみれにして、それでもなお、それを認めようとせず経済を語るあり方にうんざりしている。人は何のために学んできたのか?『経済』という言葉の前に、これまで学んできたことは一抹の塵になってしまう。『経済』はどんな罪をも許される免罪符のようになってしまっている。いくら金を積んでも、環境は元に戻らないというのに。

だから私は、汚く食べ散らかされた皿が嫌いだ。そこには、羞恥心や慎みが感じられないから。そして罪悪感を感じながらフリースパジャマを着る。


ちょっと思いついた⑬ ノラ猫と反抗期

2023年10月06日 | 思いついたこと

夏の終わりごろから、家の前の空き地にノラ猫が居付いている。真っ黒で、目がクリクリとしている。小さいのと、少し大きいのと二匹。親子かな。誰もエサやりなどしていないと思うのだが、フェンスに囲まれて安全だからか、空き地の草陰に寝転んだり、のびのびしている。洗濯物を干しにベランダへ出ると、さっと寄って来て、お座りして私を見上げる。その様子がとても可愛い(既にノックアウトされている)。あまりの可愛さにエサをやりたくなるが、そこは我慢している。

夜、月を見ようとベランダに出ると、いつの間にか暗がりの中から黒い影がこちらを見ている。暇なのかな?

 

我が子にしてもノラ猫にしても、頼られている、懐かれている相手には愛情を持つものだ。自分の自尊心がくすぐられるし、自尊心を満たしてくれたお礼に(?)世話を焼きたくなってしまう。そう考えると、適度に反抗期があったり衝突があるのは良いことだ。どこまでも可愛い存在だと、世話を焼きすぎ、愛情を与えすぎてしまうから。それでお互いが苦しくなってしまうと、しんどい。気まぐれだったり、ケンカできるくらいが丁度いいのだろう。…でも、やっぱり反抗期の子どもは憎たらしい(一歩引いた大人の対応は難しい)。