秋になった。急に冷え込んできて、山がまだらに紅葉し始めた。私は月を見るのが好きで、山を見るのも好きだ。ただし、登るのはしんどいのでパス。職場が山に囲まれた地で嬉しい。通勤のたび、色合いの変わっていく山を目にすることができる。
職場の裏手に小路がある。街路樹というほど立派なものではないが、モミジと桜が交互に植えられている。秋と春と交代で主役が入れ替わる感じだ。私は、どちらか一つにすればいいのにと思ってしまうが、植樹した人はどちらも楽しみたかったのだろうか。それにしても、山の影側なので、可哀そうなくらい貧弱な様相だ。そこを歩くとつい「春、秋、春、秋…」と木の前でつぶやいてしまう。
季節が一周すると一年…私はこれまで五十数回、桜を眺めたことになる。あと何回眺められるだろうか。
こんなことを書いているのは、今読んでいる本に影響されてのことだと思う。医者の書いた、病院内のあれこれ話だ。当然と言えば当然だが、人は死ぬ。子どもでも、40代でも60代でも。私の寿命がもし60代だったとしたら、あと十回程度しか花見ができない計算になる(少なっ!)。でも実は、あと一回もないかもしれないのだ。普通に生きていると、何となく平均寿命くらいまで生きられる気がするが、そんな保証はない。こんな自分の人生にびっくりする。真面目に将来の計算や設計をするけれど、先が何も分からない不安定さを忘れて立てた計画に、意味はあるのかと、時々思う(勿論ある。無計画では人生成り立たないことも多い…のだけど)。
50代と言えば、昔だったらとうに片足突っ込んでる…墓に。そういうお年頃なのだ、私。
子どものころから、先に先に計画することが好きだった。あとで慌てることが嫌いだから。体力も気力も乏しい私は、後から動く馬力がないのだ。『先に計画、そして体力温存』がモットーだ。まずは義務(と思っていた)家事育児、ご近所とのつながりを計画に盛り込んで、ゆとりがあればやりたいことをと思っていたが、そんなゆとりもなく…温存する体力もなかった。要領良くはなかったのだろう。とりあえず子供を寝かしつけて、自分も寝る。それでおしまい。
うちの場合、育児期間が一般的な人より少し長めだったのもあるか。まあ、中年期はそういう時期だ。そしてそろそろ老年期に近づいてきた。やりたいことが少しある。読みたい本はたくさん。欲しいもの少し。聴きたい曲もたくさんある。
時間にゆとりができ始めたのは、ギフトだと思う。さあ今から(と、自分の背中を押す)と思いワクワクする。