たけのこ新聞の事件簿

離婚をきっかけに、今まで心に溜めていたことを書いています。離婚、エコ、世間の常識(のようなもの)についての疑問などなど。

ちょっと思いついた⑲ 神様のギフト

2023年11月13日 | 思いついたこと

秋になった。急に冷え込んできて、山がまだらに紅葉し始めた。私は月を見るのが好きで、山を見るのも好きだ。ただし、登るのはしんどいのでパス。職場が山に囲まれた地で嬉しい。通勤のたび、色合いの変わっていく山を目にすることができる。

職場の裏手に小路がある。街路樹というほど立派なものではないが、モミジと桜が交互に植えられている。秋と春と交代で主役が入れ替わる感じだ。私は、どちらか一つにすればいいのにと思ってしまうが、植樹した人はどちらも楽しみたかったのだろうか。それにしても、山の影側なので、可哀そうなくらい貧弱な様相だ。そこを歩くとつい「春、秋、春、秋…」と木の前でつぶやいてしまう。

季節が一周すると一年…私はこれまで五十数回、桜を眺めたことになる。あと何回眺められるだろうか。

こんなことを書いているのは、今読んでいる本に影響されてのことだと思う。医者の書いた、病院内のあれこれ話だ。当然と言えば当然だが、人は死ぬ。子どもでも、40代でも60代でも。私の寿命がもし60代だったとしたら、あと十回程度しか花見ができない計算になる(少なっ!)。でも実は、あと一回もないかもしれないのだ。普通に生きていると、何となく平均寿命くらいまで生きられる気がするが、そんな保証はない。こんな自分の人生にびっくりする。真面目に将来の計算や設計をするけれど、先が何も分からない不安定さを忘れて立てた計画に、意味はあるのかと、時々思う(勿論ある。無計画では人生成り立たないことも多い…のだけど)。

50代と言えば、昔だったらとうに片足突っ込んでる…墓に。そういうお年頃なのだ、私。

子どものころから、先に先に計画することが好きだった。あとで慌てることが嫌いだから。体力も気力も乏しい私は、後から動く馬力がないのだ。『先に計画、そして体力温存』がモットーだ。まずは義務(と思っていた)家事育児、ご近所とのつながりを計画に盛り込んで、ゆとりがあればやりたいことをと思っていたが、そんなゆとりもなく…温存する体力もなかった。要領良くはなかったのだろう。とりあえず子供を寝かしつけて、自分も寝る。それでおしまい。

うちの場合、育児期間が一般的な人より少し長めだったのもあるか。まあ、中年期はそういう時期だ。そしてそろそろ老年期に近づいてきた。やりたいことが少しある。読みたい本はたくさん。欲しいもの少し。聴きたい曲もたくさんある。

時間にゆとりができ始めたのは、ギフトだと思う。さあ今から(と、自分の背中を押す)と思いワクワクする。


ちょっと思いついた⑱ 幸せでいたい?

2023年11月10日 | 思いついたこと

不満があるから、満足がある。逆もしかり。

幸福があるから、不幸がある。逆もしかり。

考えてみたら、幸福だけが単体で存在するわけはなく、不幸との対比で幸福が存在する。不満も同じで、満足する状態が想定できるから、不満が湧き起こる。

同じことをもう一度。神社へ行くと、幸せであるように神頼みをする。でも、幸せが単体で存在するわけではなく、今の状況と(あるいは過去のある時点と)比較したうえで幸せを想定する。言い古された言葉だけど、コインの裏表のようなもので、幸福は必ず不幸とセットで存在する。神様と悪魔も同じじゃないか。神様だけでは存在できず、悪魔があって初めて神様が現れてくる(逆でもある)。もっと言うと、神様と悪魔は同じ存在を別の視点で見た姿かもしれない…と、ぼんやり思う。これは、またの機会にゆっくり考えよう。

 

幸せでいたいのなら、自分が幸せだと気付いていれば(確信していれば)そして不幸に気付いていなければいい…のではないか。当ったり前~すぎて「そんな馬鹿なこと!」と言われるかもしれない。でも、そうなんだと思う。ある時点と比べてないことに気付いてしまったり、常識っぽいものに煽られて不足を気付かされてしまうことが、不幸のはじまりなんじゃないかな。常識ではなく、常識っぽいところがミソ。

宗教に詳しくはないが、悟りを開いた者がいく極楽。すべて満たされた極楽という世界は、退屈なのではないかと想像したりする。常に満腹の人は、食事の楽しみを知らない。それと同じで、すべて満たされた世で淡々と過ごす魂は、幸せを感じるのだろうか?悟った魂でないと、極楽という平和で淡々とした世界に耐えられないのかもしれないと思う。だから、極楽は解脱した人のみにひらかれているのか、なんて思う。


ちょっと思いついた⑰ 老後のこと

2023年10月31日 | 思いついたこと

前回は、老人の側から『老人の悲惨』系記事の反論を書いたが、逆に社会の側からも考えてみる。

老人は生産性が低い(これは経済だけをとらえた、とても狭い範囲での考え方だが)という理由から軽く扱われがちだ。どちらかと言うと生産性より、消費者であることに価値を置かれている気がする。こんな在り方も、老人の無力感を助長する。生産性の話をすると、お金を稼ぐ奴が一番偉いのかって議論につながりそうだが、それは一旦脇に置いて、素直に生産性について考える。

 

お金のように数値に見えるものではない生産性があることを、政治家を含め多くの人は見逃している。

例えば『女性が輝く社会』だっけ(ちょっと古いか)?こんな耳障りのいい言葉に誤魔化されて、女も働こうという考え方が前面に出てきた。悪くない。それを望んでいた人にとっては。

でもその裏返しとして、お金にならないことをしても輝けない?生産性が低い?価値が低い?そんな暗黙の前提条件を付けられた気がする。これまでは主に主婦が担ってきた地域活動やPTA、ご近所との連携…これらはお金に換算できない。しかし、地域の安全や住みやすい社会に貢献してきたと思うのだが。これは目には見えないし、なくなってすぐにそのありがたさが実感できるものではない。しかし暫くたつと、失ってしまった無償の社会貢献に気付く。それはほんの小さなこと、例えばゴミ捨て場が荒れてくるという、ちょっとしたことから始まる。

 

同じことが老人にも言える。地域の知的・文化的財産や知恵を継承すること、家庭内での役割、成熟のモデルになること…もっと言うと、このセカセカした社会のスピードを緩める制御装置の役割もあると思う。ちょっとくらい老人がモタモタしても、深呼吸して「ま、しょうがないね。ゆっくりどうぞ」くらい言えるゆとりを取り戻したい。老人のモタモタを『自分の焦りに気付き、落ち着きを取り戻すきっかけ』と考えたら、世の中の苛立ちや怒りも減るのではないか。だって、思い出してほしい。そのモタモタは、明日の我が身なのだ。私は、老人になって認知や動きが鈍くなっても「ま、しょうがないね。ゆっくりどうぞ」と言って欲しい。怒鳴られ、家に引きこもるのは嫌だ。これは、我儘じゃないと思うのだけど、どうだろう。

家や施設に老人を押し込めるのではなく、外に扉を開けていけばいい。世の中にはいろんな人がいるのだと分かれば、皆、自分はこれでいいんだと安心できる。そしてその先に、みんなが住みやすい社会が続いている。こんなふうに単純にはいかない?私は(私を含めた)皆次第で、できると思う。

文化や知恵の継承、教育的モデルなんて抽象的な価値は、生産性にはカウントされにくいけどね。

そんな訳で、私は今日も「ま、しょうがないね。ゆっくりいこう」と相手にも自分にもつぶやく。

 


ちょっと思いついた⑯ 老後のこと

2023年10月30日 | 思いついたこと

前回、齢をとることに悲観的な内容の多い昨今のネット記事に、文句を言ったところで終わった。

そんな記事の代わりに、威張るでもなく悲観するでもなく、当たり前のこととして加齢を考えたいなと思う。齢をとる(そこまで生きられたこと)は、本来寿ぐことであるし、素直にめでたいと感謝できるような考え方を私はしたい。

もう20年位前の話だが、我が子と同じ幼稚園に通っていた子どものおじいちゃんのこと。毎朝園バスを見送りに来ている、その顔が実に素敵で、良い人生を送ってきたんだろうなと想像させる感じだった。こんなふうに年を取りたいと、密かに思っていた。

つい半年前にも、とある写真展に出品されていた作品に、見入ってしまう様ないい顔のおばあちゃんがいた。しわだらけなんだけれど、このしわがなかったら、こんなに味わい深い表情にならないだろうな…。おばあちゃんも、カメラマンも素晴らしいとその時思った。

 

ろころで、悠々自適だとか、楽隠居の意味をもう一度考え直した方がいいと感じる。これらの言葉を『(もう社会の役割を果たしたのだから)これからは、お客様人生で過ごそう』という意味で使っていないだろうか。こんな世のコマーシャルに惑わされてはいけない。旅行に行って、ご飯は作ってもらって、退屈は誰かに紛らわせてもらうような生き方は、虚しさと隣り合わせだ。外から与えられるだけの刺激は、慣れてくると退屈を感じ、さらに強い刺激を求めてしまう。そして、どこかで破綻する。そんな消費するだけの(やってもらうだけの)過ごし方をしてはいけない。

結局、『老後の悲惨』系の記事は、こうした消費ばかりの生活ができないことに対する『悲惨』なのだ。でも私は、消費ばかりの生活の方が悲惨だと思う。悲惨というより空虚と言った方が近いか。

単にお金を払って、刺激を求め、世話をしてもらう生き方は楽しい?刺激をさらに強く求め、生活能力を失っていく、その先にあるのは虚しさではないのか。

そんなことを考えながら、自分で掃除をして、食事を作るよう、うつうつ閉じこもる親に伝える。


ちょっと思いついた⑮ 老後のこと

2023年10月27日 | 思いついたこと

『仕事を隠居して、悠々自適に人生の残り時間を過ごせる老年期』なんてものを夢見る世は、もう終わったのだろうか。

周囲の人から、ほどほどに敬われて過ごす時間。これまでに培ってきた知恵や経験を、自分なりにまとめる時間。そして世間を少し離れた立場で、生き死にを考える時間。

引退してこんな豊かな時間を持てるのは、なんと運の良いことなのだと思う。生まれてから老年に至る間に、さっさと人生を終えてしまう可能性はいくらでもあったのに…なんて思う私は、能天気なんだろうか。

近頃のインターネットの記事を眺めていると、下流老人だの、老後破綻だの、気分の悪い言葉がいくつも出てくる。人の人生に対して敬意もなく不安をあおるようなタイトルを見ていると、イラっとする。世の老人がそんなくだらない記事に惑わされることなく、充実して過ごせる風潮になるといい。

 

なぜこんなことをいうかと言うと、自分の親が老年になって、仕事を引退し、すっかりうつになってしまったからだ。これまでの人生、仕事しかなかったという訳ではないが、人間関係とは、積極的につながろうとしなければ、疎遠になってしまうのだろう。家に引きこもり、実際には心配しなくてもいいことに、いちいち不安を感じ…例えば、家が古くなって倒壊するだとか、迷惑電話に怯えるという、私から見たら妄想のような不安で一日を過ごしている。しんどいだろうな。

冒頭で怒ったような、下流老人の記事のせいで親がうつになったとは言わない。言わないが、老人は途方もなくお金を持っていないと破綻するだとか、体の不調や不自由さを惨めだとか、そういう風に思わせることで、あおって注目を集めようとする意図が感じられて不愉快だ…歳とって体の自由が利かなくなってくるのは当然のことじゃないか、余計なお世話だ。

行動の範囲が少しずつ狭くなっていき、外からの刺激よりも内なる言葉に耳を傾け、人生の始末を徐々につけていく。そういう風に人は出来ているのだ、きっと。

それを若い人間の感覚で、惨めだ哀れだなんて失礼千万。そんなろくでもない記者(ライター)がいなくなるだけで、もう少し穏やかな世になると思うのだが。人を落ち込ませてそんなに楽しいか、まったく。

つづく

 

 

 

 


ちょっと思いついた⑭ 自分の居場所

2023年10月11日 | 思いついたこと

何を唐突なこと言っているのかって感じだが、私は自分の場所を作るのが苦手だと思う。自分の家は良いのだが、これまでの人生で(うまく理由が説明できないのに)居心地が悪い、落ち着かない、心と体が同じ場所にいないような感覚の場所…例えばバイト先だとかご近所さんとのおしゃべりの輪などが、いくつもあった。そのたびに、居心地が悪いのは自分のせいだと落ち込んでいた。私が馴染めないのは私のコミュ力が低いせい。だって私以外の人は楽しそうに、もしくは堂々とその場に存在しているから。そんな姿を横目で眺めつつ、(居心地が悪くても)我慢して馴染む努力をすることが正しいって考えていた。ほら、石の上にも3年と言うし。

でも、馴染めない場所で、その場に応じた適切な言動をするのは難しい。自分の居心地が安定しない場所では、自分の歩みさえ「右足はどっちだっけ?」なんて状態になる。何をしても場違いなことをしている気がして(実際はそうでないかもしれない)、惨めに落ち込む。これは私だけなんだろうか?

 

中年になった今でも、ここは自分の場ではないと感じて落ち着かなくなることがある。中年なんて、人生経験を積んで、そつなく生きていける頃なんじゃ…?と思う。なのに、馴染めない場所でもそれなりに振舞う技術は身についていないと感じる。自分の不器用さにがっかりする。

 

そして迷っている。この居心地の悪さは、もしかして自分にとって運気の良くない場所だというアラームなのだろうか?それとも、私が単に不器用なだけなんだろうか?どちらの考え方を採用して行動しようか迷っている。今までは、しばらく我慢して、それから逃げた。それが正しいような気がしているが、一方で、自分が負けたような気もして悔しくもある。


ちょっと思いついた⑬ ノラ猫と反抗期

2023年10月06日 | 思いついたこと

夏の終わりごろから、家の前の空き地にノラ猫が居付いている。真っ黒で、目がクリクリとしている。小さいのと、少し大きいのと二匹。親子かな。誰もエサやりなどしていないと思うのだが、フェンスに囲まれて安全だからか、空き地の草陰に寝転んだり、のびのびしている。洗濯物を干しにベランダへ出ると、さっと寄って来て、お座りして私を見上げる。その様子がとても可愛い(既にノックアウトされている)。あまりの可愛さにエサをやりたくなるが、そこは我慢している。

夜、月を見ようとベランダに出ると、いつの間にか暗がりの中から黒い影がこちらを見ている。暇なのかな?

 

我が子にしてもノラ猫にしても、頼られている、懐かれている相手には愛情を持つものだ。自分の自尊心がくすぐられるし、自尊心を満たしてくれたお礼に(?)世話を焼きたくなってしまう。そう考えると、適度に反抗期があったり衝突があるのは良いことだ。どこまでも可愛い存在だと、世話を焼きすぎ、愛情を与えすぎてしまうから。それでお互いが苦しくなってしまうと、しんどい。気まぐれだったり、ケンカできるくらいが丁度いいのだろう。…でも、やっぱり反抗期の子どもは憎たらしい(一歩引いた大人の対応は難しい)。


ちょっと思いついた⑫ 運の貯金

2023年09月20日 | 思いついたこと

3連休が終わった…と言っても、私は毎日出勤。たとえ出勤でも、こうして毎日出掛ける用事があるのは悪くない(家に引きこもるのも好きだが)。

 

仕事は毎日同じことの繰り返しがほとんどだが、それでも風景は毎日変わる。その日のメンバーの体調や気分、仕事量の多少、イレギュラーな事象、それによって少しずつ変化がある。そして何より私の職場は自然豊かなところにあるので、季節や天気によって景色が違い、私を慰めてくれる。なのでそのお返しに、時間があるとき人知れず周囲のゴミ拾いをして(ゴミならぬ)徳を集める。

何だかこっそり徳を積む(ゴミ拾いをしているだけなんだが)ことで、ヨイ人になった気分。私の中の徳貯金がチャリーンと音を立てる→いつもヨイ人でいる訳ではない。気が向いた時だけ。

 

『ちはやふる』というコミックの中で、主人公と同じかるた部のかなちゃんも、他人の脱ぎ散らかしたスリッパを整えることで、運の貯金をしていたことを思い出す。そんな迷信を笑う人もいるかもしれないが、私は『そういうものかもしれない』と感じている。それに、ヨイ人の気分になることは、単純に嬉しい。

自分の気分がすごーく落ち込んでいるときと、とても前向きな時、この両極端な時に徳貯金をしたくなる(今回は落ち込み型)。だから、気まぐれ貯金。なかなか預金高が増えない。

 

徐々に気候が良くなってきて、仕事以外にも出かけてみようという気になる。せっかくの秋なので、神社巡りついでに美しい庭園でも…と思う。早速図書館で、神社・仏閣の由来や庭の説明などが書かれている本を借りてきた。有名どころは、あまり紅葉が深くなると大混雑するので、きっと今がタイミング。落ち込んだ自分を、神様の領域で見つめ直してこよう。


ちょっと思いついた⑪ 受診圧力

2023年09月19日 | 思いついたこと

昔と違い、体調不良に対する周囲の視線が厳しい。コロナ以降は、特にそう感じる。人にうつす可能性がある病気の場合は、出歩く(出勤する)と厳しく非難されるようになった。ちょっと前までは、体調が悪くてもそれを押して出勤することが真面目と言われていたのに。以前から、病気によっては空気感染するという知識があったにもかかわらず…だ。世の風潮は変化しやすい。

さて、体調不良の出勤が、勤勉さと結び付けられて褒められること、感染をまき散らすとして敬遠されること、どちらの社会的圧力も決して病人の心配をしているわけではない。前者は、周囲が病人の担当している仕事の負担を負わずに済み助かるし、後者は、周囲の人たちの感染リスクを低減する。単にそういう意味だ。

 

インフルエンザの流行で学級閉鎖とするのは、そうすることで感染拡大をある程度抑えることができるから。それはよく分かる。でもちょっと辟易していることがある。発熱して学校を欠席すると、すぐに学校から連絡があって

「病院へ行きましたか、検査しましたか」

と聞かれる。病院へ行っていないと、遠回しに『行って検査をしてほしい』と求められる。おそらく感染症に罹患した頭数をカウントし、出席停止期間を定めるために。

私は医者ではない、ただの親だ。専門家ではない。でも、熱が出たら何でもかんでも病院で検査するというあり方には首をかしげてしまう。子どもの様子を見ながら、まだ家で様子を見ようだとか、熱はないが様子がおかしいので早目に受診しようという勘働きや、子どもへの丁寧な観察がそこにはない。子どもの機嫌や食欲など全体を見て判断する能力が失われてきたのか。それともそういう判断に価値がなくなってしまったのか。子どもを見ずに体温や数値と検査結果を見て分かったつもりになるのは、どういうことだろう。

繰り返すが、私は医者ではない。だからこう書くと、子どもにもしものことがあったらどうするのか、無責任じゃないかと非難する人も出てきそうだけど…。

私はあまり病院には連れて行きたくないのだ。病人を疲れさせ、他の病気をもらうリスクを負い、必ず投薬される。(病院に行かず自力で治せる場合でも)受診すれば薬が出てくる。お土産のように。おそらく世の受診者はそう求めているから、そうなったのだろう。それもちょっとモヤモヤする。


ちょっと思いついた⑩ 失敗の効用

2023年09月15日 | 思いついたこと

小心者の私は、失敗するととても落ち込む。こんな時、あぁ出勤したくない、隠れてしまいたいと、心の中で身もだえする。私の真面目そうな外観(でも実は、ちょびっと真面目で、大半はいい加減で忘れっぽい)が災いして『一見デキそうだけど、ダメダメさん』という、相手をがっかりさせるポジションにいると感じている。特に失敗したときの自分はそう感じる。本当に隠れてしまいたい…。はぁ~。

失敗するたびに、次は失敗しないようにと対策を考えるけれど、自分では思いもよらない落とし穴にはまる。あとで思い返して、何故こんなことをした?!と、自分でもびっくりすることをやらかす。私はミスのデパートだ。こうして書いていると、恥ずかしくなる。今のところ、大きなトラブルは回避できている(と思う)のが救い。

自分のミスを意識するのは辛いが、それでも良いこともある。他人のミスに対しておおらかになれることだ。人が失敗してもあまり腹が立たなくなってきたように思う。まあお互い様だよねって、笑って済ませられるようになった。もっと早くにこの境地に達していれば、子ども達に対して怒ることも少なくて済んだのにって思う。他人に腹を立てない生活は楽だ。

 

失敗同様、自分の弱点(欠点)に自覚的でいると、相手の弱点に出会った時に少し寛容になれる気がする。自分の弱点を認めることは、自分にがっかりすることにつながるので悲しくなるけれど、その悲しみが相手に対する優しさをも生むのではないか。そんなことを考えていると、なんだか周囲のみんながイイ人に見えてくる。そしてイイ人に囲まれた私は、なんて運がいいのだろうと嬉しくなる。

そういえば、この前職場の人との会話で「イイ人ばっかりで、楽しく働けてる」と、お世辞でなく本気で言ったらビックリされた。「イイ人ばっかり??○○さん(私のこと)は、イイ人に出会ったことないんじゃない?」と。うーん、そうかな?うちの職場、比較的穏やかな人ばかりだと思うんだけどな。でもまあ、そう思っていれば、腹を立てたりイライラすることも減って、生きるのが楽になる。

 


ちょっと思いついた⑨ 私って誰?

2023年08月29日 | 思いついたこと

昨日の続き。

私というものが何を指しているのか、実ははっきり示せないという困った事態になった。おかしなことを言っていると思われるかもしれないが、もともと『私』というものが定義づけられないなら、『私』はないのと同じことになるのか?じゃあ、こうして考えている『私』は何なのだ?

もう一つおかしなことを言う。『私』がないのなら、私は何も所有していない。だって、ないもの(私)は何も所有できないからだ。ということは、失うものは何もないはず。所有していると思っている『誤解』があるだけ。惚けようが惚けまいが、怖いものなしではないか。あれ?昨日の冒頭で、惚けるのが心配と書いたが、思わぬ形で解決した。何も所有していない私は、心配しなくても何も失わない。

…自分で書いていて、狐に化かされたように感じている。

でも実際問題、何が怖いって、自分の尊厳が惚けて失われる気がするのが怖いのだ。それが耐え難い。でも自分というものが何を指すのか分からないのに、尊厳も恥もない。それでも…。

私というものが分からないのに、私は良き人間であろうとか、佳き人生を送ろうと奮闘している。そうしようとする主体(私)は、何なんだ?

だんだん沼にはまって、話が回収できなくなってきた。回収は諦めて、違う観点で話をしてみる。

 

日本は衛生環境や医療技術の向上で、長寿が叶いやすい国になった。なんと、めでたい。おめでたいはずなのに、長寿がもとで痴呆になる可能性も増したのだろう。

残念なことに、年寄りの割合が増えたからって、社会がのんびり回るようにはならない。年を追うごとに経済性・効率が至上命題となって厳しく私たちにのしかかる。

 

そして、その痴呆は商売になり、惚けないためのお勉強ワークやら、○○レッスン、サプリメント等々が登場した。人の不安がある場所には儲け話が潜んでいる。そう考えると、ちょいと嫌な気分になる。好きでお勉強ワークをするのなら楽しくて良いが、惚けないようにと不安に駆られてするワークは受験勉強並みに苦しい。ワークをした時の私と、しない時の私を比較できないのに(つまり、効果なんて分かりっこないのに)面白くないワークを継続するのは、私には難しい。それなら、その時間は自分の楽しみのために使いたい。もう一度言うと、自分の不安を鎮めるために人生の時間とお金を費やすより、好きなことをして、好きな人と会って過ごす方が良い一生を送れる気がする。


ちょっと思いついた⑧ 私って誰?

2023年08月28日 | 思いついたこと

人生、何が起こるか分からないからこそ楽しいと言いたい!…のだが、今ではなく将来について考えすぎてしまい、心積もりをしたり心配する話の続き。

今はまだ実感がないのだが、何が一番心配かというと、お金より惚けてしまうことだろうか。

惚けるで思い出したが、先日読んだ本に『認知症で記憶を失っても、その人はその人なんだろうか』という問いがあった。他人から見たら、認知症を患っていようがいまいが、その人がその人本人なのかもしれない。誰か(例えば友人)と認知症の人との間で以前から継続してきた関係性が、認知症発症後もまだ友人の心の中では続いているから。

でも、認知症の人本人の視点でもなお、「記憶を失っても痴呆を患う前の私と同じ私」と、そう言えるのだろうか?事故で記憶を失っても、「以前から今まで継続して存在する私」と言えるのか?そもそも私って何?

 

私というのが体を指すなら、髪や爪を切ったら…さらに、手足を切断するような事故に見舞われたら、それは私なのか。最近では臓器移植なんてこともしているが、術後の体は、完全に私なのだろうか。おそらく臓器移植をする人たちは、脳こそが『私』というのかもしれない。脳さえ機能していたら、体を切り貼りしていようが、損傷していようが『私』だと。そういう人の言う脳とは、記憶や性格のことを指しているのだろう。脳という物質そのものを『私』とは言っていない。脳を培養液に浸けて、細胞が死なないように保存できたとして、それを『私』とは名付けないだろう。

ある人が経験してきた歴史とそこで得た技術、そして対人関係をはじめとする外界に対する反応様式。これらをひとまとめにして『私』と認識しているのだと思う。

では、事故や痴呆で記憶を失ったら、私は私なのか(…と話が戻る)?認知症で性格が荒々しくなったように見えたら、それは私ではなくなるのか?あぁ、話がややこしくなってきた。一体『私』とは何を指しているのだろう。惚けてしまうとは、何を失うことなんだろう。

 


ちょっと思いついた⑦ 将来の不安と尻拭い

2023年08月25日 | 思いついたこと

一瞬の雷雨で、少し気温が落ち着く。植物が急にイキイキしてくる。ベランダでハーブを育てているが、タイムがこの暑さのせいか全滅してしまった。同じ鉢に、名も知らぬ植物が一本生えてきた。土の中にタネが混じっていたのか、どこからか飛んできたのか?せっかくなので、抜かずに水をやっている。ひまわりに似ているとも思ったが、一向に花を咲かせる気配がなく、ただ大きくなるばかり。何の植物だろう?

昔、知人に鉢植えをもらった。鉢に土が入っているだけ。

「何を植えた?」

「内緒」

仕方がないので、なんだか分からないままに水やりを続けた。伸びてきた植物は、どうも芋っぽい。しばらくすると、鉢を飛び出し、ベランダ床面をズルズル這って成長し続ける。鉢なので芋(さつま芋だった)もそんなに大きくはなれず、蔓ばかりどんどん広がっていく。困ったな…。あの芋、結局どうしたっけ?

話は戻って、何が咲くのか分からないというのは、ちょっと楽しみ。そもそも花をつけるのかなあ?そして、何が起こるか分からない人生も、何が起こるか分からないからこそ楽しみ、と言えたらいいんだけど。そうも言い切れず、将来の心積もり(心配)を考えてしまう小心者の私。何が怖くて将来を心配するのだろう?と考えてみる。お金?健康?ボケてしまうこと?孤独?思いつくのはそのくらいか。

お金はあればあるだけ、身の回りのお世話や家事労働、欲を満たした食事などが叶えられる。でも、誰もが可能なわけではない。だいたい、何でも欲が満たされ、自分の手仕事や家事労働をお金で解決する暮らし(自分が手を加える範囲が小さくなる暮らし)は、楽しいものなのか?程度にもよるけれど。自分が自身の生活に手を加え、創り上げていく生活の方が面白いのではないか…と思う。

掃除や片付けも、ちょっとしたモノの修理でも、自分でできたほうが工夫が生まれるし、生活というものが分かるようになる。掃除をすればこそ、汚れやすい場所や、どう生活すればキレイが長持ちするか、なんてことも考えるようになる。掃除や片づけは、トイレの尻拭いと同じだと思う。自分が散らかしたら自分で片付ける。自分がやらかしたことを自分で始末できるのに、他人にやらせて平気でいたくない。

以前ホテルの客室清掃をしたことがある。びっくりするような散らかし方で、ゴミさえゴミ箱に捨てられていない部屋をいくつも見てきた。この人の尻はキレイなのか?

とはいっても、私も掃除が好きではない。それでも、それなりにきれいな家に住みたくて、今日もせっせと床を磨く。

将来への心配の話だった。つまり、身の回りのことが自分の手でできれば、お金もかからないし、生活への気付きも増えて面白くなると言いたかった。最後の結論、えらい端折ってしまった。話はまだ続く。


ちょっと思いついた⑥ 今の私と先の私

2023年08月16日 | 思いついたこと

人生は先が見えない。きっとその方が良い。見えるとつまらなくなるから。

見えないから目標を持てるし、努力したくなる。思いがけないことが起こるから、そのびっくりするような出来事に面白がったり、悔しがったり、悲しくなったり。その経験をしっかり見据えることで、人は賢くなっていく、多分。見えてしまって、その決まったレールの上を走るだけというのは、優勝が決まったチームの消化試合並みに、だるい生涯になりそう。

でも、見えないと不安を感じることも確か。私は、先の人生をきっちり計画したくなる小心者だ。計画したところで、人生は思い通りにならない。頭では分かっているんだけどね。だから、口癖のように、何度も「なるようにしかならない」「その時出来ることをするだけ」とつぶやいて、心に沁みこませる。

そう、人生は思い通りにはならない(つまり先が見えない)。運や縁に振り回されて、自分の意志や努力だけでどうにかなるものではない。そんなの当たり前…なんだけど。

誤解のないように言うと、意志や努力を否定しているわけではない。それが自分の望むところなら、人は勝手に努力する。イラストを描くのが好きな子どもは、言われなくても勝手に描いているし、どう描いたらいい絵になるか考え、練習する。そんな努力は応援したいと思う。ただ、努力の過程に何も面白さや得るものがなく、将来有利になるからというためだけの努力は、不毛に感じる。先の人生が見えないのに、明日交通事故にあうかもしれないのに、今の時間を生きなくてどうする?

 

未来の自分は自分ではない。空想上の自分である。未来の自分のために何かを達成しようと努力したり、お金を貯えたりするということは、今の自分のために生きているのではない。将来いるかいないか分からない『仮想の私』に尽くして、せっせと努力しているということになる。私たちは今、こうした将来のための努力を良しとする(価値とする)社会に生きているが、その価値観を強烈に取り入れてしまうと、いつまでも今の自分のために生きることはできない。生きている自分とは、まさに今の自分でしかないのに、いつまでも私の人生を生きられない。

アリでも、キリギリスでもない、私でいたい。

 

 


ちょっと思いついた⑤ 価値とオトク

2023年08月07日 | 思いついたこと

おそらく誰もが、自尊心を持っていると思う。自分とは価値ある存在であると思いたいし、さらに言うと、自分とは価値ある存在であると思われたい。最近ではこれが逆転して、(自分を価値あるものにするために、努力をするのではなく)価値があると思わせることで自分を価値づける人が多いと思う。

イイねやフォロアー数を気にするのも、自尊心が他者からの評価に左右されている表れだろう。かくいう私も、このブログを書き始めてからPVなる数字がちょっぴり気になる。気にしたくないのに、やっぱり気になる。

 

他者からの評価を気にせず『自分は自分』でいられる程に突き抜けた気持ちでいるのは、なかなか難しい。一歩間違えると、単なる自分勝手オバサンになってしまう。自分の中に筋目の通った善悪の基準や正直さ、生き方を持っていないと、ただの恥ずかしい人で終わってしまう。

自由奔放を微笑ましく思うのは、その人が卑しさや、計算ずくの生き方とは縁遠いからであって、私のように損得や評価を考えてしまう人間は、他者からの目を勘案して生きる方が楽なのである。

 

ところで、ある大きな事件が私の身に降りかかったとき、私は損得を基準に生きることのバカらしさに気付いた。もう、後期オバサン世代にさしかかって、ようやくのことだ。私の人生の目的は『いかにオトクに生きる』ことなのか?そんな生き方は嫌だと、その時強烈に思った。そうではなく、たとえ益にならなくても自分のやりたいことをするため、そして自分の理想像(未だ構築中)に近づく修行(?)のために人生を使おうと考えた。そう、人生死ぬまで生きて、死ぬまで修行…だよね~。

こんなにエラそうなことを言っているけれど、すぐにオトクに飛びつきたくなるのは、今でも変わらないな、私。ふと我に返って、もう一度その行為を考える。得をするための行為なのか、自分の良き人生のための行為なのか…よく考えて行動しないと、すぐ道を誤る。あんまりオトクに毒されて、自分の声が聞こえなくならないよう、気を付けようと思う。