ドイツ文学者の故 池内紀(おさむ)氏が、『山と渓谷』誌に2007年1月号から2019年10月号(同氏が亡くなったのは2019年8月)まで連載していた、書評エッセイ「山の本棚」全153篇が昨年刊行された。このエッセイは、ごく稀に『山と渓谷』誌を手にすることがあれば目を通していたが、全篇を目にするのは初めてだった。まず驚いたのはその量、月刊誌に12年にわたっての連載だから当然なのだろうが、B6判・470頁は充分なボリュームがある。ただ、その時々に気の向いた書題を拾って、ぼちぼちと一日一篇の勘定で読み繋げば半年は愉しめる案配だ。池内の簡潔な表現も、読み進めることを苦にさせない。
帯には「古今東西、山と人、自然から生まれた言葉の森を池内紀と歩く。」とあるが、その森の広さと樹種の多さに驚いた。「山の本棚」であるから、いわゆる山書が並ぶのだろうと想像すると、さにあらず。確かに串田孫一、辻まこと、上田哲農、畦地梅太郎、ウェストン、高桑信一などといった、それらしきものも並ぶが、柳田國男、宮本常一、南方熊楠などといった民俗学から、文学、歴史学、考古学、動・植物学、文明論、各種の図鑑(『ときめくカエル図鑑』…?)、画・写真集、地方の山岳会の地域研究誌などなど、果ては山の歌集や観光ガイドの類さえもある。飯田蛇笏、河東碧梧桐、井上井月、小林一茶の句集があるのは池内が俳人でもあった所以か。この本棚に並ぶ雑多な書は、池内の博物学的な興味のほんの一部に過ぎないのだろうが、〝山〟に少しでも引っ掛かれば何でも有りというのが良い。採り挙げられた書の何処に、池内の想うところの〝山〟が潜んでいるかを考えると、さらに面白いというわけだ。例えば杉浦日向子(彼女は私と同い年であったのだ)の『百物語』があった。
「古(いにしえ)より百物語と言う事の侍(はべ)る/不思議なる物語の百話集う処/必ずばけもの現われ出ずると」
池内の書評は「現代ではわずかにひとけない山にひとりでいるとき、江戸人の感性に似たものがよぎったりする。江戸の人がフシギをちっともフシギと思わなかったことが現代人にはフシギだが、それは近代性という名のもとに大切な何かを失ってしまった結果にすぎない。」と結ばれている。〝山〟から味わい教えられるものは、単なる可視的な自然景観だけではないことがよく分かる。時間やもっと人間臭いことも含めて、あれやこれやの全てが〝山〟なのであった。
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