べんきょうなせん(='ω')

べんきょうは論理で考えるトレーニング
熊本県山鹿市中高大学受験の "あすく" です

鹿本鉄道に乗ろごたる

2014年06月03日 | 山鹿をさるく
桜の花が咲くころに
じーちゃんとばーちゃんに連れられて
初めて乗った汽車ポッポ
ポッポポッポ汽車ポッポ
乗ろごたる乗ろごたる
鹿本鉄道に乗ろごたる

 体育祭の応援歌で覚えました。熊本県立鹿本高校山鹿団です。「乗ろごたる」は、「乗りたいな」という熊本弁です。

 山鹿温泉鉄道山鹿駅前。写真は、いまも残る牛乳屋さん。医院事務所飲食店タクシー待合…駅前通りの名残(なごり)も失われつつあります。自動車教習所として使われていた山鹿駅跡もついに完全撤去。住宅として売りに出され始めました。山鹿市山鹿南本町。GoogleマップやYahoo!地図の航空写真に駅跡地のかたちが残ります。

 駅跡のモニュメントと汽車ポッポもなくなっちゃったよ


 日本がアメリカほか連合国軍と戦っていた「太平洋戦争★」の終結するまで、国内輸送の中心は船と鉄道でした。輸入に頼るガソリン(石油)など物資が国により配分されていたためです。乏(とぼ)しい資源は国家が管理をする。トラックやバスは大量輸送にむきませんし、高速道路や舗装道路の整備も不充分でした。

 のち山鹿温泉鉄道と変わりますが、熊本県の北部、鹿本郡を中心に「鹿本鉄道」の名で呼ばれました。1915(大正4)年開業、1960(昭和35)年廃線。おもに熊本 - 植木 - 来民(くたみ)- 大道 - 山鹿を結ぶ旅客貨物鉄道です。まだアスファルト舗装やバイパス道路もない区間、国道を走るバスのほか郵便や貨物を鉄道で運んでいました。いまなら宅配を利用する小荷物も、たくさんの高校生たちも運んでいたのです。

 自家用車が普及し始め地方でも道路が整備される1960年ごろには、鉄道からトラックバスへ輸送の中心が移ります。国道沿いに店や住宅も増え、ガソリンスタンドができていきます。

 山鹿市の中心も、菊池川の水運に支えられていた山鹿地区から鹿本地区へと移っていきます。(塾長)


>温泉地として知られる山鹿を通る唯一の鉄道路線であったが、開業間もなく昭和恐慌(きょうこう)★の影響を受け、さらに山鹿と熊本市を結ぶバス路線が相次いで開設されたこともあって営業面では終始振るわなかった。このため競合バス会社の買収等の手段で山鹿 - 熊本間にバス路線を開設し、鉄道は貨物輸送に重点を置いて旅客輸送を減量するなどの手段で収支の安定化を図ったが、バス部門は戦時中の交通統合により九州産業交通への譲渡を余儀なくされた。

>二度の水害による打撃もあったことに加え、熊本 - 山鹿間のバス路線に比し著(いちじる)しく利便性を欠いて鉄道の利用は低下、末期的な経営状態となったことから、1960年(昭和35年)に全区間が休止、のちに廃止された。

1953年(昭和28年)6月15日当時
運行本数:日11往復(6時 - 21時台)、うち熊本発着4往復
所要時間:全線約45分(自社線内)

(ウィキペディア・パソコンむけ


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