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映画『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(1976)です。この映画は、ウディ・ガスリー本人による伝記『Bound for Glory』を原作としています
ウディ・ガスリー(ウィキペディア・パソコン向け)
>ウッドロウ・ウィルソン・ガスリー(Woodrow Wilson "Woody" Guthrie, 1912年7月14日 - 1967年10月3日)は、アメリカ合衆国のフォーク歌手・作詞家・作曲家。14歳のときに家族が離散し、大恐慌の時代に放浪生活を送る。その放浪のなかで、貧困や差別などに翻弄される労働者らの感情を歌にして演奏した。ボブ・ディランに多大な影響を与えた。(ここまで引用)
この映画では、置いておかれた貧しい地方やギリギリのところで働かざる得ない人々も描かれます。第一次世界大戦の後、抗生剤が開発されたばかりで死亡率の高かった多くの病い、善意に頼りがちで貧弱な社会保障制度、実効性のほとんどなかった国際協調、いまと比べられないくらいひとの命が軽かった
フォーク・ソングとは「人々のうた」です。ガスリーのフォーク・ソングは人々が戦うための武器でした。彼の活動の背景には当時のアメリカから始まった「世界恐慌★」があります。世界恐慌は1929年からの世界的な経済不況です。日本では昭和4年のこと。第一次世界大戦が終わり、不景気の波が人々に押し寄せます
世界恐慌(ウィキペディア・パソコン向け)
>第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。
>1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていた。
>1927年にジュネーブで行われた世界経済会議では、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択された。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。3月には昭和金融恐慌が起きた。
>そして1929年7月30日、ニューヨーク・タイムズが信用収縮に直結するような重大事を書いた。ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出しであった。記事によると請求されている資産のうち、およそ500万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命のときから不法に預けられているものである。(ここまで引用)
個人の命も思いをも軽く見ていた社会は再び世界大戦へと向かいます。群れとしてのヒトが生き残るには群れ同士縄張りを奪い合うしかなかったからです
そんな時代、ガスリーは自身の思いを社会運動に託しました。その社会運動が「正しい」かどうかはわかりません。群れとしてのヒトは、大きなチカラにすがり個人として思いを忘れてしまいます。思いが正しくともそのチカラまで正しいかはわからない。運動が大きくなり組織化するにつれ、そのチカラは増大し個人の思いは忘れられていきます。だからボクらは意識をして、自分の思いと向き合っていく必要があるのだと思います(藤田)
ボクはジマーマンを信じる。でも押し付けたくはない
映画『ウディ・ガスリー/わが心のふるさと』(1976)です。この映画は、ウディ・ガスリー本人による伝記『Bound for Glory』を原作としています
ウディ・ガスリー(ウィキペディア・パソコン向け)
>ウッドロウ・ウィルソン・ガスリー(Woodrow Wilson "Woody" Guthrie, 1912年7月14日 - 1967年10月3日)は、アメリカ合衆国のフォーク歌手・作詞家・作曲家。14歳のときに家族が離散し、大恐慌の時代に放浪生活を送る。その放浪のなかで、貧困や差別などに翻弄される労働者らの感情を歌にして演奏した。ボブ・ディランに多大な影響を与えた。(ここまで引用)
この映画では、置いておかれた貧しい地方やギリギリのところで働かざる得ない人々も描かれます。第一次世界大戦の後、抗生剤が開発されたばかりで死亡率の高かった多くの病い、善意に頼りがちで貧弱な社会保障制度、実効性のほとんどなかった国際協調、いまと比べられないくらいひとの命が軽かった
フォーク・ソングとは「人々のうた」です。ガスリーのフォーク・ソングは人々が戦うための武器でした。彼の活動の背景には当時のアメリカから始まった「世界恐慌★」があります。世界恐慌は1929年からの世界的な経済不況です。日本では昭和4年のこと。第一次世界大戦が終わり、不景気の波が人々に押し寄せます
世界恐慌(ウィキペディア・パソコン向け)
>第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。
>1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていた。
>1927年にジュネーブで行われた世界経済会議では、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択された。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。3月には昭和金融恐慌が起きた。
>そして1929年7月30日、ニューヨーク・タイムズが信用収縮に直結するような重大事を書いた。ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出しであった。記事によると請求されている資産のうち、およそ500万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命のときから不法に預けられているものである。(ここまで引用)
個人の命も思いをも軽く見ていた社会は再び世界大戦へと向かいます。群れとしてのヒトが生き残るには群れ同士縄張りを奪い合うしかなかったからです
そんな時代、ガスリーは自身の思いを社会運動に託しました。その社会運動が「正しい」かどうかはわかりません。群れとしてのヒトは、大きなチカラにすがり個人として思いを忘れてしまいます。思いが正しくともそのチカラまで正しいかはわからない。運動が大きくなり組織化するにつれ、そのチカラは増大し個人の思いは忘れられていきます。だからボクらは意識をして、自分の思いと向き合っていく必要があるのだと思います(藤田)
ボクはジマーマンを信じる。でも押し付けたくはない