2011年夏、いよいよ始まりました。現在、水回りや土台の工事が進行中。写真左側の空間が"さくら湯"予定地です。完成は一年後。2012年秋ごろです。
写真は、山鹿ビルといわし雲。山鹿で、エレベーターのついた最初の高層ビルだそうです。(塾長)
>山鹿温泉「さくら湯」38年ぶり復活へ(YOMIURIONLINE・パソコンむけ)
>山鹿市は、かつて山鹿温泉のシンボルとして親しまれ、1974年に老朽化などのため解体した市民温泉「さくら湯」を跡地に再建することになり、工事を進めている。来年10月頃までに完成し、38年ぶりに復活することになる。
>さくら湯は、1763年(江戸時代)の絵図で細川藩の御前湯として描かれている。明治初年の大改修を経て公営の庶民温泉となった。解体前の建物は、上空から見ると大屋根は十字型で、南北の出入り口は唐破風の重厚な造り。明治、大正の面影を色濃く残していた。
>市によると、新生「さくら湯」は基本的に従来の姿を再現する計画で、建物は瓦ぶきの木造2階建て(床面積1012平方メートル)。1階に男女の浴室、脱衣所、待合室を設け、江戸時代に細川藩主らが利用したといわれる「龍の湯」も昔の形のまま造る。観光案内所も設けるほか、2階には温泉資料室を予定している。(ここまで引用)
2010年9月20日
秋の日はつるべ落とし@山鹿市
2010年08月02日
全国学力テストの結果から|小中学生に知的刺激を!
2010年07月24日
さくら湯跡地はこんなにすっきり@山鹿温泉
2010年02月08日
百華百彩・温泉プラザ山鹿の屋上から@山鹿市
2009年10月09日
さくら湯は10月末まで、再建へ@山鹿市
>江戸時代、温泉は身分によって入るところがわかれ、との様や藩(はん)の重役が利用する「御前(ごぜん)湯」、家臣(かしん)が利用するの「御次湯」、一般平民が入る混浴の「外湯」と三つに分かれていました。
>明治5年(1872年)ごろ温泉の改築が行われ、町営の龍(たつ)の湯、桜湯、紅葉(もみじ)湯、松の湯、梅の湯が作られました。現在のさくら湯には、男湯に松の湯の、女湯に紅葉湯の看板(かんばん)が残っています。
2009年09月01日
再開発ビルの改装を見守る灯篭娘@山鹿市
>以前この場所は、さくら湯(昔の写真)を中心に土産物屋や食料店や衣料店が坂にそって軒を並べる商店街でした(昔の写真)。プラザファイブは、1975年に山鹿市中心部の再開発ビルとして始まりました。当時は日本各地で、大型スーパーマーケットと地元商店街の競争が激しかったころですから、その両方を含むプラザファイブは大いににぎわいました。
写真は、山鹿ビルといわし雲。山鹿で、エレベーターのついた最初の高層ビルだそうです。(塾長)
>山鹿温泉「さくら湯」38年ぶり復活へ(YOMIURIONLINE・パソコンむけ)
>山鹿市は、かつて山鹿温泉のシンボルとして親しまれ、1974年に老朽化などのため解体した市民温泉「さくら湯」を跡地に再建することになり、工事を進めている。来年10月頃までに完成し、38年ぶりに復活することになる。
>さくら湯は、1763年(江戸時代)の絵図で細川藩の御前湯として描かれている。明治初年の大改修を経て公営の庶民温泉となった。解体前の建物は、上空から見ると大屋根は十字型で、南北の出入り口は唐破風の重厚な造り。明治、大正の面影を色濃く残していた。
>市によると、新生「さくら湯」は基本的に従来の姿を再現する計画で、建物は瓦ぶきの木造2階建て(床面積1012平方メートル)。1階に男女の浴室、脱衣所、待合室を設け、江戸時代に細川藩主らが利用したといわれる「龍の湯」も昔の形のまま造る。観光案内所も設けるほか、2階には温泉資料室を予定している。(ここまで引用)
2010年9月20日
秋の日はつるべ落とし@山鹿市
2010年08月02日
全国学力テストの結果から|小中学生に知的刺激を!
2010年07月24日
さくら湯跡地はこんなにすっきり@山鹿温泉
2010年02月08日
百華百彩・温泉プラザ山鹿の屋上から@山鹿市
2009年10月09日
さくら湯は10月末まで、再建へ@山鹿市
>江戸時代、温泉は身分によって入るところがわかれ、との様や藩(はん)の重役が利用する「御前(ごぜん)湯」、家臣(かしん)が利用するの「御次湯」、一般平民が入る混浴の「外湯」と三つに分かれていました。
>明治5年(1872年)ごろ温泉の改築が行われ、町営の龍(たつ)の湯、桜湯、紅葉(もみじ)湯、松の湯、梅の湯が作られました。現在のさくら湯には、男湯に松の湯の、女湯に紅葉湯の看板(かんばん)が残っています。
2009年09月01日
再開発ビルの改装を見守る灯篭娘@山鹿市
>以前この場所は、さくら湯(昔の写真)を中心に土産物屋や食料店や衣料店が坂にそって軒を並べる商店街でした(昔の写真)。プラザファイブは、1975年に山鹿市中心部の再開発ビルとして始まりました。当時は日本各地で、大型スーパーマーケットと地元商店街の競争が激しかったころですから、その両方を含むプラザファイブは大いににぎわいました。