幸次には父の思い出というものがほとんど無かった。
突然蒸発した父を捜したり、逢いたいという気持ちも起こらなかった。父のいない小諸の作り酒屋で、懸命に働いた。小柄で気丈な母と、出来のいい兄貴の下で育った自分を不幸だと考えたことはなかった。しかし、自分はいつまでもこの家には居られない。
次男が跡取りとは別に、なにがしかの処遇を受けて別所帯や、分家となるということでなく、早い時期に家を出て、自立したいという思いだ。次男の自分に、父の血が強く流れているのかもしれない。母からは、よく聞かされていた。
「あの人は父親になれない男だった。仕方が無い、そういう人と一緒になったんだから」
色盲や音痴のように、父は生まれながらに父親になる遺伝子が欠如していた。自分も同じことになりそうだ。
高校卒業と同時に北海道へ渡った。
全共闘の闘志が都会を離れ、小諸で趣味の陶芸家として、母と出会った。父と同様で、人との接触の少ない大自然を求め、そんな仕事を捜した。
母や兄の言う「変な人」の血が自分に流れていることを孝次は自覚せざるをえなかった。
母と兄は丸顔で柔和な目鼻立ちである。孝次は頬骨の張った角顔で、細く水平に見据える眼は、友達からも気味悪がられ、いつの間にかスネイクと渾名されていた。写真で見た蒸発した父とそっくりである。その容貌こそが、孝次にはドス黒い大きなシコリになっていた。
北海道では函館、札幌と二年間、飲食店の下働きやバーテンをやり、三年目の梅雨明けに、客から紹介された日高、新冠の池貝牧場を訪れた。
サラブレッドの生産と、育成の仕事には興味があった。大自然の中での馬の世話というのが孝次の性に合ってもいた。
ようやく自分の居場所を見つけたという気がした。
幸次・・計画
束の間の賭け心と快楽を求める業種というものがある。
ほどほどの成長売上を示した競馬、競輪、競艇も、今回の長いバブル不況では苦戦している。
それでも、日本中央競馬会(JRA)は、ビッグレース(G1やG2)のない、土・日曜日で、全十二レース一日百五十億円から二百五十億円の売上を計上している安定した公認賭博である。後半のメイン三レースで、およそ、その半分の売上を占める。
更に、格の高い(G1)レースは、場外馬券売場を含めた全国発売ということもあって、ダービーで五百億円程度、昨年の皐月賞で四百億円の売上を上げている。
JRAは、約七五%を的中者に払い戻している。
残りの二五%が、あらゆる諸経費で、その中には、施設やシステムの開発、開催に係る費用から、馬主・騎手・厩務員等への賞金、競走馬の生産育成援助や、馬に関する研究、調教の為のトレーニングセンターの運営、騎手の育成、地方競馬や海外との交流等、その運営は専門性の高い、多岐の分野に亘っている。
ファンの、勝馬に賭けるという行為は、人間の賭への欲求そのものだが、公正な運営を信頼して賭けるという側面もあるだろう。国が指導する賭屋であるから、公正さと、透明性も求められている。
日本競馬のルーツは、明治以降の軍馬改良という側面が強く、「競馬法」「地方競馬法」により、諸外国の第三セクター的な「ジョッキイクラブ運営」に比較し、国による規制色の強いことが、特徴となっている。
表 孝次(通称スネイク)は、その点を考慮していた。
計画は、日本で育成されたサラブレッドが、海外進出するタイミングを狙う。思い切った行動がとれるからだ。
海外進出で、相当の評価を受けるサラブレッドというものは、そうザラにいるものではない。まして数年がかりで狙い、仕組んだ計画でも、成功するという保証は無い。
〈気の長い冒険〉を共有出来るメンバー捜しも、難しい課題となりそうだ。
更に難しいのは、サラブレッドの神経質な性格を利用する事だ。馬の固体差やメンタル面の研究も必要だ。
スネイクは、調教助手もしていたから、ある程度サラブレッドそのものについて、[個体差]特にメンタル面でのそれが大きい事を知っていた。この分野のエキスパートが必要だ。
更に、海外の実行グループの人選も、課題だ。
試して見る回数を二・三回程度として、日本と海外でかなり自由に活動出来るメンバーが必要であった。
計画の発端となる日本では、将来性のあるサラブレッドを選択し、育成時代に、その馬に仕掛けの出来る人間が必要だった。
ターゲットとした馬へ、短時間で大量の馬券購入を、着実に実行出来る事務能力にもたけた人間。どうしても二~三人は必要になりそうだ。
一回目のトライアルで、二千万円相当の馬券購入を仕掛け、五億円程度の回収を狙いたい。成功すれば、国を変えて第二回目のトライを行う。三回目が勝負で完結だ。
総収入は二十~三十億円がターゲットだ。
四年がかりとしてメンバー四人で、一人五億から七億円だ。一人年間一億円以上の収入だ。
〈持続しつつ実行する計画〉は、こんな所だとスネイクは思い描いていた。
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