馬主 曽我
この事件の九ケ月前、曽我は石井牧場を訪ねていた。
彼は、石井牧場の繁殖牝馬と、その配合を信頼していた。新冠でも小規模牧場だが、良い母親に恵まれ、ここ十年近くのめぼしい仔は、ほとんど所有していた。
今度のメティウスの´96はどこか違っていた。
石井の息子から、メティウスと、ブライアンズタイムの配合に期待してほしいと聞かされ、四月十二日の誕生の翌月には、新冠まで確かめに来ていた。
誕生から一ケ月の仔馬というのは、本当に愛らしい生き物だ。
母メティウスの足下を離れようとしないで、小走りにじゃれ付いている。何回も見ているのだが、どの仔馬も本当に可愛い。
この仔馬だけが特別というわけでもない。
彼等は皆同じように無邪気で、やがて来るサラブレッドの厳しい戦いの時間とは別な、離乳までの六ケ月を過ごしている。 母との一日中の触れ合いは、平和な時間の流れで、この間に骨格や訓練前の気性といったものが決まって来る。
新冠の五月上旬は、さわやかで冬の厳しさを忘れさせてくれる。本州ではとっくに終わった桜が満開で、メティウスとその仔馬が、桜一面の牧場で、ゆっくり走る姿は、曽我の心身を洗ってくれる。 「いいもんでしょう。馬主さんを迎えるこの時期、一番希望が湧きますよ。先行きどうなるか、この仔のしまいがどうなるのか、それはわからないけど。生まれてすぐの、この親仔を見ると我々の不平不満もぶっ飛ぶ気がするんですよ」長男の康太郎が親仔を目で追いながら言った。
「同感だよ。やがてこの仔馬の心配や無事にレースで廻って来てくれればいい、故障はしないでくれ。と、思うのもこういう場所からのつながりなんだな」
「今年のメティウスの仔は、骨格がしっかりしていますよ。それに、やんちゃ坊主の気質というか、ちょっと棹性が強そうなのは、ブライアンタイム譲りでしょうかね」
「そこそこには走るかもしれないな」
「順調に行ったら、美哺の村田さんの所はどうでしょうかね」
「おいおい、もう俺が馬主ってことかね」
「だって、その気になっているんでしょう」
「うーん……。まあ、そういうところかな」
「じゃ、決まりですね。セリには出しませんから」
「いやあ、いつ来ても、見て勧められる仔馬と言うのは、断りにくいもんだな」
「私も、この仔は、曽我さんに是非と思っていましたから」
「君にはかなわんよ」二人は笑った。
「所で、弟さんは来るかい。去年は随分涙を飲んだな」
「康雄もデビューして八年ですからね。最初の勢いはともかく、主戦の本田さんが何やかやと世話を焼いてくれていますよ。去年夏の落馬で、回復に手間取りましたがね。ここ二~三年で、本田さんや、テキ(調教師)も康雄を主戦にしたいようですし……頑張りどころですね。先週顔を見せたんですよ」
「今年は、山形さんの新馬で、結構走りそうなのがいるから、康雄君にも出番が廻って来るだろうな」
「私もそう思って、頑張れよ。と、励ましました」
「康雄君はどちらかというと、逃げ馬をなだめて、着に持ち込むのが上手いから、新馬戦はいいと思うよ」
「もう、同期の連中には、ダービーを勝った武井や、柴田勝己、蛯川もいますし、頑張りどころですね」
メティウスの仔を、また持つという事に、曽我はなんとも言えぬ楽しみを感じ始めていた。馬主は経済的にも大変で、心配も多いが、持ち馬と一緒に、何年か時間を共有しているという充実感が、一層大きい事を知っていた。
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