昨日の記事の中で、心の奥に気づかないまま良い人を演じてしまうという話をしました。
良い言葉を発しても、人に対して良い事をしても
自分の心の度を超してしまうのはもう止めにしてあげないといけませんねという話。
バランスが崩れてしまい病の原因となる。
その病がSOSを伝えてくれている。
そのSOSは心の訴えでもあり、肉体の訴えでもあり、魂の訴えでもあるのです。
どのバランスがどんな風に崩れているか、
どんな風に調整したら良いのかを自分で見つける必要があるのです。
その時に自分だけでは分からなければ、
医学の力を借りる事もあるし、
人の力を借りる事も。
してあげてばかりいて肉体の度を超しているのか、
してあげてばかりいて心の度を超しているのか、
魂が置いてきぼりになっているのか。
もちろんこれはしてもらうばかりの人だって度を超す場合もありますよね。
小さな些細な時からの積み重ねです
度を超した時には気付かなくなる場合もあるし、
後戻りできない場合もあるし、
だからどこかが悲鳴を上げるのです。
誰でも特に今時は何でも「科学的根拠」を欲しがります。
自分に自信が無いからです。
それも度を超してはいけませんが、
人間としても根拠は心です。
もっと言えば魂です。
たまに「根拠のない自信」とも言いますが、
それもこの「心・体・魂」のどこかに自信があり導いてくれているのです
スピ友でよく私がヒーリングセッションする人ですが、
人生経験でもよく学んでよく気づきを得ている人がいます。
魂は歓び、魂は大きく成長しています。
心もどんどん次元を上げて成長しています。
「魂と心と体」のバランスの内の肉体というのは、
口から発せられる言葉もだし、行動を起こす事もそう。
身体の細胞の記憶もそう。
ただ…、何年も癖付いた言葉や語彙の選択、行動は肉体に染みついているのです。
細胞も新陳代謝を繰り返し生まれ変わっているというのに
一斉にではないので、癖の記憶を隣りへ伝えてしまうのです。
それもまた心根がそうさせている場合もありますが、
癖というのは曲者で、表現への影響は大きいのです。
トラウマもそうであるように。
肉体細胞の記憶も病気にさせている要因でもあります。
生活習慣病などは特にです。
そして、薬に頼り他の要因に目を向けないというのもそうです。
細胞の癖を見つけた方が薬に頼らなくて済むのです。
最初は医学の力を借りて方向変換したとしても、
その後には自分が向かう方向は自分で決めないといけないし、
癖を直して行かないといけないのです。
直すには癖の本質を知り、自分の思い込んでいる概念も広げ上書きして行かないと癖は治りません。
そのスピ友とも話すのですが、
話している時にはそうかそうかと納得するのですが、
すぐさま言葉が打ち消すのです (>_<)
私の事で言うと、「でもね」「だけどね」なんて言葉が癖でした。
自分の事を否定する、自分の事を信じないという。
先ずはその言葉を言わない努力、
それと同時に自己否定しない、自分を認める、自分を信じるという事をして行ったのです。
自分に自信が無い、不安、勇気が無い、潔くない、優柔不断、
その反対の意味も含まれていて、自分の我でもあったんですよね。
自信が無いのに自分を否定しながら相手も否定していたのです。
相手に信頼感を持てないという事でもあるんですよね。
そんな上に成り立っていた言葉だったんでしょう、
私にとって「でもね」「だけどね」という言葉は (^^;)
また言ってしまったと言いながら何度も何度も意識しながらそんな言葉を手放して行きました。
そのスピ友みたいに、年齢を重ね、経験を重ねて
心も丸く心も成長している人は多いです。
でも…、
口癖、行動癖、記憶癖、思考癖を書き換えていない人も多いです。
本当はもっと幸せな人が多いはずなのに、
本当はもっと良い人が多いはずなのに、
癖によって損をしている人も多い (^.^)
そんな風に思う私です (*^^*)
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