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イラストのこんな時代もですが
人類の御先祖様も色んな時代を体験してきました
石器、弥生、安土、江戸…後、なんやろうね (^^;)
今では考えられない、不便もあったでしょう
でもその時代の人類にとっては便利も知らないので精一杯受け入れ、考え、知恵を絞り生きてきて
成長し、進化してきました
学生時代にこんな事も勉強したでしょうが、どこか他人事、自分達と同じ人類が体験していた事とは繋げて考えた事も無かったです
今の政治家が国民の生活を同レベルで考えられないのと同じでしょうね
世界が違う…
そう簡単に言ってしまえば終わりでしょうが、共存しています
意識は違っても共有し、共感し、共存しています
個人レベルで、あの人と世界が違う、あの人は嫌い…なんて言っているだけでは駄目な次元でもあります
今回のコロナウイルスに関しても
個人レベルではただの風邪レベルだったり、病気レベルだったり、感染症レベルだったり
その影響が死活問題だったり
心底運命レベルだったり…
ホント様々です
それでも、今までの時代でも何度も色んなレベルで人類は乗り越えてきています
意識の成長もし、進化し、と。
それを狭いレベルでは個人レベルとなりますが
社会全体となると時代レベルですよね
それでも反映されている世界を個人レベルでしっかり考える時でもあります
いろんな問題が表面化されているけど、自分に関係なくてもそれを客観的に自分の意見や考えとしてしっかり認識しながら共有して消化していかないといけないかなと
政治の問題もですが
今回の高校野球の全国大会甲子園開催中止の件もですが
私も甥が高3で甲子園目指して頑張っていました
気休めでしかない何か言葉をかける事はしませんが
考えました
一番はその高校球児たちが直面している事で
その子達が受けとめるのには、色んなそれぞれの思いもあるので時間もかかるでしょう
その身内も、関わる人達も
それでも案外その時代に生まれて生きている当の本人たちはそれを知っていて生まれてきているんだと思います
運命ですよね
でもそれを見守る周りの人、周りの大人達の受け止め方も考える必要があるんじゃないかなと思います
その時代の子達が大人になって社会に出た時にでも受け入れる先人たちがどう見るか
可哀想、みじめ、哀れ、時代の犠牲者…なんて思わないで受け止めれるか
そんな意識でいいのか
よく、どんな時代もですが
例えば戦争でも、戦争の犠牲者と簡単に言ってしまう
これって犠牲者って言ってしまっても良いのかなと。
当の本人は誇りだと言って亡くなって行ったかもしれないのに
後世にメッセージや知恵を残してくれているというのに…
私の子供達は教育者や政治の判断だったんでしょう、「ゆとり教育」「ゆとり世代」と言われています
そして、後に失敗だったと言われています
大人達の失敗だったかも知れないのに
当の世代の子達は影響は大小あってもさほど気にしていない
気にしていては前へ進めないから
なのに…
社会に出ていくと、「ゆとり世代」だと皮肉られたりバカにされたりしていますよね
よく、「今の若いもんは!」とか言いますが、そう育てたのは大人達かも知れない
その大人達もまた前の世代にそう言われてきたんですよね
正しかったか、間違いだったかは正解は無いんだと思いますが
私達大人や先人は後世に責任を取らないといけません
その責任というのは私達も先人達も受け入れ認めるという事だと思います
今の世の中は責任逃ればかり、その象徴が政治の世界、教育の世界
責任を問う方も問う事の責任を取り、考える
それぞれ角度も違う、見えている物も違う、捉え方も違うので
自分の目の前に反映されているものは責任もって考え自分の答えをだし、それに責任もつ
そうやって成長していく時代に変わっているんだと思います
時代の犠牲者なんていない
みんな精一杯生きている
尊重し、尊敬し、その時代に関わった事で残して行ってくれた足跡には感謝しかない
私達も個人レベルでちゃんと子供達に残している
その子供達が社会に溶け込む事で共有し、影響も与えていくんでしょう
それでも同時に自分も考え進む時代ですよね (^.^)
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