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 2020年の城攻め納めとして、埼玉県さいたま市にある岩槻城跡へ行ってきました。



 岩槻城は室町時代に太田道灌によって築かれたと言われており、俗に太田道灌の三名城の一つにも数えられています(他の二つは江戸城と川越城)。しかし近年の研究で、太田氏と敵対していた成田氏が築城したという資料も見つかっているそうです。いずれにしろ戦国時代には太田氏が岩槻城を支配することになります。

 その後、北条氏がこの地方に勢力を伸ばしてきます。一時は北条に臣従していた太田家当主・資正ですが、関東に進行してきた上杉に呼応して北条と敵対するようになります。しかし資正の子・氏資が資正を裏切って北条に付き、岩槻城は氏資の手に落ちます。やがて氏資が戦死すると、岩槻城は北条直轄の城となりました。そして北条の城ということで、秀吉の小田原征伐の際に落城することになります。

 江戸時代には岩槻藩の藩庁として機能しますが、岩槻藩はいろいろと不祥事が多くてなかなか藩政が安定せず、入れ代わり立ち代わり藩主が交代していきます。しかし九代将軍家重の時代に藩主となった大岡忠光からようやく安定し、幕末まで大岡家が藩主を務めることになります。





 東武野田線・東岩槻駅からスタートします。





 途中、元荒川にかかる岩槻橋を渡っていきます。





 住宅地の中に、突然ぽこんと盛り上がった林が現れます。こういうところって、いかにも城跡っぽい感じがありますよね。

 岩槻城跡は現在、岩槻城址公園として整備されています。



 これが公園の入り口にあった地図です。



 拡大するとこんな感じ。

 岩槻城は実は巨大な沼に囲まれた水城でした。その外側にはさらに元荒川が流れていて、二重の水によって守られていました。
 しかし残念なことに、現在は沼はもちろん、本丸、二ノ丸、三ノ丸辺りは住宅地になっていて、遺構はほとんど残されていません。ちょうど、来る途中にあったぽこんとした林が、三ノ丸の東に突き出た曲輪のあたりでしょうかね。
 沼の南東側にある新曲輪の一部と鍛冶曲輪あたりが、現在城址公園となっているエリアで、そこにはある程度の遺構が残っています。

 とはいえ、新曲輪についても……、



 遊具があったり、



 テニスコートがあったり、



 野球場があったり、多くのエリアが普通の公園っぽくなっちゃっているんですけどね。





 さて、ようやく城跡っぽいものが出てきます。
 こちらは黒門と呼ばれる門。どこに使用されていたものかはわかっていないのですが、岩槻城で使用されていたものです。



 新曲輪から鍛冶曲輪へと降りていきます。
 この鍛冶曲輪こそが岩槻城跡の核心部。ようやくいろいろな遺構を覗くことができますよ。



 ……とは言え、鍛冶曲輪のど真ん中にある菖蒲池と、そこにかかる八ツ橋は、岩槻城とは特に関係ないんですけど。



 ちなみに、八ツ橋は、くねくねと8回曲がっていることから名付けられています。



 でもまあ、岩槻城と関係ないということを除けば、なかなか見栄えがしていいんじゃないかと思います。







 ちゃんと遺構もあります。
 これは新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀。今は埋め戻されていますが、堀障子という畝が作られていて、敵の移動を妨げる働きをしていたようです。
 ただ、堀障子の解説板には空堀と書いてありますけど、地図によれば沼や元荒川から水が引き入れられている水堀みたいに描かれているんですよね。まあ、堀障子を設えているということは、空堀なんでしょうけど。



 ぐるっと、新曲輪の北側に回り込みます。
 左側の山が新曲輪。その手前に水堀っぽいものがありますが、実際には右側の公園まで含めて全部沼だったエリアだと思います。



 からくり時計がありましたが、故障のためからくり人形は動かないそうです。





 鍛冶曲輪に戻り、鍛冶曲輪の東側へ。
 虎口のようになっていて、この先を右に折れると門があり、馬出へと繋がっています。



 左にも出口があります。昔の地図と比較してみると、こちらは湿地帯に出る出入口のようです。



 石碑が立っています。
 岩槻城は、別名白鶴城とも言います。



 土塁の上から、虎口を眺めて。



 同じく、土塁の上から。
 この橋の先が馬出しになっており、その先は城址公園の外になっています。
 しかしここにはもう一つ見所があり、橋の左右から空堀に降りていくことができます。



 橋から南側を覗きます。



 空堀に降りて左折していくと、道路に出ます。



 今度は、橋から北側へ降りていきます。







 こちらは割と長々と歩いていくことができます。



 空堀をずっと歩いていくと、土塁をぐるっと回り込み、菖蒲池に戻ってきました。



 鍛冶曲輪を出て、一般道まで戻ってきます。



 これは人形塚。からくり人形のところにも解説があったのですが、岩槻は人形の町らしいです。
 岩槻人形連合協会が10月15日を人形の日と定めたときに、記念としてこの塚が建てられました。男雛と女雛が仲むつまじく寄り添った姿は「人」を形象していて、世界の平和と郷土岩槻の発展の願いが込められているのだとか。



 こちらはちょっとみすぼらしいけど、岩槻城の裏門が移設されたものです。裏門と言いつつ、どこの門なのかははっきりしていないらしいですけど。



 巨大な水城だった岩槻城ですが、遺構のほとんどが残っていないのは残念でしたね。それでも新曲輪、鍛冶曲輪といった城の一部分だけでも残っていたのは幸いでした。特に鍛冶曲輪は堀や土塁などが結構な規模で残っていました。
 ただやっぱり、沼に浮かぶ岩槻城の姿も見てみたかったですけどね(岩槻城には浮城という別名もあります)。新曲輪と鍛冶曲輪だけでもそこそこの大きさがあるので、全部残っていればかなり壮観だったんじゃないかと思います。

 まあ、城跡だからと言って、使いやすい土地をそのまま遊ばせておくよりは、何かしらに利用した方が良いというのもよくわかるんですけどね。その意味では、平時には不便な山城の方が遺構としては残りやすいのかもしれません。それはそれで、荒れ果てる可能性も高いかもしれませんけどね。





 岩槻城を見終わった後、ずーっと南下して代山城跡へ行きました。ここは太田氏の家臣・小久保縫殿助により築城されましたが、行ってみたらただの小山で、遺構っぽいものはありませんでした。登ってみたらもう少しなにかあったのかもしれませんが、この周辺で地元の方が集団清掃みたいなことをしていたので、ウロウロするのはやめて、さっさと退散しました。
 ここに来る途中、徒歩だったので、東北自動車道を渡るのに苦労しました。



 そして、見沼自然公園で、ちょっとだけ野鳥を観察。



 最後に、これまた太田氏の家臣だった、松野氏館へ。松野氏館はただの公園になっていました。
 この後、大宮駅から帰宅。岩槻城の後は長々と歩いただけで、あんまり見所はありませんでした。



 これにて2020年の城攻めも終了。東京周辺の有名どころの城としては、比較的行きやすい埼玉や神奈川の城を残しているので、2021年はとりあえずその辺りを……と思っていたのですが、緊急事態宣言もあって1月2月は全然行けておりません。ワクチン接種も始まりましたし、いい加減新型コロナも落ち着いてくれるといいんですけどね。





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