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 3月に行こうと思っていながら電車に乗りそこねて取りやめた白河小峰城ですが、18きっぷの期限ぎりぎりの4月上旬に、改めて行ってきました。



 白河小峰城は小峰ヶ岡という丘陵の上に築かれた平山城。元々は南北朝時代に結城親朝によって築かれました。結城氏は戦国時代までこの地を支配しますが、秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、改易されてしまいます。
 その後は会津領として蒲生、上杉、そしてまた蒲生といった大名が治めます。しかし1627年、蒲生家当主の忠郷が25歳の若さで亡くなると、跡継ぎ不在のため蒲生氏は改易。そのごたごたで会津藩は分割され、白河藩と二本松藩が誕生します。
 白河10万石には初代藩主として、丹羽長重が入ります。白河藩は奥州の入口として重要なポジションにあるため、藩庁となった白河城もこのタイミングで改築が進められます。
 そんなこともあって、初代の丹羽氏こそ外様大名ですが、その後榊原氏、本多氏、奥平松平氏、結城松平氏、久松松平氏、阿部氏と、親藩・譜代の大名が入れ替わり立ち代わり藩主を務めることになります。

 幕末には、白河の地は戊辰戦争でも屈指の激戦地となります。
 その頃白河藩は天領となっており、二本松藩の預かりとなって城主不在だったため、白河小峰城は奥羽越列藩同盟によって占拠されます。しかし新政府軍の攻撃を受け、甚大な被害を受けつつ小峰城は落城します。
 元々白河の地は東北の抑えとしての要衝にあり、ここを奪われるのは列藩同盟としてもかなりの痛手です。そのため落城後も、城を奪還すべく何度も攻撃が繰り返されることになります。しかし白河小峰城を奪い返すことは遂にかなわず、列藩同盟側の劣勢は決定的となってしまいます。
 そして白河小峰城も、その激戦の影響で、建物のほとんどが焼失してしまうことになってしまいました。

 現在、本丸と二の丸を中心としたエリアが城山公園として整備されています。建物も、天守に相当する本丸の三重櫓や前御門など一部の建物が復元されています。
 また、東日本大震災で石垣が大きく崩壊するなどの被害も受けましたが、現在は修復工事が完了しています。





 白河小峰城の最寄り駅は白河駅なのですが、その一つ手前の新白河駅で乗り換えが発生するので、新白河駅から歩くことにしました。
 ただ、途中何かしら見どころがあればよかったのですが、さほどのものもなく、なんとなく長い距離を歩いただけになってしまいました。



 白河駅の南側に到着。白河小峰城の本丸周辺は、駅の北側にある城山公園として整備されているのですが、白河小峰城の城域は白河駅を含むもっと広い範囲に及んでおり、駅の南側にも一部遺構が残っています。
 ここは三の丸の外側にある外堀跡の石垣です。石垣の幅は19.1m、高さは5m以上あるそうなのですが、その一部が露出展示されています。





 その近くに、三の丸から西側へ出る道場門の跡があります。



 白河駅。
 ちょっとレトロな感じで、いい雰囲気の駅舎です。



 「こみね・ふれあい通り」という地下通路を通り、城山公園へ。





 「こみね・ふれあい通り」には、小峰城をはじめ、白河の関、南湖公園、白河だるま市、白河提灯まつりなど、白河の観光についていろいろと展示してあり、まあまあ見ごたえがあります。





 「こみね・ふれあい通り」を通り抜けると、すぐに城山公園が現れます。



 門のところからも見えましたが、入ってすぐに何層もの石垣、そしてその上に立つ三重櫓がお出迎え。シンプルにかっこいいですね。



 公園入口は2ノ丸の辺り。現在は広々とした広場になっています。



 二の丸にある二の丸茶屋。お土産や軽食なんかを購入することができます。



 二の丸茶屋の裏に、巨大な内堀跡があります。今はかなり浅いですけど、本来はもっと深かったんでしょうね。





 その向こうには小峰城歴史館があります。
 中には歴代の城主の紹介など、小峰城の歴史に関する展示がなされています。

 何気に良かったのが、「小峰城VRシアター」。前、右、左と三面のスクリーンに映し出されるかつての小峰城の様子は思っていたよりも臨場感がありました。あまり広くない室内ですが、後ろの方だと左右のスクリーンが見にくいので、なるべく前の方の席に座るのがおすすめです。



 さらに奥には西への出口、会津門。



 公園の外側から。あんまり当時の雰囲気を残すという感じではありませんね。



 会津門付近から、本丸西側の水堀を眺めて。



 少し東を向くと、本丸の石垣が並んでいます。





 二の丸から本丸へと続く、清水門。
 現在は冠木門となっていますが、往時は櫓門だったそうで、それを復元するプロジェクトも進行しているようです。



 清水門の横の水堀。水量が少ないとやっぱり見栄えがいまいちですね。



 清水門を入ると目の前位に高い石垣がそびえています。この石垣の上が本丸で、その周囲を曲輪が取り囲んでいます。東へ行くと竹ノ丸、西へ行くとぐるりと北東方面まで伸びる帯曲輪につながっています。
 今でこそきれいに積まれていますが、ここの石垣は東日本大震災で大きく崩れてしまったようです。



 本丸の手前にある竹之丸。



 階段を上ると、本丸へと続く前御門跡があります。



 前御門。



 そして前御門前から見上げる三重櫓。



 前御門を抜けると本丸に出ます。今は広場ですが、かつてはここに本丸御殿が建てられていました。



 本丸の南側には多聞櫓があったようです。



 多聞櫓跡から、清水門、二の丸方面を見下ろして。



 多聞櫓からの本丸、前御門、三重櫓。



 本丸の南西側に桜之門があります。前御門ほど大きくはありませんが、本丸御殿の藩主居住区の近くにあり、藩主の出入りに利用されていたと考えられています。





 本丸内にはいくつか巨大な石碑も立っています。



 本丸西側に、一段高くなっているエリアがあります。



 その南西隅には富士見櫓跡が。



 条件が良ければ富士山も見えたのかもしれませんが、ちょっと雲が多いですね。
 ただ、目の前には見事な山並みが広がっています。方角的に、那須の辺りですかね。



 北西隅には雪見櫓。



 こちらは比較的近い山が目の前に現れます。雪見と言っても、雪だったらどこでも見られように。



 本丸の下にある帯曲輪と、その下にある水堀を見下ろして。



 丹羽長重公築城の碑。





 いよいよ三重櫓へ。



 三重櫓への階段を登りきると、目の前に「おとめ桜」が現れます。
 かつて丹羽長重が小峰城の回収を行った際、本丸の一角の石垣が何度も崩れ落ちてしまうということがありました。そのため人柱を立てることとなり、藩士である和知平三郎の娘・おとめが人柱に選ばれたということです。
 この桜はそのおとめの悲運を憐れんで植えられたもので、後に「おとめ桜」と呼ばれるようになりました。



 三重櫓。木造で、資料に基づき忠実に復元されています。
 復元ですが、一部の木材に戊辰戦争時の激戦地だった松並稲荷山の杉の木が使用されていて、そのときの弾痕が見えるように床板や柱に使用されています。



 三重櫓の入口で、日本100名城のスタンプを押すことができます。
 図案は三重櫓。前御門から見上げた角度ですね。すっきりしていいデザインです。
 インクの量が多すぎず、少なすぎず、めちゃくちゃきれいに押せました。毎回こうだとうれしいんですけどね。





 桜之門から本丸西の帯曲輪方面へ向かいます。



 桜之門を下から眺めて。
 道は細く、高い石垣に囲まれた通路となっています。



 西にある帯曲輪へ。ここも石垣に囲まれ、折れ曲がった通路となっています。



 帯曲輪に到着。右の石垣は本丸の富士見櫓、雪見櫓のある曲輪の下になります。



 帯曲輪の中ほどにあった、文庫櫓跡。



 ここは雪見櫓の下あたりですが、東日本大震災で崩れ、修復された箇所になります。



 帯曲輪をさらに奥まで進み、本丸の北側へ。
 ここは帯曲輪の北側にある、水懸口。通路のようになっていますが、この先は石垣の中ほどに出るため、そのまま通行することはできません。
 何のためのものなのかはわかっていないのですが、排水やごみ捨てのためのものではないかと推測されているようです。



 雪見櫓の石垣の北側。
 ここも東日本大震災で崩れた後、修復されています。



 三重櫓を北から見上げて。



 この石垣の隅の辺りは、石垣の形状があまり均一になっておらず、小峰城の中でも古い時期に積まれた石垣と考えられています。



 北東側から。
 白河小峰城は石垣が良く残っているため、どんな角度から見ても三重櫓がかっこよく見えますね。



 帯曲輪から北東方面へ出る、矢之門。



 そこからさらに北東部へ。公園の外へ出る通路になります。





 本丸北側の水堀に出ます。



 釣り人が釣り糸を垂れていたり。


 
 水堀越しの三重櫓。



 公園の東側から、入口まで戻ってきました。



 改めて、二の丸方面から見上げる三重櫓。



 これで城山公園は一通り見て回りましたが、この近辺にはもう少し城の遺構が残っているので、それを見に行きます。



 城山公園から東に300mほど行ったところに、小峯城の太鼓櫓が移築されています。





 二の丸の南側にあった太鼓門に建てられていた櫓で、明治期に一度民間に引き払われて三の丸の紅葉土手というところに移築され、その後また現在の位置に移築されました。



 中に入ることもできますが、払い下げられた際に茶室に改造されたため、現在もそのまま茶室になっています。
 中身は改造されていますが、ほとんど失われている白河小峰城の建造物としては、唯一残っている貴重なものです。



 さらに東へ200mほど行ったところに、三の丸の石垣も残っています。



 三の丸の北東側の石垣で、多分手前の平地部分は昔水堀だった場所だと思います。





 戊辰戦争でほとんど焼けてしまった白河小峰城ですが、それでも多くの石垣や堀などが残り、櫓や門なども復元されて、大変見ごたえのある城跡でした。

 私の地元・新潟県長岡市の長岡城も戊辰戦争で城が焼けたところまでは同じなのですが、長岡城はその後建物どころか遺構の類に至るまで徹底的に破却されてしまい、痕跡がまるで残っていないんですよね。そんな長岡城と比べると、白河小峰城の充実っぷりは、やはりうらやましく思いますね。
 一度失われたものを復元するのは難しい。それが何十年、何百年経った後なら尚更です。すでに失われているものは仕方がないとしても、現在残っているものについては、なんとか大切に残していきたいところです。

 白河小峰城を見学した後、この近くにある白川城へと向かいました。

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