
白い雪花石膏のような月が、森の梢の上を転がっていました。月明かりのため、星はいくらも見えず、ただ天頂から少し西寄りに傾いたあたりに、二つの一等星がかすかに光って見えます。
二匹の白蛇は、細い声で愛の歌を歌いながら、夜の森をさらさらと歩いていました。木々がそれを喜んで涼やかな風を呼び、自分たちの歌を歌いました。森の隅に隠れているほんの小さな花も、見えない星のためいきのような、かすかな歌を歌っていました。
二匹が森のシステム管理を始めてから、どれくらい経ったのかわかりませんが、今のところ、特に変わったことはなく、森は静かに生きて、この地上でやるべきことをやり、歌うべき歌を歌っていました。森が守っている小さな鼠も、増えもせず、減りもせず、安定した数を保って生きていました。鼠は時々、きゅう、と小鳥のような声をたて、それが白蛇には、小さな宝石のような光を吐いているように見えました。それはまるで、大きな鍋に煮た星光のスープに、ほんの少し混ぜるシナモンの香りのようでした。その鼠が鳴くと、星光のスープはそれはよい香りを放って、森全体に、心地よく甘い心が染みわたり、神の微笑みが森全体に切なくも強くふりかかるのです。
二匹の白蛇は、自分たちが管理を始めてから、森の天然システムが、特に変調もきたさず、順調にリズムを刻んで行われていくことに、静かな喜びを感じていました。
「いい夜だねえ、兄さん」前を行く弟が言うと、後ろを行く兄も答えました。「ああ、いい夜だ。歌が透きとおっている。美しい愛が流れている」双子の白蛇は、うれしそうに森を見渡しました。
そうしてしばらく、静かな喜びに二匹が浸っていると、ふと、どこからか変わった風の音が聞こえてきました。「おや?なんだろう」兄が言うと、弟も言いました。「おや?なんだろう」
風はまたたく間に森の方にかけてきて、森の梢に触れ、まるで女神の髪をかき乱すような音をたてて過ぎ去っていきました。それと同時に、月のある空に一瞬赤い絹をひるがえすようなオーロラが揺れ、かすかな鈴のような音を地上に落としたかと思うと、すぐに消えてしまいました。
二匹はしばし、茫然と空を見ていました。「一体なんだろうね」「本当に、なんだろうね」二匹が空を見ながら言うと、ふと、弟が何かの気配に気づいて、後ろを振り向きました。すると、そこにいるはずの兄の姿がないのです。弟は驚いて言いました。「兄さん!どこに行ったんだい?」すると、声はすぐに返ってきました。「何を言うんだ、わたしはここにいるよ。いや、それよりおまえこそ、どこにいったんだい?」「え?」
弟は、びっくりしました。今度は前の方を見てみましたが、そこにも兄の姿はありません。「兄さん、どこに行ったんだい?」「だからここにいると言ってるじゃないか。おまえこそ、どこに行ったんだ?」
そこに至って、二匹はようやく気付きました。兄も、弟も、同じ一つの口でしゃべっているのです。
ふと、周囲の樹霊たちがずいぶんと驚いて自分たちを見ていることに、二匹は気付きました。樹霊たちは彼らに、いつの間にか、二匹が一匹になっているということを、教えました。
「ええ?」と兄は言いました。「おやあ?」と弟は言いました。そう言えば、どちらも、同じ口でしゃべっています。「兄さん、兄さんはわたしみたいだね」「おまえ、おまえは、わたしみたいだね」一匹になった白蛇はきょとんとした眼で宙を見つめました。「「どういうことなんだろう」」と二匹は同時に言いました。そして彼ら、いえ彼は、呪文を唱えて、元の姿に戻ってみました。髪も肌も服も真っ白な美しい若者がひとり、そこに立っていました。ただ、胸飾りは、瑠璃でも、柘榴石でもなく、不思議な白い筋の入った紫色の石に変わっていました。それを見て彼は弟のように言いました。「何だろう?紫水晶だろうか。透きとおっているよ」すると彼は、今度は兄のように言いました。「ちがうよ、菫青石だろう。少し紫が濃いけれど」
「「なんでなんだ?」」ふたりはいっぺんに言いました。そして少し悲しくなりました。「弟よ、おまえはいなくなってしまったのかい?」「そんなことはないよ。わたしはここにいるよ。兄さん、兄さんこそ、いなくなってしまったのかい? あんなに、わたしたちは、いつもいっしょだったのに」「ああおまえ、わたしはいるよ。ちゃんとここにいるよ。いつもいっしょにいるよ」
二人は会話を交わしていましたが、樹霊たちからみると、それは一人の人間が二役の芝居をしているように見えました。兄の言ったことも、弟の言ったことも、胸に菫青石の飾りをつけた、一人の精霊が言っているのです。
しばらくの間、一人の白い精霊は、黙って森の中に立っていました。互いに互いを失ってしまったような寂しさが胸を浸して、目からほとほとと涙が流れました。精霊は、ああ、と重い息をついて、頭の重さのままにうつむきました。風がまた森の上をなでて行きます。誰かに呼ばれたような気がして、二人、いえ一人の精霊は静かに顔をあげて上を見ました。するとそこには、それは大きな白い蛇神が、森の梢の上に軽々と寝そべり、細やかな綿毛のような白い光を放ちながら、静かにこちらを見下ろしていたのです。
神を見て驚いた精霊は、慌ててひざまずいて拝礼しました。すると蛇神は、星の香りを放つ息をふうと吐いて、精霊を清め、言うのです。
「清くも白き精霊よ。汝は一人であったが、ある目的のためにあるときから二人となっていた。片方の名を、『いるもの』と言い、片方を、『いないもの』と言った」
精霊は驚いて、顔をあげました。蛇神は静かに続けました。「または、片方を『愛』と呼び、片方を『虚無』と呼んだ。二つのうち一つは本来ないものであったが、仮にあるとしていなければならなかったため、神は汝を二人に分けた。ゆえにこれまで汝は二人であったが、鍵の方向が変わったため、元の姿に戻った」
「そ、それはどういうことですか?」思わず、精霊は言いました。それはもはや二人ではなく、一人の声でした。
すると蛇神は蛇の顔でかすかに微笑み、言ったのです。「汝は、この世界を助けて行くに必要な一つの生きる紋章の一つであった。神は心清き汝を選び、一人を二人に分け、あり得ない双子として存在させ、苦しき世界を創造しつつ営んでゆく神の御計画のための、ひとつの灯として働いていたのだ。汝は神のため、そしてこの世界のために、いかにも大切な仕事をしていた。そしてその役目が、今日、終わった。よって汝は元の姿に戻った。白くも清き精霊よ。新しき名が、汝に授けられる」
すると蛇神は、精霊にしか聞こえぬ声で、精霊に新しい真の名を教えました。精霊は驚きました。そして言いました。「ああ、世界は、世界はそういうことになっていくのですか?」
すると蛇神はまるで月に溶けるようにやさしく微笑み、静かに「そうだ」と言いました。
精霊の心の中を、歓喜が踊りました。「ああ、そうなれば、なんとうれしいことでしょう。なんという美しい希望でしょう。神よ、御身のためにこの身がお役にたてたことをうれしく思います。ありがとうございます」そういうと精霊は、深く神に頭を下げました。そして精霊が再び顔を上げた時、蛇神の姿はもうそこにありませんでした。ただ、清らかな星の香りだけが、見えない薄絹をふわりとかぶせるように、森に漂っていました。
「ああ、兄さん」と精霊は弟のように言いました。「なんだい、おまえ」と精霊は兄のように言いました。「おかしいねえ、一人なのに、二人分しゃべってしまうよ」「そりゃあ何せ、本当に長い間、わたしたちは二人だったからねえ」「でも、一人だったんだね」「ああ、昔から、何となく感じていたよ、わたしたちは本当は一人なんだと…」「わたしもだよ…」
精霊は白蛇の姿になり、また森の中をさらさらと歩きながら、歌を歌いました。小さな鼠が、その前にまろび出てきて、キュウ、と鳴きました。この鼠の吐く小さな魔法の香りで、白蛇は小さくくしゃみをしました。それはたった一人のくしゃみでした。
「ああ、わたしは今、一つの愛なのだ」
一匹の白蛇は自分の中で、二人であった自分の心が、望遠鏡の焦点が合ってくるように、だんだんはっきりと一人に見えてくるのを感じていました。胸に暖かに燃える金の光が、喉を通り美しい愛の歌となって森を流れました。樹霊たちがそれを喜び、全てを賛美する歌を歌い始めました。
小さな鼠が、キュウと鳴き、かすかな星のため息を、吐きました。風が起こり、生きている天然システムが、歓喜に揺れて清らかな斉唱を、世界に流し始めました。それはこう歌っているのでした。
「世界にどれだけ多くのものがいようとも、存在するものはただひとつ、愛のみなのだ」。
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