中越地震の被災地である長岡市の山古志地域と小千谷市等を巡る観光パンフレットが、新潟県長岡地域振興局が製作したという記事を先日、某地方新聞の記事で読んだ。これから首都圏(東京)等に配布するという。
それは別にいい。大いにやればいい。しかし、いつも思うのは、パンフレットを作った、マップを作った、石碑を建てた、銅像を建てたとか、そこ迄なのである。それで、パンフレットを配布さえすれば、お客が勝手に来てくれるだろうと。後は野となれ山となれという人任せの観光意識でしかない。
つまり、新潟県も長岡市も、いわゆる官民共々、未だにこの感覚で多くの観光客を呼ぼうと思っているのである。来てくれると思っているのである。そこには全く観光活性化の(宣伝)戦略が欠如している。パンフレットを配布しただけでお客が来るという時代錯誤の発想には全くもって閉口する。新潟県の観光意識の現実というものがこの記事に如実に顕れている。
それにこのパンフレットの装丁、内容が、行政が如何にも作ったというありきたりな代物。これを観光客が手に取るだろうか、行きたいと思うだろうか、見ていて一向に楽しくない。そのように、相手が求めていることを考えもせずに編集デザインが為されているのである。
昔から新潟県一帯は食うに困らず、自給自足で日々暮らせることができる恵まれた環境にあった。一つに豊かであるというこである。だから、無理に他のことをしなくてもいいという意識がとても強い。しかし、これではいつまだたっても発展が見込めない。それは、市民からアクティブ性を奪うことになる。なかなか新しいものを生み出せない地域性が作り上げられてしまうのである。
隣県の長野県、群馬県、福島県等の観光地を訪れると、観光に対するそのしたたかで細やかな姿勢に感心する。如何にお客を呼び込むか、如何にお客に長く滞在してもらってお金を落としてもらえるか、次にまた来てもらえるようにどう工夫するか等、緻密に観光戦略を次々と打ち出してくる。必死である。それでもこのご時世、観光客を呼び込むためにかなり苦労しているというのである。それだけ観光というものは常に甘くないのだ。
新潟県のような豊饒な土地柄でなかったことがそういう地域性にさせたとも言われるが、のんべんだらりとした人間 性ではなく、間違いなく活力に満ちている様が手に取るように伝わってくる。
また、何だかんだと問題を抱えてはいるが、隣国の韓国、中国の観光業に対するあらゆる手段を仕掛けるエネルギッシュでパワフルな動きは見習うものがある。凄い。正に生き馬の目を抜くかのごとくのしつこさ、強引さ、周到さだ。

*2年前に一人旅で行った中国上海の観光地「豫園(ユアユエン)」。携帯カメラに慣れてなかったのでブレまくり、シャッターの押し遅れ状態に。それにしても凄い人だった。恐るべし中国。観光客は幾らでもいる。雲霞の如く湧いてくる。圧倒される。
欧米ではフランスがそうである。もうフランス経済の全てが観光収入で成り立っているといっても過言ではないだろう。

*2年前に一人旅で行ったフランス・パリのモンマルトルにある「サクレ・クール寺院」。世界中から観光客が来ている。欧米系が多いが、中国人、韓国人も増えている。日本人は今、思ったより少ない。
長岡市の○市長は、観光活性化という言葉を毎年、容易く口にするが、何ら具体的な観光戦略が見えてこないままだ。観光客をほんとに呼び込もうという気概があるのだろうか。非常に疑わしい限りである。
昨夜の記事からでは、長岡市が3年前から始めた周遊観光バスの「てんこもり号」の利用者が期間中500人から1000人というていたらくな数字を見せていた。今年は、ルートを変えただけの策で、それ以外に何の工夫もない。しっかりと官民による提携で観光客を掴んでもいない。新規開拓もしていない。一体誰が乗るのか。数字はまたたかが知れているだろう。
○市長には、如何に観光活性化を図り、観光収入を増進させるか、きちんと緻密な戦略、結果を市民に詳細に明示してもらいたいものだ。昨年は、35憶円もの市税が減収となっているのである。
活性化とは経済が回ることだろう。活況を呈すということだろう。減収の責任も追及されずに、口なら誰だって何でも言えるもの。安易以外の何物でもない。いい加減、妄想でなく、現実に細やかに対処していくべきではないのか。
一昨日の夜、NHKのテレビ番組で東日本大震災で被災した東北のある地域の中学生の活動を紹介していた。それは、地域に建立され、倒壊していた石碑から拓本を取るというものだった。
何んとそこに刻まれていた文字は、地震が来たら、その後、津波が来るからすぐに逃げろという祖先が遺した明瞭な言い伝えだったのだ。地震による倒壊があって、そして、この拓本で初めてその意味を住民は知った訳である。それまでは、誰も見向きもせず、掘られた文字も見えないほど汚れていたのである。
言っちゃ悪いが、石碑を建てるというのは結局この程度だろう。それでお終い。何ら活かされていなということだ。無駄だということになる。
だから言うのである。たかだか石碑でも、建てたら如何にそれを活かし続けることが大事か。永久に役立たせなくては建てる意味などない。顕彰の程度ではなく、細部に渡り観光戦略の枝葉を伸ばし、地域活性化に繋げ、そして、伝統文化として確立すべきなのである。
こういう地域性が根差されていたら、きっとこの石碑の真髄は、人々の心にいつまでも浸透していたはず。いつまでも汚れることなく明瞭な文字でもって。それだけ重い言葉を刻んていた。
裏を返せば、観光の活性化は、地域を潤し、市民に活力を与え、そして、歴史、伝統文化を守ることに繋がるのである。
シィエシィエ二ィー!
平成25年5月17日