<「第一暁開拓記念」碑に刻まれた入植者の名前>
●歩いた日:2019年6月4日(火)
●歩いた所
・本堂城回:若林、馬場
・土崎 :上野乙
・千屋 :上向野
・浪花 :南荒井
●歩いたログ(足跡)(道のり6.0km)
(以上の地図:国土地理院)
右手にグランドを見ながら並木道をさらに進む。県道の五差路から延びる道との丁字路のところでその並木道にカメラを向ける。
📷009:「一丈木」の並木道7
五差路から望む並木は松であったが、こちら側から望むと手前は杉並木で、そのすぐ奥から松並木に変わっていることがわかる。
道左手の杉の根元に石柱がのぞいている。丁字路を右折してその石柱の前に立つ。
(「旧千屋中学校」の校門)
石柱は明らかに門柱で、右側には字が消えてしまった門札がある。少し中に入って行くと、右手(ちょうど電柱の陰)に「千屋中学校の跡」と書いた石碑があり、二つの石柱は校門だったようだ。校門の奥の石が並べられたところは植え込みの木々で、さらにその奥が学校の正面入口だったのだろう。
並木道をさらに北に進むと道左側は「千畑小学校」である。学校前の広場で大勢の児童が走り回って遊んでいる。時刻は11時頃、休み時間なのだろうか。
道はやがて五差路に出る。そこから今度は県道を西に向かう。少し進んだところで振り返る。
📷010:「一丈木」の五差路方向の望む
信号のところが五差路で鬱蒼と並木が茂る。右手から五差路に出て手前に来たところ。この辺りには農協の施設が集まっているが、左手奥の「JA秋田おばこ千屋支店」、右手前の農協スーパーは店舗が閉じられている。
県道をさらに進むと道左手に農協の「千畑支店」の看板が立つ。農協組織の再編で支店はこちらに移ったようだ。
道はこの辺りで緩く右にカーブした後、まっすぐに延びている。しばらく行くと左手前方、道から少し離れた原っぱに大きな石碑が見える。近くで左折して集落会館の前を通り過ぎ、その前に立つ。
📷011:「第一暁開拓記念」の碑
石碑には「草分の塔 第一暁開拓記念」と刻まれている。
「千屋」の歴史をひもとくと、この辺はかつては「若林野」と呼ばれ、馬産地であったとある。先ほど見て来た「田沢疎水」が開削されたことによって、文字通り草の生い茂る原野が美田に生まれ変わり、誕生した集落が「第一暁」(ログ地図にも「一暁」の記載がある)のようだ。日が昇る「東山」の麓を将来に希望を託して開拓した場所にいかにも相応しい名称である。なお、「一」があれば「二」もあり、ほかの地図を見ると、ここから2km程北に「二暁」の文字がある。
ところで、📷003に写る神社は「暁稲荷神社」であった。開拓に入植した人たちが農業や生活の守り神として勧請した神社なのだろうか。
石碑の左手の道が先ほど歩いて来た県道で、その奥が「一丈木」の五差路である。石碑の裏側に回り込む。
(「第一暁開拓記念」の碑の裏側)
裏側に入植者、30組の夫婦、60名の氏名が刻まれている。このように夫婦の名を刻んだ碑は見たことがない。末尾に「後継者一同」とあり、この地域の礎を築いた親?世代(入植者)に対する強い思いが感じられる。
冒頭に、入植の第一次がS15年から、第二次がS21年以降と刻まれている。遠くの「玉川(抱返り渓谷)」から水を引き開田を行う「田沢疎水」の事業が着工されたのはS12年。その事業を頼りに入植が開始されたのがS15年。しかし、戦争による資材や労働力不足などで一時中断されるなど、事業の進捗は大幅に遅れ、30kmに及ぶ幹線用水路に通水したのはS26年のようだ。早い時期に入植した人たちは、水の来ない原野で悪戦苦闘したことだろう。
(その6に続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます