<「花館上大戸」の十字路、再び>
●歩いた日:2021年3月20日(土)
●歩いた所
・新谷地(四ツ屋):丹波窪、千刈久保、虎ノ口、小萱場、吉清館、上台、水吞場
・四ツ屋(四ツ屋):下原野、上原野、水吞場
・花館 :上大戸
※「水吞場」は、「新谷地字水吞場」と「四ツ屋字水吞場」がある。
●歩いたログ(足跡)(道のり4.3km)
(以上の地図:国土地理院)
(📷15の)祠や石碑の前を通り過ぎて北の方に足を延ばす。道は次第に下りになり、下りきると「新谷地」や「水吞場」の集落より一段低い、河岸段丘下の低地になる。現在、この低地には一面に田んぼが広がっているが、かつては「玉川」の流路になっていたことだろう。
引き返して、集落の中の道をみなみに向かう。墓地を過ぎたところで振り返る。
📷16:「水吞場」の一角2
道右側、墓の奥に写る大きな家の前を左手から来てこの道に出たところ。道奥左手に見えるブロック塀のすぐ向こうに前掲の祠などが建っている。
立っている道脇に白い標柱が建つ。
(「水吞場」の「玉川」船着場跡の標柱)
先に書いたが、「地名へのいざない」にある「水吞場」の船着場はここにあったようだ。
かすれて読めないころもあるが、説明には、「天和二年(1682年)ごろ、この船着場から玉川を下り雄物川に出て土崎港へ米を積み出したという。最後の船頭は水吞場の石橋○吉氏・・・」とある。
そういえば、墓地の前を通った時、墓石に「石橋」の文字があった。
写真の家のすぐ後ろが河岸段丘になっているので、その下を「玉川」が流れていたのだろう。
また南に進み、「上大戸」の十字路を過ぎて車を停めてある会館の前で来た道を振り返る。
(再度、「上大戸」の十字路)
奥から来たところ。スタート直後はこの十字路を右手に向かった。
自販機のあるところは、昔からあって今も頑張っている「上大戸の店屋っこ」。
車に乗ろうとしていると、年配?のおばさんが隣に車を止める。私が「会館に来たの?」と訊くと、「いや、墓参りに来た」という。道の向側にある墓地の前に立ったおばさんが、初めて気づいたように、「あら、まだ雪がいっぱいある!!」とつぶやくのが聞こえた。叔母さんが何を履いていたのかは覚えていない。
最後に、いつものように航空写真をご覧いただく。今回の範囲もH30年の写真があるのでそれから。
左上に「玉川」が流れる。中央に「水吞場」の、右上に「上原野」と「新谷地」の集落が写る。
下方に「上大戸」の十字路と「上大戸会館」があり、そこをスタートして歩いた道筋をピンク色で書き入れた。
📷05に写っていた「上原野」の古いコンクリート橋の位置を書き入れた。S23年の写真と比較してみたいので留意しておいてほしい。
「新谷地」の医者の旧医院は、広い屋敷に鬱蒼とした木立が茂っている。その前を歩いた道は、細い昔の道である。
「白山神社」も木立に囲まれて建っている。
写真中央に「水吞場会館」があり、その右隣、屋敷林を持つ広い屋敷の中に建つのが曲屋の家である。屋根の一部が青くなっているのは、覆っているブルーシートのようだ。
「水吞場」にすぐ左手(西)に、ログ地図にも描かれている大きな池(沼)が写るが、この辺りがかつての船着場であったのだろうか。この沼についてもS23年の写真のところで触れたいので覚えておいてほしい。
(その7に続く)
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