如空房理然、南京の人なり。本と興福寺の住僧、円縁大法師の弟子、衆事に交わることを辞し、戒壇院に入る。〈中略〉一両年を経て亦た戒壇に来たりて、本と法相を研き、因明に通達し、学識敏利し、鑽仰飛名し、大小並びに学ぶと雖も、菩薩戒を善くし、太賢梵網古迹、宗要、研究弘通す。越前国永平禅寺に往きて、仏法上人の遺門に入り、禅法旨帰、彼の宗義を存す。
凝然大徳『東大寺円照上人行状』下巻
これは、理然という人の話である。奈良の平城京出身で、興福寺の円縁大法師の弟子であったらしい。その後、東大寺の戒壇院で学び、法相(唯識)を学び、因明に通じたという。そして、大小乗の戒律を学んだが、特に菩薩戒を善く学んだという。
さて、問題は、引用文末尾の一節で、永平寺に行って、仏法上人(道元禅師のこと)の遺門に入り、禅を学んだという。遺門とあることから、道元禅師が遷化された後で、永平寺に入られたのであろう。なお、円縁大法師というのは、1060年に死去した興福寺別当25世のことであろうから、その系統の人、というくらいのことであろうか。ただ良く分からない。なお、鎌倉時代初期には、「円」「縁」の字が使われる興福寺の僧侶が大勢いるので、何かの誤記かもしれない。
それから、道元禅師との関わりであるが、遺門とあることと、円照の門人であったとして、円照自身の生没年(1221~1277)から考えても、理然が学んだのは、懐奘禅師などではなかったか。後は、凝然(1240~1321)の然、理然の然、2人とも同じ字を使っているので円照の兄弟弟子である可能性はあるのだろう。
それで、曹洞宗側の資料からは、これ以上分からない。また、理然の記録も乏しいようなので、とりあえずは以上である。
後は雑感を含めてだが、最近凝然大徳の文章を読んでいると、南都の律宗に、多くの伝統もあり、逸材もいたことが分かる。そして、後代伝来した宗派である曹洞宗に於いて学ぼうとする人もいたということだろう。また、この理然という人は、余り他の大衆と交わりを持たなかったということで、黙然と坐禅するのに向いた人だった可能性がある。
それにしても、『内典塵露章』を見ても臨済宗の栄西や心地覚心や東福円爾などを挙げているのに、道元禅師のことを指摘しないのを残念に思っていたのだが、どうも、円照上人の伝記を見るとちゃんと知っていてくれたらしい。
とりあえずの記事ではあるが、以上である。
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