熊野古道、京都から大阪・和歌山を経て田辺に至る紀伊路、そして田辺からは険しい山道を分け入り熊野本宮に向かう中辺路。
古代から中世にかけ、本宮・速玉・那智の熊野三大社の信仰が高まり、上皇、女院や庶民にいたるまで、旅人の切れ目がなく行列ができた様子から「蟻の熊野詣」と例えられるほど多くの人々が熊野に参詣したと伝えられている。
新型コロナウイルス(COVID-19)感染予防の為、今春より行動を慎んでいましたが、感染予防に配意しながらGoToトラベル、熊野古道(中辺路)散歩を再開する事とした。
三越峠から発心門王子に向かう途中、赤木越分岐付近から発心門王子間は豪雨災害で通行止めとなっていた。
(発心門王子から林道を下り、災害復旧工事現場から川沿いにそのまま林道を徒歩で進むと猪鼻王子、船玉神社に向かう事が出来た。)
船玉神社
船玉神社は本宮大社の奥の院にあたるとも伝えられ、音無川河口にあった本宮へ、月に1回、「みよろのほし」という何か魂のようなものが、音無川を上下して通ったといわれている。
そのため、音無川の流域は常に清浄にしておかなければならず、船玉神社に最も近い発心門という集落では、音無川や船玉神社の方角に向かって小便することは戒められていたそうだ。
猪鼻王子跡
船玉神社前を過ぎ、林道からはずれ谷に向かって下る細い道にはいると猪鼻王子社跡に出会う。
定家に日記に、「深山にして樹木多く、苔ありて、それが枝にかかること藤枝の如し」と表現されているように深山の中の雰囲気が残る道端に王子跡はあった。
猪鼻王子から発心門王子に向けての古道は、本来ならば、林道右手の登り坂を入り、発心門王子社の鳥居を潜る事になるが通行止となっていた。
発心門王子跡
当王子は五体王子社の一つで、藤代、切目、稲葉根、滝尻、発心門王子社と格別に崇敬の厚い社であった。
仏の道に帰依する心を発する入り口(門)という意味で、南「修行門」、西「菩薩門」、北「涅槃門」、東「発心門」のこの四門は惣門といわれる。
「発心門」は、此処からが、熊野本宮大社の神域とされて入口を指している。そう言えば振り向くと大鳥居が立っていた。
水呑王子跡
以前は三里小学校三越分校の敷地であった傍らに「水呑王子」と刻まれた緑泥片岩の碑が立っていた。
長い歴史のある王子社で、中世の参詣記には「内水飲」と記されてあり、江戸時代の初め頃から現在の「水呑王子」と表記されるようになったようだ。
此処から美しく緩やかな古道らしい地道をあるいて行くと伏拝の集落に出るそうだ。
次回は伏拝王子から
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