比曽原王子から東へ約1km進むと次の継桜王子に着く。急な石段の神社で、王子社跡の碑と社殿とが共存する王子社だ。
継桜王子跡
この王子は若一王子権現ともいわれ、野中地区の氏神でもある王子社で、社殿は石段の上の高所にある。
熊野古道「継桜王子」の名前の元となった継桜とは、12世紀初めには語られていたようで、天仁2年(1109)熊野参詣した藤原忠宗は「道の左辺に続桜の樹あり、元は檜でまことに稀有なこと」と日記に記してあるそうだ。
とがの木茶屋
継桜王子社を少し行くと「とがの木茶屋」がある。
昨年(2019) 9月に94歳で亡くなった名物女将、玉置こまゑさんは熊野古道を歩く若者にいつも声を掛けていたそうだ。
茶屋は地域住民の協力で古道を歩く人達の休憩所として開放。今も玉置こまゑさんを偲び多くの旅人が訪れているようだ。
継桜
王子名の継桜が社前にあり、それが秀衡桜と呼ばれて植え継がれていたようだが、現在は東方約100mの所に5代目の秀衡桜が育ち始めている。やはり名木である。
命を継ぐ秀衡の桜のお話し
千年以上も昔、奥州平泉の藤原秀衡夫妻が熊野詣の際、滝尻の乳岩で男子を産み、その子を乳岩に残して、熊野参詣を続けた。
妻は子供が狼に襲われるのではと気が気でなかった。そんな二人は、峠で見事に咲き誇る桜を見つけ、秀衡は枝を折って産後で体調不良だった妻に手渡すと舞うように熊野道を歩きだしここ中野までやって来た。
とがの木茶屋に来た時、休息中の山伏達がその折った桜木を見て「その桜は、京都醍醐寺の銘木に匹敵する桜である。枯らさぬように!」と忠告した。
困った秀衡は、山伏にその方法を問うと「それは困った。では、そこの切り株にその桜を継ぎ挿して、その枝が枯れずに見事花を付けたら、お前達が乳岩に残した子供も無事に育っているであろう」と言われ、秀衡は桧の切り株にその桜の枝を挿した。
熊野詣を急いで済ませ、帰路「とがの木茶屋」にやってきた夫婦は、桜が一輪花を付けているのを見つけ、喜んで乳岩に向かったそうだ。
野中一方杉・継桜・野中の清水
野中一方杉
継桜王子社境内の斜面に杉の巨木が9本ほど現存し、その杉は「野中の一方杉」とよばれている。その由縁は、全ての杉枝が南向きで遠く熊野那智大社の方向に伸ばしているそうだ。県指定の天然記念物となっている。
野中の清水
継桜王子社の前の断崖の下に旧道があり、日本名水百選の「野中の清水」がある。懇々と清水が湧き出ている。喉を潤す清水が冷たくて気持ち良い!
熊野参詣道を更に進む。
安倍晴明腰かけ石
標識上の平たい石は安倍晴明腰かけ石と云われ、平安時代安倍晴明が熊野詣の際この石に腰かけていた所、上方の山が急に崩れそうになったが晴明の得意な呪術で崩壊を未然に防いだと伝えられる。
中川王子跡
高尾隧道口を少し進んだ車道の上方の山中に「中川王子」と刻んだ緑泥片岩の碑があった。
比較的早く設けられた王子で、天仁2年(1109)熊野参詣した藤原宗忠は「仲野川王子」、建仁元年(1201)後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した藤原定家は「中の河王子」、承元4年(1210)修明門院に随行した藤原頼資以降は「中川王子」と記されているが、早く荒廃したようで江戸時代の享保7年(1722)の熊野道中記には「社なし」と書かれているそうだ。
昔は石碑のある近くを熊野参詣道が通っていたのだろうが、現在は道の跡も判らず面影すら感じさせない。
小広王子跡
小広峠の辺は昼間でも暗い山道で、野獣や魔物が現れる不気味な場所で、旅人や村人を守ってくれる狼の群れがいた小広は「吼比狼」(狼の声が聞こえる)からと云われた山深い峠だった。
小広王子は江戸時代以前の記録には登場せず、後に土地の人々が小広峠の上に祀った小祠がいつの間にか小広王子と呼ばれるようになったそうだ。
車道の小広峠の道端に上部の折損した緑泥片岩の小広王子碑が建てられていた。道路改修以前は元の高い小広峠の上にあったのだろうか。
石碑の上部が欠けて「王子」の文字みとなっていた。
次回は熊瀬川王子から
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