西国第15番札所 新那智山 今熊野観音寺
御詠歌 昔より 立つとも知らぬ 今熊野 仏の誓ひ あらたなりけり
観音寺は大同年間に空海が庵を結んだのに始まり、藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられる。御本尊は空海が熊野権現より授かった一寸八分の観音像を体内仏として自ら彫刻された十一面観世音菩薩。その後、後白河上皇は、当山を深く信仰されて新那智山と号し、今熊野観音寺と称されたそうです。
西国33所第15番霊場、厄除開運の寺として知られ特に頭痛・病気封じ・智恵授かりの霊験あらたかな本尊として広く信仰され、又ぼけ封じ観音第1番霊場・洛陽観音第19番霊場ならびに京都7福神巡りの恵比須神をおまつりする寺として全国から祈願の参拝者が絶えないそうです。
清少納言と観音寺
「枕草子」の作者として知られる清少納言は、その父清原元輔の邸宅が現在の観音寺境内地付近に有ったことから、観音寺の近くに於いて生まれ育てられたものと思われます。
清少納言は一条天皇の皇后定子に仕えて寵遇を受けましたが、定子皇后が崩御されると皇后を葬る鳥戸野陵が観音寺近くに造営されました。それに伴って清少納言も、自分が生まれ育った観音寺近くの父の邸宅の畔に居住、寵愛を受けた定子皇后の御陵に詣でつつ晩年を過ごしたものと思われます。
このように清少納言と観音寺との深いえにしを思うとき、かぐわしき平安文学がここ今熊野観音寺の地から生まれ育まれたことが偲ばれます。
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