『三樂録』

「善樂」「健樂」「長樂」の探究軌跡。時は満てり、これでいいのだ。

上村松園

2008年05月26日 | 探訪記
 
 茨城県北茨城市大津町にある「茨城県天心記念五浦美術館」に行ってきました。
「近代日本画にみる麗しき女性たち ―松園と美人画の世界―」という企画展をしているということで、妻を誘ってドライブに行ってきました。

 天気にも恵まれ、青い海と青い空の空間に、キャンバスの中の美人と、生身の美人を時折盗み見をして、一日ゆったりとした、充実の時間を持つことができました。

 帰りには、野口雨情の生家と記念館も訪れ、昭和初期の旅情にたっぷり触れてきました。

 常設の岡倉天心展をゆっくり観て、次の案内に惹かれて、はるばる訪れた美人との対面。

 古来,女性はしばしば,芸術家を創造へとかき立てる霊感の泉となり,多くの画家たちが女性を描くことに精魂を傾けてきました。
 明治以降は,上村松園,鏑木清方,伊東深水といった美人画を得意とした画家をはじめ,多くの画家たちがそれぞれの時代の,もしくは画家自身の理想的な女性美を追求しています。一方,より現実的な女性像を求めて,目に見える美しさよりも内面世界や個性を描き出そうと努めた画家もおり,近代における女性表現は多彩な広がりを見せています。

 本展では,上村松園はじめ女性を描くことに心血を注いだ画家の作品87点を一堂に展示し,近代の日本画家たちがどのようなまなざしを女性に向けてきたかを紹介します。それぞれの画家の女性に対する思いにふれながら,あでやかで優美な,また時には個性的でリアルな女性像の数々をどうぞお楽しみください。

 「私は大てい女性ばかり描いている。しかし、女性は美しければよいという気持で描いたことは一度もない。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉な絵こそ私の念願とするところのものである」

 これは、会場内に掲示されていた上村松園自身の言葉である。女性美として、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い」存在として、表現している。

 現代では、松園のモデルになれる女性はいるのでしょうか。

 上村 松園(うえむら しょうえん、本名:上村 津禰(つね)(常子(つねこ)とも)、1875年(明治8年)4月23日 - 1949年(昭和24年)8月27日)は、明治の京都下京(しもぎょう)に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描いた日本画家。同じく日本画家の上村松篁(しょうこう)は息子、上村淳之(あつし)は孫にあたる。

 京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれ、京の伝統文化に育まれた松園は、明治・大正・昭和を通して生涯、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」、「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」(松園のことば)を念願として女性を描き続けた。

 松園は誕生2ヶ月前に父を亡くしている。母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げた。明治の女性が画家を志すなど、世間で認めるところではなかったが、仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して

「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」と述べている。 母を亡くした後には、「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」など母を追慕する格調高い作品が生まれた。

   

経歴
1875年、京都の下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。
1887年、京都画学校に入学、四条派の鈴木松年(すずきしょうねん)に師事。
1890年、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中であったヴィクトリア女王の三男アーサーが購入し話題となった)。
1893年、幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事。火事のため高倉蛸薬師に転居。市村水香に漢学を学び始める。
1895年、楳嶺の死去にともない、竹内栖鳳に師事。
1902年、息子信太郎(松篁)が誕生。
1903年、車屋町御池に転居。
1934年、母、仲子没。
1948年、文化勲章受章(日本人女性として初)。
1949年、逝去。従四位に叙される。享年74。法名は、寿慶院釋尼松園。

 野口雨情については、日を改めて書きます。
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