中国道を5日昼から吹田 津山を往復したが 車は多いが渋滞は例年より無かった
それは 日本人が車線変更をしなくなったことと 車間距離を多めに とり始めたことが一因だと思う 学ぶ 協調するから や... goo.gl/FQq4sc
スサノオ伝説 ヤマタノオロチ退治の時に ヤマタノオロチを斬ったとされる その剣は 現在は 奈良県の石上神社あると思うのだが ここも どうもレプリカのようでして 国家の貴重品の保管庫かに保存されているのかな?
このレプリカは 岡山県赤磐市の石上布都魂神社で 最近 手に持たせて戴いた
なのでそれを東内は 知り、その後、大阪に戻って すぐに それも確認したら
石上神宮(いそのかみ)も 否定はされていない 石上神宮の社史
旧記にも 書かれているようだった
結果、奈良県の石上(いそのかみ)神宮 両社は 今現在でも強い同祖 意識はある と感じた東内誠でした
また その神社から近くに(岡山の石上近くには)
『月の輪古墳』が 発見されています
これは 時代で言えば 西暦450年前後の 古墳ですね
日本には古墳は たくさんあるので 不思議ではないですが
赤磐の神社 周辺にも なんか丸い土が盛った場所が多いと思う
これは古墳なのじゃないかな って 小山は多数あるのは
車で走っていても かなり ある
ここの『月の輪古墳』からは 首飾り・鏡・鉄製の刀・剣・鉄の針・銅製の物などが多数出土している
【岡山県の文化財収蔵庫の輪郷土資料館にあるらしい】
しかし その少し地図で上北の 美作市の古墳は
(1800年以上も前の女性と動物の絵の描いた石棺が
神宿の郷(東内) 横のすぐの 平福の遺跡から出た)

もっと 古くから 出ているのです
とにかく 岡山県を中心とした吉備国は
古墳が大変多く 鉄 銅 鏡に絡んでくるのが 吉井川 旭川 高梁川 の水域、そして その山なのだ
先日も 奈良の石上神宮から 奈良盆地を見渡せば ここに政治の中心を置いた場所の利は 感じます
地の利 防衛にも 適している と 地形を見ればそれは解る
やや小高い 場所がよいのですな
川の近くや 海辺だと 汚れたモノが 堆積し 匂いも出ましたり
その古代のその時代は 下水処理もできないと 想像されますので
どうやろうねェ 川の横には 優秀な 一家は 住まなかった と思う
川は いつ 大雨や台風で 氾濫するかも 知れないでしょうし
水の上は 汚れが少ないが 下に行くほど 水は 汚れる 蛆虫なども 出てくる
どう 考えても 日当たりのよい 斜面で
裏が岩盤で 山崩れも起きない場所に 誰しも考えたらば 住みたいでしょう
昔の人も 今の現在も 日当たりのよい 見晴らしのよい場所で 安全 清潔な場所を選べるものなら選ぶのが 当たり前のことやからね
海のそばで 暮らしたら 津波も来て 家や田畑も流される
しかし 海は 外交の輸出入の場所なので
その場所は 津波が来ても また 復旧できるような施設が よいに決まっている
但し 住むのは万里の頂上のような 要塞のような
険しい山々に囲まれ その一帯を見渡せる
小高い 丘の高原の見通しのよい 風景も良い場所を基点 としたい
そこが 安全な場所で その地を 見通せると 統治し易いと思う
その昔は 下水処理の施設がないので 汚水が やはり 土地を徐々に汚染していき ばい菌が繁殖し 伝染病も発生するので それもあって都も時間が経過するうちに 伝染病なども発生する可能性が 高まっていくと 空想する 東内誠
四天王寺の 日本最古の排水溝を見て そう感じた 瓦のようなモノを敷き詰めて 排水溝にしてあった まあ それでも よく考えているが
コンクリートや舗装のような 訳にはいかない
舗装であっても 汚水が かなり止まる ということは 原発付近でも実証されたでしょ
その昔は 溝が やはり土系なので また 畑には 糞尿をまき 肥料にするから まあ 水の下の方は どうしても 病気が発生し易い
何が 言いたいのか というと 標高100-200mの程度の高原は 長い時間でも 人間が 長期間住み暮らすことに 優位である ということ
吉備高原とは 播州、加古川あたりから 広島県 辺り 高地のことを 言うのだろうと思うの この地区は 瀬戸内気候にも恵まれて そして
中国山脈から いく筋もの 河川が 流れる 地盤も安定的で 地震 津波にも その過去から 遭遇したことは少ない と思う
古代からも 現在までも 地球は太陽の黒点の活動の影響をおおきく受けて 気温が温暖化と寒冷化を繰り返すので
瀬戸内の海の岸壁 というか水際も 前にいったり 後ろに下がったりもする
現在の水深は おそらく深いところで90メータあるかな 70mくらいなのか 瀬戸大橋を建設した人は 知ってるね
大阪湾岸壁周辺は 海抜0mから 岩盤までは 多分38mから48mだと思う
ワシ トーナイ此花営業所の建屋工事を するときに かなり調べたので知ってる
なので 完璧な護岸工事をしようと したら40m程度の杭を打てば 強いと思うね
ほんでな
山の木を切って 伐採して 燃料にすると タタラなどでも 大量に木を切る
そして炭を作るんや炭を作るには 一定の樹齢の木を切り倒さねばあかんやろ
山が ハゲルと その山から 土石流が流れて川から 海へと流れこんで だんだんと河口付近には 堆積物が積もってくると想定してるの東内誠
環境の変化が起っても 古代では 土砂を海底からさらう事は不可能なので 地形も 人間が住むと古代でも変化が出てくる可能性はあると思う
木を切り過ぎると 環境に変化は起って当たり前やからね
まあ とにかく 河口周辺は 地形が 色色と変化するが 高原は変化しない 安定的ということ
海の近くは 魚や貝 海草なども 獲れて便利は良いが 自然現象に その地区の人たちは 永代継続し難い と思う
そんな事も 吉備国の高原地帯は 古代から 人々が住み着きやすかった
それと 柵原鉱山のような 鉱山が 多く 鉄を含んだり 銅を含んだ 山があった
どないに 考えても 外敵も多い九州や
また 出雲も 日本海側なので やはり 島根や鳥取と比較して 岡山県は 気候がよいのでな
鳥取や島根は やはり 冬は雪が多く 雪も積もるし冬が長い 此処のへんも 九州と同様で 外敵が何時 進入してくるかも 不安がある
なので 石上布都魂神社 の 海からの距離程度の 所を拠点とする その昔の 人たちは 良い適地を選んだと思う
そして その勢力が 大阪や 奈良に 向ったと ワシは いまのところ 想像してるんや
まあ 最初は 淡路島に 着いた のかも 知れない
それは 国生み神話が そういっているしね
とにかく 吉備国 石上布都魂神社 に 剣が元々あったのは 確かで
その剣は やまたのおろち の 体内から出てきたとされる
そして その現在でも そのお宮の 宮司さんが 『物部』という苗字を継承されておられる
今の総理大臣も 多分 元もとの 出は 物部氏が 始祖のような気が東内誠は 空想している
過去の総理でも その血の流れがあるような ご名字が 多いとも思う
そうや 物部が 何時の時代からかは 未だワシには 未解決だが
国の安全防衛を司ってきたと空想しているのが東内やね
鉄 銅 鉾 矛 武力 これが なければ 国は守れないから
まったく 文脈もたどたどしく 頼りない勉強度ですが そのうちに もっとレベルを高めていきたいと思っている㈱トーナイ 東内誠
5/6 ワシの会社は 今日も 仕事なの 3箇所の営業所に絞って 銅鉄ニッケル金銀 その他各種くずの買取を 本日もやっています
電話は 072-678-1112
http://tohnai.com/top_main.html
ワシも 8時には 出勤やね 昨日も 店を開けていたが お客は まばらでしたが 工場の改修や 草むしりなども やっています

昨日も 午後からは 大阪 岡山の 往復やった 昨日は 高速代が安かった 片道2400円ほどか なんでや 休日は安いのか?
この高速代も どんな計算なんか ワシには 解からないな そやな トーナイは高速代を月間には200万円近く消費する
なので 4月以降は かなり 負担増に請求書来ていると思う 燃料費も 3-400万円也やから 燃料も馬鹿にならない
まあ しかし燃料が 上がった 消費税が上がったのは 全国民 同じなので 泣いても仕方がない 同じ土俵なので それはよい
スサノオ、ニギハヤヒ、物部氏、聖徳太子、秦氏、磐船、ナガスネヒコ、五鉾をたてるとは
まったく混乱させることばかりで 私の脳みそが 整理できない
昨日5/4は 大阪に留まり 四天王寺と住吉大社に行ってきた ここへ行くと余計に混乱してくる
四天王寺に祀られている 聖徳太子も 歴史上いたのか どうかも疑問視されている文章も散見する ので・・
寺社というのは 長い年月の間に 火災にあったり 台風に破壊されたりも しているので 何が正しい歴史なのかも
なかなか解からなくなってしまっている傾向もあるの
四天王寺の 歴史絵本で 聖徳太子と四天王寺 という本を1080円出して買ってみた
まあ 買わなくてもお堂の中で 15分程度立ち読みしても 良かったのだが
また記憶というのは忘れるので と思って買った
この絵本によると 聖徳太子は推古天皇の皇太子摂政に19歳で任じられ
日本の政治外交を一身に引き受けられた とある
これまでの 対 隋(その頃の中国)従属姿勢を改めた とも ある
対等の外交関係を進め また同時に 隋の政治制度 文化 を活発に取り入れた
内政では 役人に仏教と礼儀を中心とする服務規定を作った
これを17条の憲法という
以上の部分 第105世 瀧藤 という 元、官長が、書かれたものを 読んだ
・ 聖徳太子は 西暦622年2/22に亡くなった ともある
・ 墓地は 南河内郡太子町磯長 にあるとも書いてある
・ 聖徳太子は 亡き父の宿願であった 金堂 薬師如来 坐像を造り、斑鳩宮 の近くに 法隆寺を建てた ともある
・ 五重の塔 金堂には 釈迦三尊像が安置されて 回廊の朱色の柱は 柱の真中が 膨らんだ ギリシャ式の様式になっている
なんか 見て廻っていると 日本人ではないような 女性たちの 姿も多数 描かれている
・ そして蘇我馬子が作った 大陸へのルートを変えた それまでは 難波 古市 高田 曽我 飛鳥を 廃止し
水路を利用した 新ルートを作った 難波 大和川 斑鳩 という道 らしい
私の一番 気になることは

国家の威信を高める 四天王寺を建てた その前後・・・
物部氏の滅亡のあとに 物部氏の遺産の半分は 朝廷に献上され
その のこりで 四天王寺を建てた とある ところ です
その後に 蘇我氏も結果的に 滅びて これも 半分の遺産を朝廷に献上したんだ
奴隷も 半分に 分けた のだと思うのだが そのような奴隷と いうような言葉は絵本では 当然でていない
まあ いいか このあたりが 解明が 簡単にできる ワケがない
穢れの意識とか 差別 奴隷 なども トーナイの調査のキーワードなので
時間をかけて 自分の頭にも 記憶もしながら 進めるしかない
このあと 住吉大社にも行ったが 長くなるので この辺で今日の日記は おしまい 東内誠
以下は ワシの会社の宣伝の ㈱トーナイ 5/5 本日も休まずに頑張る
銅など 金属 買っています(銅の屋根の葺き替え工事の銅版も鐘も買うよ
↓
http://tohnai.com/top_main.html
以下の写真のうちの枚 5/05 四天王寺の仏像の下の 者 なんなのじゃ ?

2枚目 は四天王寺には 古代の下水講があった という場所 確認できる
ただね なんか この四天王寺に来ると 物部や 蘇我の家来たちが 奴隷にされて
動物のように 酷使されたのでは ないかな と 嫌な気持ちになって 寂しくなるよ


石上神社5/04 18時参拝 東内が立ち寄ると 大きな声で この鳥が鳴いてくれた 歓迎してくれてると感じた
社務所とも 少し 話した 赤磐の 石上の物部宮司も 来られているようで 個人情報も少し聞いたらば 岡山県の現在の物部氏 自衛隊の幹部であらされたらしい 岡山の 元祖 石上神社
まったく混乱させることばかりで 私の脳みそが 整理できない
昨日5/4は 大阪に留まり 四天王寺と住吉大社に行ってきた ここへ行くと余計に混乱してくる
四天王寺に祀られている 聖徳太子も 歴史上いたのか どうかも疑問視されている文章も散見する ので・・
寺社というのは 長い年月の間に 火災にあったり 台風に破壊されたりも しているので 何が正しい歴史なのかも
なかなか解からなくなってしまっている傾向もあるの
四天王寺の 歴史絵本で 聖徳太子と四天王寺 という本を1080円出して買ってみた
まあ 買わなくてもお堂の中で 15分程度立ち読みしても 良かったのだが
また記憶というのは忘れるので と思って買った
この絵本によると 聖徳太子は推古天皇の皇太子摂政に19歳で任じられ
日本の政治外交を一身に引き受けられた とある
これまでの 対 隋(その頃の中国)従属姿勢を改めた とも ある
対等の外交関係を進め また同時に 隋の政治制度 文化 を活発に取り入れた
内政では 役人に仏教と礼儀を中心とする服務規定を作った
これを17条の憲法という
以上の部分 第105世 瀧藤 という 元、官長が、書かれたものを 読んだ
・ 聖徳太子は 西暦622年2/22に亡くなった ともある
・ 墓地は 南河内郡太子町磯長 にあるとも書いてある
・ 聖徳太子は 亡き父の宿願であった 金堂 薬師如来 坐像を造り、斑鳩宮 の近くに 法隆寺を建てた ともある
・ 五重の塔 金堂には 釈迦三尊像が安置されて 回廊の朱色の柱は 柱の真中が 膨らんだ ギリシャ式の様式になっている
なんか 見て廻っていると 日本人ではないような 女性たちの 姿も多数 描かれている
・ そして蘇我馬子が作った 大陸へのルートを変えた それまでは 難波 古市 高田 曽我 飛鳥を 廃止し
水路を利用した 新ルートを作った 難波 大和川 斑鳩 という道 らしい
私の一番 気になることは

国家の威信を高める 四天王寺を建てた その前後・・・
物部氏の滅亡のあとに 物部氏の遺産の半分は 朝廷に献上され
その のこりで 四天王寺を建てた とある ところ です
その後に 蘇我氏も結果的に 滅びて これも 半分の遺産を朝廷に献上したんだ
奴隷も 半分に 分けた のだと思うのだが そのような奴隷と いうような言葉は絵本では 当然でていない
まあ いいか このあたりが 解明が 簡単にできる ワケがない
穢れの意識とか 差別 奴隷 なども トーナイの調査のキーワードなので
時間をかけて 自分の頭にも 記憶もしながら 進めるしかない
このあと 住吉大社にも行ったが 長くなるので この辺で今日の日記は おしまい 東内誠
以下は ワシの会社の宣伝の ㈱トーナイ 5/5 本日も休まずに頑張る
銅など 金属 買っています(銅の屋根の葺き替え工事の銅版も鐘も買うよ
↓
http://tohnai.com/top_main.html
以下の写真のうちの枚 5/05 四天王寺の仏像の下の 者 なんなのじゃ ?

2枚目 は四天王寺には 古代の下水講があった という場所 確認できる
ただね なんか この四天王寺に来ると 物部や 蘇我の家来たちが 奴隷にされて
動物のように 酷使されたのでは ないかな と 嫌な気持ちになって 寂しくなるよ


石上神社5/04 18時参拝 東内が立ち寄ると 大きな声で この鳥が鳴いてくれた 歓迎してくれてると感じた
社務所とも 少し 話した 赤磐の 石上の物部宮司も 来られているようで 個人情報も少し聞いたらば 岡山県の現在の物部氏 自衛隊の幹部であらされたらしい 岡山の 元祖 石上神社
岡山と大阪を 中国自動車道を使ったり 山陽道を使ったりして 往復している
その昔からの墓も維持したり 祠も維持したりせなばならないのと 仕事場は大阪なので 親父の入院もあって 週に何度も通うん... goo.gl/Ay9TdS
銅相場は中国が連休中ですが 注目された米国の雇用統計が予想以上に良くて2日22時ごろには
103円とドル高、しかし、つかのまでした・・・5/3 早朝4時に 仮定銅価格の計算は@742円
103円なら 例えばワシ個人でも 予約を入れておきたいドル売りの数字なので 此処の辺りには壁が厚いと思う
ワシの保有する商品(スクラップ資源屑)も 言うたら$なので、それだけでも 常に少なくても300万はワシも持ってるョ
それと現物の$でしょ プラス投資有価証券の$なので かなり ワシの場合は 資産+負債=全体 の $へのバランスが大きいの
手元流動性を売れば それは$の手元流動性を円に替えるのでさ そうなる
日々 千万円最低でも 仕入れるぞ と言うて 仕入ているじゃない それは 円で仕入れていますよね
円で仕入れている現物の金属は グローバルな資源相場と為替の関係で動いているので
為替で 言えば 実は$なのよ そういうことです(また その上に、解かりにくく説明したら ユーロと$との 関係もある)
金融機関のご担当の方でさえ 為替に絡んでおられないと ワシの説明に戸惑うようなお方も 実はおられる
普段の取引では 金融マンでさえ あまり為替は意識されず仕事をされておられる方が大半ですよ 実は そうなの
なので 為替の動きには バタ屋さんでもある または、グローバルな屑商のトーナイも 常に為替は24h、意識をしています
大きく 為替が動く時間は やはり EU時間帯ですね NYと市場の時間が重なる時間も動きが出やすい
それは 当然のことです
中学2年の頃より 勉強も ほぼしていない 割には けっこう難しい事をしているでしょ バタ屋トーナイ 東内誠
グローバルに屑を動かすモノ 者 物 ブッ ブツ ブッ ブ 弓を空で 引くと ブッ って 音が出る
刀を 勢いよく 空振りすると ブッ と 音が出る 物の怪 物の気 です
その 轟音というか それを聞けば 人々は 縮み、萎み びびる そう 威圧感になるの・・・
---線が 少し 切れているようでしょ
まあ 切れていて 普通の人とは 少し違うほうが 面白いじゃない
そうなのよ 1500年から1900年前にも どうも 半島の先のほうから 多分 鉄か銅かを もってきて
その資源を日本へと持ち込んだ先人たちが 日本国を作った のだ と 推測して 古代史も調べてみて
金属の 屑 の 歴史も 追っかけをしている のんが ワシこと 東内なの
鉄の刀だったか青銅器の 刀 だったのか は まだ ワシには 解かっていないが その金属製の武器を持ったものが
今で 言えば 最新鋭の武器を持った者なので その団体が その地区を支配したんやね
まあ しかし 武力は一番 重要だが それ以外にも 大衆を付き従わせるには 神憑りも それはかなり重要なことで
神憑りの儀式などを しなければ 人々は 付き従わないんやね
なので 神憑りの やり方 って のも これは 貴重な価値のものなのや
今 ワシは どないしても ワシら日本人は何処からやってきたのか どうしても 自分たちの出自を知りたくて
お宮を 調べまくってるんやね
ちょっと 最近 辺な奴が 余計に変な奴に なっているが いたって精神は落ち着いていて
まともで 最近は 切れ味も 多少 以前より出ていると思っている
古代史研究で 『中山神社』 『石上布津魂神社』 『美作の東内という者』 『有木氏』が 出てくる
古代史研究の学者の原稿を一部以下に借用 『』
美作中山神社とオオナムヂ・物部氏19
トシ、鏡作命ハ慶雲四年神勅ヲ奉シテ祀ル所トス」としている(12。
また、『中山神社縁由』は、先の鏡作命が「始て天くたり給ふ」たときのこととして、上文に続けて次のよ
うな話を伝えている。
『白き御馬にのり青木の枝の鞭をもて行めくり給ひ、しつまりおはしまさん所をもとめさせ給ふ、
先五月のはしめに、
英多郡楢原といふ所にあらはれさせ給ふ、
此里に東内といふ民なんありける、もとより
心のすなほなる事なへてならぬものにてそありける、
それかもとに廿日あまりかりにしつまりおはします
(13
こののち又苫東郡水無瀬川の奥に、泉水池といへるちいさき池のあるに、そこにあらはれさせ給ふ、
そのあたりにちこのよさかといふ所もあり、これは御神ちこの姿にあらはれさせ給ひて、あけまきとも
のおほくあつまりゐたるに、立ましりてあそひ給ふ(14
同年九月廿一日になん、又同郡田邊といふ所にあらはれさせ給ひて霧山にいらせ給ふ、此所にかりす
るおのこ有木といふものなんありける、御神を見奉りてかふる深山にかくやんことなき人やはあるへき、
変化の物なるへしとうたかう、御神告ての給はく、われは此国を鎮護し給はんとおほしめす神なり、…
よりて有木か子孫うけつきて此わさ世々にたゆる事なし(15
同慶雲四丁未年四月三日寅の刻はかりになん、』
----長いので 途中を飛ばして『』 次には 石上布都魂神社も 出てくる し カタノ物部氏も 出てくる---
『赤坂町の新庄川上流に「石上布都魂神社」がある。
「布都魂フツノミタマ」とはこの素斐鳴尊が大蛇を切った剣のこと。現在奈良県天理市にある石上神宮について、『日
本書紀』巻六の垂仁87年条には、このときから物部連が石上神宮を管理することになったと記し、現在で
は、布都御魂・布都斯御魂フツシノミタマ(=素菱鳴尊)・布留御魂フルノミタマ(=饒速日命)・宇摩志麻治命(=饒速日
の子)を祭っている。イサハヤヒやウマシマジは物部の祖である。そして、『石上神宮I日記』によれば、
素斐鳴尊の蛇を斬りたまひし十握剣、名を天羽々斬アマノハハキリと日す。亦、蛇之麓正ヲロチノアラマサと日す。其の
神気を称へて布津斯魂神フツシミタマノカミと日す。天羽々斬は神代の昔より難波高津宮の御宇の五十六年に至る
まで、吉備神部の許に在り今の備前国石上の地、是なり。五十六年孟冬已巳朔己酉、物部首市川臣布留
連の祖、勅を奉じて、布都斯魂神社を石上振神宮高庭の地に遷し加ふ゜
という。『新撰姓氏録』もほぼ同じように載せている。ここでは、布都魂を神武天皇が大和を平定する際に下
されたタケミカヅチの剣とし、スサノオの剣を布都斯魂としているが、吉備にスサノオの剣があったとする
点で、書紀の一書の記事に対応している。ご神体の剣がなくなった後の、現在の吉備の石上布都魂神社の祭
神は素菱鳴尊となっている。石上布都魂神社がなぜ、そしていつ吉備に置かれたのかについて、相見英咲氏
は、東の鎮めの熱田神宮・草薙剣に対して西の鎮めとされた、とされる(32゜明和8(1771)年の土肥経平『備
前国石上斬蛇事跡考』(33や「岡山県通史』では、そもそも素斐鳴尊が大蛇退治をした簸川は吉備の旭川の
ことだとするが(34、ここでにわかに断じることはできない。ただ本論にとって重要であるのは、石上布都魂
神社は物部が奉祭していたであろうことである。書紀の一書に書かれているから、それに合わせるために神
社を造ったとは考えられないから、いつのころかに建てられた吉備の石上布都魂神社には、ある時期まで布
都魂ないし布都斯魂を物部氏が奉じて祭っていたと考えてよいのではないだろうか。
『石上神宮|日記」によれば、それは仁徳期であるという。一方『日本書紀』第14の雄略6年8月条に、吉備下道臣前津屋を天皇が
物部の兵士30人を遣わして同族70人ともども訣殺した、
という事件を載せるが、これは大和から出兵した
というよりは、吉備で石上布都魂神社を奉じていた物部が行ったと見ることはできないだろうか。
石上布都魂神社は正にそのような働きを持たせられていた神社であったのではないだろうか。
相見氏のいう西の鎮めである。そうであるならば、おおよそ5世紀末ごろには、物部は吉備地方にいたということになる。』
------以上 歴史学者の論文を昨日 見つけた
ワシのような 素人が 調べたこととも かなり 一致してきている
此処で 交野市の 物部連 が 出てくるぞ
大阪府交野市 って ワシの本社からも 20kmと近くて この前 先日、
磐船神社の大きな磐の中に入らせて貰って神主さんからも話を聞いた場所やな
ここも 蛇がおった 磐を祀っているし 住吉大社とも繋がっていること
長すね彦も 平成の時代になってからか 昭和の戦後の やや発言の自由な時代から かは 長すね彦も 祀っておられる
長すね彦を 祀らねば 実に義理が悪い とも 感じます
2-3世紀の 古墳が 大阪府交野市周辺でも 多数 発掘されていると思います 詳しくは 交野市の歴史 古墳で
たくさん その年代が 出てくると思う(このあたりの古墳の勉強も始めれば あまりにも時間が多くとられすぎる)
とにかく 吉備国の 有木氏は 1300年前以前は 武闘派集団だったのでは ないだろうか?
そうすると 東の方面を任された ワシの先祖は 神憑り系を 1300年前 以前から やっていたかも 知れないと空想中
物部氏が西暦587年ころに 敗れた・・・
仏教 と 古神道の対立 その後に 蘇我氏が 勢いを出した・・・んだよね
その後に 蘇我氏も滅びる ---時代の流れでした
まあ しかし 日本全土に広がっていった物部氏の身内が 全部 殺されて消滅したわけではない
脈々と 血が 日本人の中で 流れていますぞ それは絶対に間違いない東内誠はそう思う
なんかな ご先祖が ワシに そんな日記も書いてみたら お前の修行にも ワシらの宣伝にも なると 体内から言ってきてる
http://tohnai.com/top_main.html
103円とドル高、しかし、つかのまでした・・・5/3 早朝4時に 仮定銅価格の計算は@742円
103円なら 例えばワシ個人でも 予約を入れておきたいドル売りの数字なので 此処の辺りには壁が厚いと思う
ワシの保有する商品(スクラップ資源屑)も 言うたら$なので、それだけでも 常に少なくても300万はワシも持ってるョ
それと現物の$でしょ プラス投資有価証券の$なので かなり ワシの場合は 資産+負債=全体 の $へのバランスが大きいの
手元流動性を売れば それは$の手元流動性を円に替えるのでさ そうなる
日々 千万円最低でも 仕入れるぞ と言うて 仕入ているじゃない それは 円で仕入れていますよね
円で仕入れている現物の金属は グローバルな資源相場と為替の関係で動いているので
為替で 言えば 実は$なのよ そういうことです(また その上に、解かりにくく説明したら ユーロと$との 関係もある)
金融機関のご担当の方でさえ 為替に絡んでおられないと ワシの説明に戸惑うようなお方も 実はおられる
普段の取引では 金融マンでさえ あまり為替は意識されず仕事をされておられる方が大半ですよ 実は そうなの
なので 為替の動きには バタ屋さんでもある または、グローバルな屑商のトーナイも 常に為替は24h、意識をしています
大きく 為替が動く時間は やはり EU時間帯ですね NYと市場の時間が重なる時間も動きが出やすい
それは 当然のことです
中学2年の頃より 勉強も ほぼしていない 割には けっこう難しい事をしているでしょ バタ屋トーナイ 東内誠
グローバルに屑を動かすモノ 者 物 ブッ ブツ ブッ ブ 弓を空で 引くと ブッ って 音が出る
刀を 勢いよく 空振りすると ブッ と 音が出る 物の怪 物の気 です
その 轟音というか それを聞けば 人々は 縮み、萎み びびる そう 威圧感になるの・・・
---線が 少し 切れているようでしょ
まあ 切れていて 普通の人とは 少し違うほうが 面白いじゃない
そうなのよ 1500年から1900年前にも どうも 半島の先のほうから 多分 鉄か銅かを もってきて
その資源を日本へと持ち込んだ先人たちが 日本国を作った のだ と 推測して 古代史も調べてみて
金属の 屑 の 歴史も 追っかけをしている のんが ワシこと 東内なの
鉄の刀だったか青銅器の 刀 だったのか は まだ ワシには 解かっていないが その金属製の武器を持ったものが
今で 言えば 最新鋭の武器を持った者なので その団体が その地区を支配したんやね
まあ しかし 武力は一番 重要だが それ以外にも 大衆を付き従わせるには 神憑りも それはかなり重要なことで
神憑りの儀式などを しなければ 人々は 付き従わないんやね
なので 神憑りの やり方 って のも これは 貴重な価値のものなのや
今 ワシは どないしても ワシら日本人は何処からやってきたのか どうしても 自分たちの出自を知りたくて
お宮を 調べまくってるんやね
ちょっと 最近 辺な奴が 余計に変な奴に なっているが いたって精神は落ち着いていて
まともで 最近は 切れ味も 多少 以前より出ていると思っている
古代史研究で 『中山神社』 『石上布津魂神社』 『美作の東内という者』 『有木氏』が 出てくる
古代史研究の学者の原稿を一部以下に借用 『』
美作中山神社とオオナムヂ・物部氏19
トシ、鏡作命ハ慶雲四年神勅ヲ奉シテ祀ル所トス」としている(12。
また、『中山神社縁由』は、先の鏡作命が「始て天くたり給ふ」たときのこととして、上文に続けて次のよ
うな話を伝えている。
『白き御馬にのり青木の枝の鞭をもて行めくり給ひ、しつまりおはしまさん所をもとめさせ給ふ、
先五月のはしめに、
英多郡楢原といふ所にあらはれさせ給ふ、
此里に東内といふ民なんありける、もとより
心のすなほなる事なへてならぬものにてそありける、
それかもとに廿日あまりかりにしつまりおはします
(13
こののち又苫東郡水無瀬川の奥に、泉水池といへるちいさき池のあるに、そこにあらはれさせ給ふ、
そのあたりにちこのよさかといふ所もあり、これは御神ちこの姿にあらはれさせ給ひて、あけまきとも
のおほくあつまりゐたるに、立ましりてあそひ給ふ(14
同年九月廿一日になん、又同郡田邊といふ所にあらはれさせ給ひて霧山にいらせ給ふ、此所にかりす
るおのこ有木といふものなんありける、御神を見奉りてかふる深山にかくやんことなき人やはあるへき、
変化の物なるへしとうたかう、御神告ての給はく、われは此国を鎮護し給はんとおほしめす神なり、…
よりて有木か子孫うけつきて此わさ世々にたゆる事なし(15
同慶雲四丁未年四月三日寅の刻はかりになん、』
----長いので 途中を飛ばして『』 次には 石上布都魂神社も 出てくる し カタノ物部氏も 出てくる---
『赤坂町の新庄川上流に「石上布都魂神社」がある。
「布都魂フツノミタマ」とはこの素斐鳴尊が大蛇を切った剣のこと。現在奈良県天理市にある石上神宮について、『日
本書紀』巻六の垂仁87年条には、このときから物部連が石上神宮を管理することになったと記し、現在で
は、布都御魂・布都斯御魂フツシノミタマ(=素菱鳴尊)・布留御魂フルノミタマ(=饒速日命)・宇摩志麻治命(=饒速日
の子)を祭っている。イサハヤヒやウマシマジは物部の祖である。そして、『石上神宮I日記』によれば、
素斐鳴尊の蛇を斬りたまひし十握剣、名を天羽々斬アマノハハキリと日す。亦、蛇之麓正ヲロチノアラマサと日す。其の
神気を称へて布津斯魂神フツシミタマノカミと日す。天羽々斬は神代の昔より難波高津宮の御宇の五十六年に至る
まで、吉備神部の許に在り今の備前国石上の地、是なり。五十六年孟冬已巳朔己酉、物部首市川臣布留
連の祖、勅を奉じて、布都斯魂神社を石上振神宮高庭の地に遷し加ふ゜
という。『新撰姓氏録』もほぼ同じように載せている。ここでは、布都魂を神武天皇が大和を平定する際に下
されたタケミカヅチの剣とし、スサノオの剣を布都斯魂としているが、吉備にスサノオの剣があったとする
点で、書紀の一書の記事に対応している。ご神体の剣がなくなった後の、現在の吉備の石上布都魂神社の祭
神は素菱鳴尊となっている。石上布都魂神社がなぜ、そしていつ吉備に置かれたのかについて、相見英咲氏
は、東の鎮めの熱田神宮・草薙剣に対して西の鎮めとされた、とされる(32゜明和8(1771)年の土肥経平『備
前国石上斬蛇事跡考』(33や「岡山県通史』では、そもそも素斐鳴尊が大蛇退治をした簸川は吉備の旭川の
ことだとするが(34、ここでにわかに断じることはできない。ただ本論にとって重要であるのは、石上布都魂
神社は物部が奉祭していたであろうことである。書紀の一書に書かれているから、それに合わせるために神
社を造ったとは考えられないから、いつのころかに建てられた吉備の石上布都魂神社には、ある時期まで布
都魂ないし布都斯魂を物部氏が奉じて祭っていたと考えてよいのではないだろうか。
『石上神宮|日記」によれば、それは仁徳期であるという。一方『日本書紀』第14の雄略6年8月条に、吉備下道臣前津屋を天皇が
物部の兵士30人を遣わして同族70人ともども訣殺した、
という事件を載せるが、これは大和から出兵した
というよりは、吉備で石上布都魂神社を奉じていた物部が行ったと見ることはできないだろうか。
石上布都魂神社は正にそのような働きを持たせられていた神社であったのではないだろうか。
相見氏のいう西の鎮めである。そうであるならば、おおよそ5世紀末ごろには、物部は吉備地方にいたということになる。』
------以上 歴史学者の論文を昨日 見つけた
ワシのような 素人が 調べたこととも かなり 一致してきている
此処で 交野市の 物部連 が 出てくるぞ
大阪府交野市 って ワシの本社からも 20kmと近くて この前 先日、
磐船神社の大きな磐の中に入らせて貰って神主さんからも話を聞いた場所やな
ここも 蛇がおった 磐を祀っているし 住吉大社とも繋がっていること
長すね彦も 平成の時代になってからか 昭和の戦後の やや発言の自由な時代から かは 長すね彦も 祀っておられる
長すね彦を 祀らねば 実に義理が悪い とも 感じます
2-3世紀の 古墳が 大阪府交野市周辺でも 多数 発掘されていると思います 詳しくは 交野市の歴史 古墳で
たくさん その年代が 出てくると思う(このあたりの古墳の勉強も始めれば あまりにも時間が多くとられすぎる)
とにかく 吉備国の 有木氏は 1300年前以前は 武闘派集団だったのでは ないだろうか?
そうすると 東の方面を任された ワシの先祖は 神憑り系を 1300年前 以前から やっていたかも 知れないと空想中
物部氏が西暦587年ころに 敗れた・・・
仏教 と 古神道の対立 その後に 蘇我氏が 勢いを出した・・・んだよね
その後に 蘇我氏も滅びる ---時代の流れでした
まあ しかし 日本全土に広がっていった物部氏の身内が 全部 殺されて消滅したわけではない
脈々と 血が 日本人の中で 流れていますぞ それは絶対に間違いない東内誠はそう思う
なんかな ご先祖が ワシに そんな日記も書いてみたら お前の修行にも ワシらの宣伝にも なると 体内から言ってきてる
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石上(いそのかみ)神社の剣は 元は もしかして 岡山県の 石上ふつみたま神社に埋もれていたものが 元祖かも しれない ヤマタノオロチ 退治のスサノオの剣
江戸時代 池田の殿が 物部氏を宮司に名... goo.gl/DnnZ71
銅相場は中国が連休で お休みで変らず仮定銅価格の計算は@732円5/2 早朝5時
草薙剣(くさなぎのつるぎ) って 知っておられますか?
3種の神器 スサノオの命が八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した天十握剣は、
「名づけて、蛇の麁正(おろちのあらまさ)という。
これは今、石上宮(いそのかみのみや)に在(ま)す」(『日本書紀』)
また「今、石上神宮に在り」(『古語拾遺』)と記されている
石上神宮で布都斯魂大神と 称えて お祀りしています。
また、韴霊剣と天璽十種瑞宝は宮中でお祀りされていましたが
崇神天皇7年に物部氏の祖、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)により
石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)、現在の石上神宮に遷し祀られました。
----とあります。
一般国民には 見ることは 無理であるのですが
5/1は 吉備国の 石上いそのかみ布都ふつ魂みたま神社に伺って
レプリカを見せて貰い 触らせて 戴いてきたトーナイの東内誠

山の 鉈(ナタ)を 剣にしたような 刀で やや細身でしたね 80cmほどだった
振れば 多分 『物 ブツ 物ッ』と 啼く?かも 知れないね
反っているが 刃が 一般的な刃の向きとは逆で 山で使うナタのような 角度 でした

東内誠はこの宮がとても気になっていましたが 頑張って 山頂の本宮 奥の院までも登って
霊気は大変に 感じたように思う場所となりました
フラフラになって 山に登ったのですが そこへ辿りつくと
不思議と疲れや 足の痛みも すーっと 全身から 全て消え失せたんだ

凄い場所だと 思う この山頂の磐から 何か 出ている とも思う
岡山藩 城主の池田 光政 次世代では綱政という殿も江戸時代に それを 感じたのでしょうね
光政という殿様は 江戸時代に学校を作った 和気と備前(その奥が美作市 その山中)
ちょっと変った殿様であった みたいです
池田光政 という人は かなり 古書などを読みまくったのだ と私は推察しますし
(江戸幕府に反して 仏教系の変な力の増大を押さえ 一定の神社を大事にした)
そして 廃れていた古墳のような場所に 宮を 再建し その宮司に物部氏 姓を名乗るように ご指示を なされた と思う
この周辺には 大陸からの大量の人数の 各種 職人たちも その古代に移り住んだと思われる
周辺の村には 瓦を作るもの 焼き物をする者 石の仕事をするもの 鍛冶の仕事をするもの大工 インベ焼きをするもの 連れてきたと 東内は空想
1800年なのか それとも2300年くらい 前の時代に移り住んだかも知れないよね
まあ それは 半島の先から 出航してきたと思う
大阪高槻市からは175km程やった
宮の手前で ワシの運転する乗用車の前に 左から 大きな蛇が出てきて
ワシを神社の手前で迎えてくれた
危うく ひいてしまうところだったが ひかずに 済んだ
山頂にたどり着く 手前の参道でも 蛇も また出て トカゲも歓迎してくれて 出てきてくれたよ
鳥たちの 鳴き声も凄い 喜んでくれたように思う
ワシの前には 鹿や 猪は出て来ない 普通の人の 何百倍も 山道を走るが ワシの前には 鹿や猪は全く出ては来た事がない
多分 ワシの殺気を感じている ところもあるかも知れない
物部氏を追ってる バタ屋トーナイ 東内誠 美作楢原 神宿郷 東内五鉾立て祠の 現在の主
http://tohnai.com/top_main.html.
草薙剣(くさなぎのつるぎ) って 知っておられますか?
3種の神器 スサノオの命が八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した天十握剣は、
「名づけて、蛇の麁正(おろちのあらまさ)という。
これは今、石上宮(いそのかみのみや)に在(ま)す」(『日本書紀』)
また「今、石上神宮に在り」(『古語拾遺』)と記されている
石上神宮で布都斯魂大神と 称えて お祀りしています。
また、韴霊剣と天璽十種瑞宝は宮中でお祀りされていましたが
崇神天皇7年に物部氏の祖、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)により
石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)、現在の石上神宮に遷し祀られました。
----とあります。
一般国民には 見ることは 無理であるのですが
5/1は 吉備国の 石上いそのかみ布都ふつ魂みたま神社に伺って
レプリカを見せて貰い 触らせて 戴いてきたトーナイの東内誠

山の 鉈(ナタ)を 剣にしたような 刀で やや細身でしたね 80cmほどだった
振れば 多分 『物 ブツ 物ッ』と 啼く?かも 知れないね
反っているが 刃が 一般的な刃の向きとは逆で 山で使うナタのような 角度 でした

東内誠はこの宮がとても気になっていましたが 頑張って 山頂の本宮 奥の院までも登って
霊気は大変に 感じたように思う場所となりました
フラフラになって 山に登ったのですが そこへ辿りつくと
不思議と疲れや 足の痛みも すーっと 全身から 全て消え失せたんだ

凄い場所だと 思う この山頂の磐から 何か 出ている とも思う
岡山藩 城主の池田 光政 次世代では綱政という殿も江戸時代に それを 感じたのでしょうね
光政という殿様は 江戸時代に学校を作った 和気と備前(その奥が美作市 その山中)
ちょっと変った殿様であった みたいです
池田光政 という人は かなり 古書などを読みまくったのだ と私は推察しますし
(江戸幕府に反して 仏教系の変な力の増大を押さえ 一定の神社を大事にした)
そして 廃れていた古墳のような場所に 宮を 再建し その宮司に物部氏 姓を名乗るように ご指示を なされた と思う
この周辺には 大陸からの大量の人数の 各種 職人たちも その古代に移り住んだと思われる
周辺の村には 瓦を作るもの 焼き物をする者 石の仕事をするもの 鍛冶の仕事をするもの大工 インベ焼きをするもの 連れてきたと 東内は空想
1800年なのか それとも2300年くらい 前の時代に移り住んだかも知れないよね
まあ それは 半島の先から 出航してきたと思う
大阪高槻市からは175km程やった
宮の手前で ワシの運転する乗用車の前に 左から 大きな蛇が出てきて
ワシを神社の手前で迎えてくれた
危うく ひいてしまうところだったが ひかずに 済んだ
山頂にたどり着く 手前の参道でも 蛇も また出て トカゲも歓迎してくれて 出てきてくれたよ
鳥たちの 鳴き声も凄い 喜んでくれたように思う
ワシの前には 鹿や 猪は出て来ない 普通の人の 何百倍も 山道を走るが ワシの前には 鹿や猪は全く出ては来た事がない
多分 ワシの殺気を感じている ところもあるかも知れない
物部氏を追ってる バタ屋トーナイ 東内誠 美作楢原 神宿郷 東内五鉾立て祠の 現在の主
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注目されたFOMCでしたが 4会合連続で債権購入の額を減らしてきている と、言う事は
米国の景気は悪くはないと委員会メンバーは見ていて 雇用も伸びていると判断をしている
なので 本来は日米で金利差が広がり 円は $に対して安い方向に向うはずなのですが、
うーん 思うようには ならない ですね
為替は 5/1今朝は円高気味です
資源相場も上昇に なかなか転じてくれない ですね
2013年、年末比では 銅相場も10数%下落したまんまです
インドネシア鉱物輸出禁止令とロシアの問題で ニッケルだけは 好調ですが 銅が あかん
銅の原産地コストが もしかして? ㌧6400$辺りに あると最近では トーナイは想定しているのですが
なかなか それ以上に相場が 思うようには上向きに 行かない ですね
長い目で 見れば 銅は将来、必ず枯渇する 限りある代替品のない 地下資源の一品目ですので
長いチャートで考えたら必ず上がる
はずなのですが このところの中華の経済成長が伸び悩んでいることもあって 世界の最大の消費地ですから
銅の消費の4割が中華ですので そうなります
EUの金融不安も治まってきて ヤバイと考えられていた南欧などの国も 国債の利回りも下がってきていて
その上 米国も 個人消費は伸びてきていまして 日本も 銅の消費など 良いのですが
それでも 銅相場が、モタモタしています
東内 私しは この2つの為替と 銅相場に左右されますから 気が気ではないの
米国の 消費はサービスの消費などが伸びているのですが これが 住宅建設などに もっと向えば
非鉄金属の消費が伸びるのでしょうが
アメリカの消費に左右されますのが 株や資源相場です
GDPが でっかい ですから
米国で設備投資や 機械類の販売なども もっと伸びて欲しいのがトーナイの希望と相場への期待感です
また世界の鉄屑の消費にも おおきく左右されますトーナイですが
ワシらが集めるくず鉄は 建築材料に 再商品化されますので 建築需要も伸びねばならない
ビルが建てば その再商品化された 鉄筋などが 使われてビルの骨になりますので そこで消費される
ドンドン ビルが建てばよいのです 私の立場ではそうなる
なので それを国内で刺激するには 不動産のリートなどを 日本銀行が買い捲ってくれれば 良いのです
そして 古いビルは 入居者が少なくなって それは 取り壊されて スクラップ ビルドを繰り返す と よい
ビルを取り壊しても 昔のような 建屋の解体はせず きめ細かく リサイクルする解体が 行われているので
ほぼ 全ての解体されたモノは 埋め立てゴミには ならず、資源循環されていくようになっていますので
資源の無駄遣いには ならない
そうして 経済も活性化するわけ なのだと思います
その資源くず循環の お手伝いをするのが くず商 バタ屋トーナイ ですのん じゃ
ビルの解体などの お仕事がありましたら ゼネコンさんに まかす前に ワシの方にも見積もりさせて下さいね
072-678-1112に お電話頂戴しましたら 担当者に 向わせますよ
例えば ワシの場合 古くなった 新幹線の車両を 運び出せ 運搬せよ と 言われれば それも 多分運べる
外航船も使って 運搬もやりますので 色いろと やれます
大阪港にも 営業所を構えていますので 先輩たちも お仲間も けっこうに多いです
『港湾にも おる という事は少し ヤバイのではないですか?』 って そんな事は 今時は 全く ないですよ
今時の 港は みんな? コンプライアンスも高いのですよ
恫喝 したりは しません
その昔の人も 大阪城の あの 大きな石を運んだ男たちも どないか して その巨大な石を運ぶか ってことを考えたんだよね
そや 神社や寺の 大きな建屋 30mも40mも 高さが あるような 建屋を どないしたら 建てれるか 考えたんやろうと思う
なので ワシも そのあたりは ご先祖はどう 考えて そのような立派な仕事をしたか 空想もしてみてる
あ そろそろ 古代史のとうない に 文章が変ってきましたよ
----歴史のお勉強 とうない の 自習----
ご縁とは 摩訶不思議なもの また ご縁は こちら側から、つくって行くという場合もワシの場合 あるが
なぜか因縁というものも 感じる ご縁もある
何かに ひきつけられる様にして たどり着く場合が あると思うんじゃ
生駒山の入り口、大阪府交野市の磐船神社に 辿り着いたのも 何かのご因縁だと思う
そこで物部氏のことも おおきく理解が ワシに 進んできたと思うの
その磐船神社に なんとなく 辿り着いた から 岡山県の地元 とうない の美作市楢原里から すぐ近くの
ニギハヤヒ 物部の祖と申されます石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)に
何か不思議に 辿り着いていくのかも 知れないですよ
此処に来る前に お前(東内誠)は 歴史の勉強を 少しは 進めてから
此処に おいでなさい。
意味無く 知識も無く、ただ参るだけに なってしまうぞ
と この物部氏の始祖が 言うて あらしゃられる の かも 知れませんな ・・・そう感じる
なのでな 迷いながら 辿っていく航程というのも あって当たり前のこと なのじゃないかね
この所 美作 岡山 周辺の 神社や お寺さんにも ご縁は凄く 深まってきていると思う東内誠
昨日は ㈱トーナイの本社に郵便物が届けられて 驚いた
美作市 江見の交差点、川北の交差点から 暫く 大原方面へ走ったところにある
4月23日だったかに 訪問した
美作の あじさい寺 大聖寺 の お坊さんから
仏堂に 東内が忘れて帰ってしまっていた東内の あじさい寺のファイルを
わざわざ山(西の高野山という)を下りて 郵便局まで行ってくださいまして
大阪にワシがお堂に忘れた物を おくってきて下さった
このファイル ご縁で 仏堂に しばらく居たんだよね~ 嬉しいよね

↑ (これも ご縁 感謝致します 嬉しいです しかしワシ書いた文字と えらい 差やね・・)
このお寺の 事は 実はワシ かなり気になっていて 此処は 秦氏(はたし百済系かな?) の 香りがすると感じて帰った お寺だ
天皇家との深いご縁も感じる あじさい寺
という ニックネームも お持ちの由緒ある お寺 大聖寺 (ダイショウ ジ)
岡山県は 物部氏 秦氏 藤原氏 和気氏 安東氏 和邇 などの 古代の足跡が とても多いのです
秦氏は 百済系だと思いますが それは 僕には実は それら どうでも よい
物部氏は新羅系なのか?は 満州の奥のほうから来た 民族なのかも 実は どうでも よい
心静かに 考えたらば それは 大きな ことでは なく
ワシらの先祖たちが いろんな時代に いろんな ご苦労があって 今が 豊かで 幸せなのでして・・・
それが あってこそ 現代は 日本人は 一致団結し また国が安寧を保ち 平和なのでしょう
そのことに 感謝を しなけば ならないし 日々、それぞれが 各々の立場や職業で精進し、踏ん張らないと あかん
商売人であっても 欲欲し過ぎても あかん
人の輪 業界の秩序をも 大事にし 和を保たねばあかん ワシ、
(社団法人 循環型社会推進協会の理事長も承っていますし、
大阪一帯の資源屑回収の末端の業界の事業協同組合理事も20年以上も させて戴いています)
また 長たる者は 強い責任感を常に 胆に 維持しておかねば、あかん
なんか 悟って も いない くせに 悟ったような 事、能書きを 言っております(すみません)
まあ ワシの場合は失敗に 失敗を重ねてきているし
いろんな人との商売での 交わりも多く 多少は 最近では 言う事が かなり おじさん に なってきた
大阪に出てきた頃の22歳の頃は 腰に山用の鉈を ベルトの後ろに隠し持って仕事していたくせにね
http://tohnai.com/top_main.html
本日は5月1日 新年度で
ワシにとっては 初日、
本日も
現金を大量に準備して 関西いちえん の スクラップ買いまくっちゃる予定です
.
米国の景気は悪くはないと委員会メンバーは見ていて 雇用も伸びていると判断をしている
なので 本来は日米で金利差が広がり 円は $に対して安い方向に向うはずなのですが、
うーん 思うようには ならない ですね
為替は 5/1今朝は円高気味です
資源相場も上昇に なかなか転じてくれない ですね
2013年、年末比では 銅相場も10数%下落したまんまです
インドネシア鉱物輸出禁止令とロシアの問題で ニッケルだけは 好調ですが 銅が あかん
銅の原産地コストが もしかして? ㌧6400$辺りに あると最近では トーナイは想定しているのですが
なかなか それ以上に相場が 思うようには上向きに 行かない ですね
長い目で 見れば 銅は将来、必ず枯渇する 限りある代替品のない 地下資源の一品目ですので
長いチャートで考えたら必ず上がる
はずなのですが このところの中華の経済成長が伸び悩んでいることもあって 世界の最大の消費地ですから
銅の消費の4割が中華ですので そうなります
EUの金融不安も治まってきて ヤバイと考えられていた南欧などの国も 国債の利回りも下がってきていて
その上 米国も 個人消費は伸びてきていまして 日本も 銅の消費など 良いのですが
それでも 銅相場が、モタモタしています
東内 私しは この2つの為替と 銅相場に左右されますから 気が気ではないの
米国の 消費はサービスの消費などが伸びているのですが これが 住宅建設などに もっと向えば
非鉄金属の消費が伸びるのでしょうが
アメリカの消費に左右されますのが 株や資源相場です
GDPが でっかい ですから
米国で設備投資や 機械類の販売なども もっと伸びて欲しいのがトーナイの希望と相場への期待感です
また世界の鉄屑の消費にも おおきく左右されますトーナイですが
ワシらが集めるくず鉄は 建築材料に 再商品化されますので 建築需要も伸びねばならない
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ドンドン ビルが建てばよいのです 私の立場ではそうなる
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そして 古いビルは 入居者が少なくなって それは 取り壊されて スクラップ ビルドを繰り返す と よい
ビルを取り壊しても 昔のような 建屋の解体はせず きめ細かく リサイクルする解体が 行われているので
ほぼ 全ての解体されたモノは 埋め立てゴミには ならず、資源循環されていくようになっていますので
資源の無駄遣いには ならない
そうして 経済も活性化するわけ なのだと思います
その資源くず循環の お手伝いをするのが くず商 バタ屋トーナイ ですのん じゃ
ビルの解体などの お仕事がありましたら ゼネコンさんに まかす前に ワシの方にも見積もりさせて下さいね
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例えば ワシの場合 古くなった 新幹線の車両を 運び出せ 運搬せよ と 言われれば それも 多分運べる
外航船も使って 運搬もやりますので 色いろと やれます
大阪港にも 営業所を構えていますので 先輩たちも お仲間も けっこうに多いです
『港湾にも おる という事は少し ヤバイのではないですか?』 って そんな事は 今時は 全く ないですよ
今時の 港は みんな? コンプライアンスも高いのですよ
恫喝 したりは しません
その昔の人も 大阪城の あの 大きな石を運んだ男たちも どないか して その巨大な石を運ぶか ってことを考えたんだよね
そや 神社や寺の 大きな建屋 30mも40mも 高さが あるような 建屋を どないしたら 建てれるか 考えたんやろうと思う
なので ワシも そのあたりは ご先祖はどう 考えて そのような立派な仕事をしたか 空想もしてみてる
あ そろそろ 古代史のとうない に 文章が変ってきましたよ
----歴史のお勉強 とうない の 自習----
ご縁とは 摩訶不思議なもの また ご縁は こちら側から、つくって行くという場合もワシの場合 あるが
なぜか因縁というものも 感じる ご縁もある
何かに ひきつけられる様にして たどり着く場合が あると思うんじゃ
生駒山の入り口、大阪府交野市の磐船神社に 辿り着いたのも 何かのご因縁だと思う
そこで物部氏のことも おおきく理解が ワシに 進んできたと思うの
その磐船神社に なんとなく 辿り着いた から 岡山県の地元 とうない の美作市楢原里から すぐ近くの
ニギハヤヒ 物部の祖と申されます石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)に
何か不思議に 辿り着いていくのかも 知れないですよ
此処に来る前に お前(東内誠)は 歴史の勉強を 少しは 進めてから
此処に おいでなさい。
意味無く 知識も無く、ただ参るだけに なってしまうぞ
と この物部氏の始祖が 言うて あらしゃられる の かも 知れませんな ・・・そう感じる
なのでな 迷いながら 辿っていく航程というのも あって当たり前のこと なのじゃないかね
この所 美作 岡山 周辺の 神社や お寺さんにも ご縁は凄く 深まってきていると思う東内誠
昨日は ㈱トーナイの本社に郵便物が届けられて 驚いた
美作市 江見の交差点、川北の交差点から 暫く 大原方面へ走ったところにある
4月23日だったかに 訪問した
美作の あじさい寺 大聖寺 の お坊さんから
仏堂に 東内が忘れて帰ってしまっていた東内の あじさい寺のファイルを
わざわざ山(西の高野山という)を下りて 郵便局まで行ってくださいまして
大阪にワシがお堂に忘れた物を おくってきて下さった
このファイル ご縁で 仏堂に しばらく居たんだよね~ 嬉しいよね

↑ (これも ご縁 感謝致します 嬉しいです しかしワシ書いた文字と えらい 差やね・・)
このお寺の 事は 実はワシ かなり気になっていて 此処は 秦氏(はたし百済系かな?) の 香りがすると感じて帰った お寺だ
天皇家との深いご縁も感じる あじさい寺
という ニックネームも お持ちの由緒ある お寺 大聖寺 (ダイショウ ジ)
岡山県は 物部氏 秦氏 藤原氏 和気氏 安東氏 和邇 などの 古代の足跡が とても多いのです
秦氏は 百済系だと思いますが それは 僕には実は それら どうでも よい
物部氏は新羅系なのか?は 満州の奥のほうから来た 民族なのかも 実は どうでも よい
心静かに 考えたらば それは 大きな ことでは なく
ワシらの先祖たちが いろんな時代に いろんな ご苦労があって 今が 豊かで 幸せなのでして・・・
それが あってこそ 現代は 日本人は 一致団結し また国が安寧を保ち 平和なのでしょう
そのことに 感謝を しなけば ならないし 日々、それぞれが 各々の立場や職業で精進し、踏ん張らないと あかん
商売人であっても 欲欲し過ぎても あかん
人の輪 業界の秩序をも 大事にし 和を保たねばあかん ワシ、
(社団法人 循環型社会推進協会の理事長も承っていますし、
大阪一帯の資源屑回収の末端の業界の事業協同組合理事も20年以上も させて戴いています)
また 長たる者は 強い責任感を常に 胆に 維持しておかねば、あかん
なんか 悟って も いない くせに 悟ったような 事、能書きを 言っております(すみません)
まあ ワシの場合は失敗に 失敗を重ねてきているし
いろんな人との商売での 交わりも多く 多少は 最近では 言う事が かなり おじさん に なってきた
大阪に出てきた頃の22歳の頃は 腰に山用の鉈を ベルトの後ろに隠し持って仕事していたくせにね
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本日は5月1日 新年度で
ワシにとっては 初日、
本日も
現金を大量に準備して 関西いちえん の スクラップ買いまくっちゃる予定です
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