東内誠五鉾立の意味を追求していまして この日記も あと半年ほどで 日々連続したら8年なので3000日近く連続する ブログに なると思う
ここ最近は物部氏と和気氏の 古代史勉強中に傾倒中 斑鳩 明日香村の世界やね はっはっはは
銅の相場も日々やっていますが 銅相場のほうは746円です4/30 6時東内誠
今日は 何の日かと いうと ワシの年度末の〆日やね 多分 大丈夫だと思うのだけれども 決算の着地も多少 気にしている全店の各こまかな在庫も拾う日やね 年度の売り上げは31.5億円は行ったかな って所ですが 儲けがちゃんと出ているかどうかが 大事なことやからね やや心配だが 不動心や
年々 歳をくう耽美に図太くなっていくのが
ワシ トーナイや
フツのミタマ(御霊)を(金属系のもの)奉じ、祀る者 『物部氏 もののべし』
その後の時代では、軍事に従事した者たち →『もののふ』
とにかく 知識が無いから 東内には かなり 難しい 読めない
占(うらない) 卜(うらない) とも 書く 神技を古代からやっていたと思う
神武東征を知り、 長すね彦が生駒山の入り口付近東大阪市辺りで対抗し その時に
神武の兄で五瀬命(イツセノミコト)は長すね彦の放った矢に撃たれて負傷したんだよ
それまで長すね彦は 摂津 河内 大和一帯を 軍事的に制圧していたと思える
その時代 物部の祖に従った 長すね彦は その地域周辺を治めていたのだろうね
古事記では ヤヤタケ(土蜘蛛)なども ヤマト進入を阻止している
土蜘蛛 っていうのも 調べたら 鉱山労働者のような 感じで面白いのですが
此処では おいておいて・・(長くなるので)
神武東征よりも 先に 奈良盆地には 物部氏が 国を造っていたのでしょうね
物部氏は 何度も 数日 ここで書いているように
淀川を枚方市まで船で のぼって
枚方市 周辺で 陸に上がり交野市から
生駒山入り口の磐船神社に神が降りた
【天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと=饒速日命ニギハヤヒ)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承】
古代のヤマト周辺は
ニギハヤヒが日本の祭祀を司る物部氏の先祖であり ヤマトの国
そこは物部氏が神武東征以前より 制圧して君臨していた と思う
そこで フツノミタマ布都御魂 銅製の刀剣 は 物部氏の先祖を祀る
石上神宮に保管されているとされているが
第10代 崇神天皇(すじん すうじん てんのう)
(西暦200年~300年の頃?)の時代になって
多分?吉備国の物部氏によって
石上神宮に 移された 石上神宮の御神体となった とある
この吉備国の 元祖 石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)は 凄いぞ
住所が 岡山県赤磐市 石上 字風呂谷1448 となっているので
その周辺は
ワシ(東内誠)の いつも向かっているところの場所から 直ぐに西方面、
和気町 と備前市 岡山市などが隣接する場所なのじゃ
吉井川の 和気町から 西へ直ぐの山の中で 旭川にも近い
ここは 美作の地元も すぐ近くなのに
なんで ワシが古代史探求をしていて 訪問していない ことが とても 情けないぞ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E5%B8%83%E9%83%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
岡山の元祖 石上神社と名乗る 神社 元祖は此処↑
なんで 今まで 此処に行き着かなかったんだろう
石上布都魂神社 グーグルの地図を見ても 山中じゃ
必ず 訪問して 参拝します
地名にも 石上という村が あるみたいだから
村人に問えば 教えてくださる事も 何か あるかも 知れない
明治時代までは スサノオの尊が ヤマタノオロチを斬った時の剣とされている
この神社も 岡山藩主が池田光政の時代に
山頂にあった小さな祠を復興なされた
また 池田家の墓は 備前と和気の山中にあるのは 東内誠確認している
その山中の奥が 美作市へと古道がある
とにかく吉備津彦神社と 古代では並ぶ 備前国一ノ宮と称している
もしかして 吉備津彦神社よりも? こちらが古いのかも 知れない
歴史は 時の権力者によって葬られる場合も個人的には空想しています
岡山県は その昔から 鉄が採れた そして銅の製造もされたと空想しているのが
美作の楢原上 神宿の郷 5鉾 5矛立ての小さな祠を最低でも1300数年は
守っている 東内誠なのよね
この神社を北に 向かうと 鏡の町 などの地名も 吉井川沿いに残っている
ワシの 鏡作尊 東内何がし って 神主の真似事を 先祖がしていた写真もこのブログにも何度か掲載してる 東内としても たいへんに嬉しいじゃないのよね
奈良県の県境に行った かいが あったと思う
とにかく 岡山県の歴史が 1300年である訳が ないと思って 疑問ももった事も
此処まで 調べが進んできた とにかく 疑問を持たねばアカンね
ワシの村の年寄りに言わせれば 中山神社よりも 東内の祠が 先にあった と言っている そんなこと 大きな声で 言えば ちょっと都合がわるくなるのでね
ただ 物部氏は 仏教と神道の争いで 負けたが ただ日本全国の日本人のDNAの中で 脈脈とその血は 受け継がれていることは間違いない
物部氏が 全て滅んだ訳(和気)ではない 事は確かな事です
この辺を 基本的な 道筋として この先も 調べていく考えやトーナイの東内誠
歴史は まったくの素人で 学校へもろくに 行っていない学歴やけれどもね
遅れていた 学問は 日々 40歳ころより 巻き返してきているつもりやねん
新羅系が 物部氏としたらば 百済系は まあ それは置いておいて
新羅系は 多分 日本の古代の覇権争いで敗れ 蔑まれることにもなったかも 知れない
織田信長 豊臣秀吉は どうなんだ 新羅系なのでしょうかね
そこで 解放された かも 知れない 封じ込まれたかも 知れない
銅鉾祭祀は どうなのかな 物部系 の可能性が 高いかも 知れない
鍛冶屋系か・・
ある人の 書いたモノを読めば 長すね彦の兄じゃは 東北の安東氏
後の安倍氏となった とも 書いてあるプロの方の原稿も読んだ
高槻市に御陵(北大阪 三島地区)があるか 茨木市にあるか
不明な26代 継体天皇(西暦では500年ごろ) この辺りからが 現在の直系では ないかと書いておられる人もいておられる
とにかく 物部氏は 長い間、古代からずっと天皇家を支えてきたことは まったく 間違いないと思う だから 石上神社なども 現在も生き残っておられる事実
銅鉾立て 美作 中山チュウザン 東内とうない 藤内 唐内 何か あると思っても 不自然ではないと思う
とうない とは 藤原氏の内舎人を言う 『うちとねり とは』 その手下 小間使いであろうが
歴史は もっと その いにしえ からだと 思う
http://tohnai.com/top_main.html
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