『中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。 いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。
出雲のとうない(藤内)
柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに
藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。
30日4時過ぎには 米ドル円は102円を瞬間割りました
ダウも悪いですね 日経のシカゴ先物も昨日の上げ幅を全て消しています 見てられない 円が102円として銅相場は775円やや下辺りの仮定計算銅価格です
最近、銅など資源のポジションは減らしているとは言え、堪えます。
朝9時までには 円安方向に向ってくれねば困る立場の大阪北港USJの前の グローバルな屑商 阪神高速 湾岸線の神戸方面行きからも 看板が見えます屑商トーナイ の東内誠です そうです 看板だけは でっかいのです 最近 お隣が 巨大な倉庫を建築中なので
『君 また 凄い工場を建てているのかい』
と よく言われますが
ああ ワシには 数十億の建屋を建てる力量は 今は ないです
あそこはお隣でして あの会社は 多分 尼崎で一番の長者の方で 通関免許や荷役免許もお持ちの 歴史の深い企業です ワシなど足元にも及ばない
そんな数十億の建屋の家主に なれるようなトーナイではない 歴史が天と地ほども違う訳ですから
ワシは22年前 頃は 高槻市の調整区域 80坪の雑種地で クズ屋を自分の土地を初めて持ち ヨセ屋を し始めた者なり・・36年前は 乞食同然の浮浪者の身分、也。そうは やすやすと登ってはいけない
地元 岡山県や親族の 援助 コネは一切 使わない
知らない土地で 生きていく と いう条件の中で 21歳から 暮らしてきていますのんで けっこう 大変なのよね 実は そうなの
まあ 昔 昔の 旅をかけて いた 方々も 出た船は 引き帰らない という 決意を持って 旅をかけた と思うので 同じ事だと思うの
中国から 2200年まえに 未知の国 日本を目指して
3000人の子分を連れて やって来られた 徐福の船団も そうだったと思う
ワシの ように 知らない土地ならば 何処に魔物が潜んでいるかも知れず 腰には武器を徐福の軍団も所持していたと思う
ワシの場合は スクラップの銅をすぐに 解体する目的の 鉈でしたが そうです腰の後ろに鉈を持って大阪の街を 屑を集めて廻っておったんですよ バタ屋とうない
それは 湯沸かし器が出れば ネジを2つ 鉈で瞬間に 飛ばして その中の 銅を パイプの部分を叩ききって 銅の釜を取り出すの 瞬間に バラスの
込み真鍮も バンバン って ぶったたいて 取り出す
それは 運転席の屋根に鉄製の籠をつけてたのんじゃ
そこに 放りあげて積んでおくのや
朝は 洗濯が出来た 清潔なものを着て行商にでるのじゃが
帰り道には そりゃ すごい 汚れてしまって
その頃 高槻市付近の人は ワシら 乞食親子やと
思っていたと思う それほど 汚れていました
ちょっと近寄りがたい部類の人だと思われていたと感じてたよ
その時代に いろんな年代の人達とも知り合った
もめて 知り合った人も 数名おった
何処へでも 商売に声をかけに行くので ヤバイと感じる場面もけっこうに遭遇したけれども たいした事は無かった ワシの10歳代の取り巻きの方が 断然ヤバイので
まあ しかし 1人なので 1匹の はぐれ者なので 危険というのは そこらじゅうに まして場所は関西なので、あるわけでして その時は 腹をきめるしか 方法はない
舐められたら お終いじゃし さ
なので 鉈を持って いた 今時なら 警察に 職務質問を受けると思う
まあ やましい事をするわけでは ないのだから 堂々としていなければ 余計に 危ない
・・・また 過去が 脳裏に廻ってきてるので この辺でやめとく
徐福が気になっていましてな
徐福伝説は 多分99% その歴史は 正しいと 今のところワシは そう考えています
徐福(じょふく)と物部(ものべ) って 関係は 深いように思うの
物部と出雲や 九州も深いようにも 感じます
この辺りに 一大勢力が 出来たと空想
そして 徐福の一団の中の 一定の人達は
富士山を目指したり 伊豆を目指したり
諏訪方面にも 進軍したと空想しますな
日本海側ならば なんども 言ってる 若狭 丹後半島付近も 行ってる 行ってる
龍神社 かごめ かごめ やぞ
鶴と亀や からね
伊勢付近にも 和歌山付近にも徐福は行った行った
諏訪方面に 2200年まえに 徐福の一部は 行ったの富士を目指したらば その奥にも入り込むとおもう
その富士山の北側には 人間は 住んでいなかったのかと 言うと それは4800年も前から 住んでいた人達がおったの それらの人々は 実に平和的に長年暮らしておったと思う その周辺が 藤内とうない遺跡
その遺跡から 多数の土器が出土していて それ模様を見ると とても平和に暮らしていたと思える
稲はあったのか どうかは 解からないが 山には どんぐりはたくさんあって それは その土器を使って巧みに まあ けっこうエエ食生活をしていた形跡があるの
諏訪湖から 流れる川には 魚も獲れて 山には 鳥やイノシシや 鹿は ようけおった
その場所で 多分4800年前から 住んで 平和に暮らしていた人々がおった
なんで 平和だった かと 言うと 食が担保されてたし
まあ 土器を見れば それは感じる
徐福の軍団が それらを 奴隷にしたのか 共生したかは それは 解からないが 先進文明を持って現れたのですからな ・・・
従順ならば 足かせを解くことも あったかも 知れない
徐福が 3000人も連れてきたと言う事は 何らかの事前に ニッポンの情報はもたらされていたと考えるのは当然だと思う
しかし 土器を造り のん気に暮らしているなかに
中国から 武装集団が 来れば ひとたまりもないよ・・
どんぐりは どないして食うのかと 言えば 石の臼で 粉にし それを 竹で編んだ ざる で すくって 息を吹きかけて 殻を飛ばして 実だけの粉にして煮炊きすると
山で生えている 食べれる草などと 焚けば 食える
餅も作れると思うで 4800年前でも 可能や 土器がそれを証明しているんだ
諏訪湖下すぐ付近の 富士の見える 南に向いた山のところに
とうない遺跡が あるのなら 暖かくなれば 一度訪問してみたい 大阪から350km 程か 中央道やな
その昔 現地人のワシらの遠い先祖 生け捕りされたかも 知れないよね
だいたい 顔が 横にごっつい タイプは 昔からの原始人の傾向や
毛深い 傾向もある
顔がほっそりした タイプは そうじゃなあ
新たに 何波になるか 知らないが
時代にもよって違いはあるにしろ
大陸からの幾度となく来た渡来系
中国の南部から来たのかも知れないですよね
徐福の場合は確実に そうじゃ
しかし 徐福の軍団の影響ならば
秦の始皇帝の系統なので もっと過去には
中東方面から来たかもしれんぞ
そうなると旧約聖書を信じる民の血筋かもねえ
とにかく 雪が解けるのを待って 諏訪周辺の探索は
出自を求めていって その土器や 風景を見てみたい
今日ワシが 書いてるのは2200年前から4800年前の
ことでして 1500年ほど 前の時代の事ではないのでな
勘違いのないようにね
脳みそが 変わっているのでさ 時代というか 時間を飛んでしまっておるんや
大化の改新 から 以降のことではないのんじゃ
ワシ所の 岡山の 村から 出土した 平福遺跡の石棺の紋様 ほのぼのとしてる
あの石棺のデザインと 諏訪の4500年以上も前の
デザインが なんか似ているとワシは 感じてるんじゃ
相場が 苦しい時には 古代への瞑想が エエですね
6時半か 緩和縮小ペースは 予測どおりだったね
当たった しかし 当たっても円安く なっていないじゃない
米にとっての金融政策決定会合なので 新興国の事は気にしないは 当たったと思う
バタ屋 東内誠(藤内 とうない)の会社のホームページは↓
http://www.tohnai.com/top_main.html
屑関連の仕事がありましたらば
お気軽にお申し付けください
関西一円 量があれば お伺いします
工場の解体 重量物の運搬 搬出作業
銅の高価買取り
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くず鉄問屋 非鉄問屋 産廃処理も2工場が許可
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レベルは有しておりますが
申請は検討中です トーナイの東内誠
電話は072-678-1112 (代表)
【諏訪大社 藤内 とうない遺跡で検索したら】
【他人様の物を 少し コピー『』↓】
藤は産鉄のキーワードか
『中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
触媒的役割りを 果たしたのが
「とうない東内/藤内」氏であった。
藤内氏は菰を刈って
チマキを作り神を饗応したといい,
その功から以後
明治初年まで美作東半国の
初穂料を徴収し,
中山神社に納める 職能を担うこととなる。
中山神の古代金属生産とのつながりや,楢原地域の産銅・産鉄の可能性の高いことを指摘したところでもある。
また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。 いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。
出雲のとうない(藤内)
柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに
藤内某というものがあった。
能義郡布部というところに至り, 宿泊した長者の家で近辺(比田)に巣くう魔物の話耳にし, 大納言の命により 藤内が退治することになる。 山王権現の使いである猿の案内でめでたく化物を打ち取るが, 頭は人のようで 白髪三尺あまり, 四足は狼・尾は牛に似て,前身黄色の毛に覆われていたという。
藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。
(原話:田辺善明/再話:小汀松之進)
以上 他人様原稿からの一部コピー
以下は 私の文書です
ウィ鬼ペテァからの
藤内(何時の時代からか東内)は
藤原氏の 私的 家来というか 雑役係りで
警護 ご主人様の旅の先までも警備 あらゆる
雑役などの業務
行けと 言われれば 皆殺し にも行く お役目 である
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤内(とうない、ふじうち)
日本の姓のひとつ。
日本の古代から近世までの貴族である藤原氏 に
任ぜられた内舎人 を藤内と呼称した。
血や 汚れ仕事も 命じられれば 行くのんじゃ
なんか ワシの体内に 多分に その血は
感じる所が あります
時代によっては 穢れから 差別を受けた時代もあったかも 知れません
しかし そんな事には 東内は 感知しない
藤原王の 言われる事には 忠実に番犬の如く
働いたのですから 戦士/雑役の血筋には誇を持ちたい
王が その地に留まり 番をせい と おうせつかれば
1300年間でも 従順に 従う者なり 藤内 東内
千数百年も過去から 武器を持って警護させて戴いた
藤原系の おえらい方が このつたない文章を
ご覧下されば
トーナイを覚えて おいてくださいまして
今 ワシ グローバルなゴミの循環型を進めたいのです
何か お役に立ちます仕事をしたい
0120 535319が連絡先でございます
ロンドンでは 銅が昨夜はやや下落 といっても ここ最近の範囲内で 大きな動きはないようです 投資家の警戒感は 米国の金融政策決定会合にあることと 中国の春節によるところの 中国の銅消費の季節的な減少 しかしLMEの指定倉庫の在庫は減少の一途ですので
徐福(じょふく)は2200年前頃に 日本各地にも 記録が残されていて 秦の始皇帝の時代に 3000人もの技術者 若い男女を連れて 五穀や農耕具 金を持ち 日本にきて
そして中国には結果 帰らなかった 日本に住みつき 根付き 各地に子孫を残したようです
また その徐福の子孫は中国にも現在も子孫が残っていて その地区の人々は 日本には 友好的であると 映像検索 でも出てきます
2200年も前の古代に3000人の人々を連れてきたということは 30mほどの長さの船としても なかりの多くの船団を組んできたのでしょう
甘粛省辺りで 秦の国が建設され建国に至ったのですかね ここら辺りには シルクロードを流れてきた ユダヤの浮浪の民が 住みついていたかも 知れない と言う様な事も いろんな所に書いてある この浮浪の民は 東の果ての
神が目指せと指示をした 東の果ての島国 わが国
日本を目指していた民族とも言われているの ヘブライ(イスラエル)の血が混ざっているのではないか といわれていますね 日本人にも
その徐福が来たとする 当時の 日本の人口は 10万人なのか30万人なのかは 空想の世界です
馬や牛 羊は 何時の時代に 日本に渡ってきたのでしょうか 魏志倭人伝では その時代には 倭国(日本の全てを調査した上でか どうかは知れませんが)
馬は居なかったと 書かれているようです
倭国という表現は 中国から 日本を多少 見下した表現であるように想像しては おります 東内 吉備国美作の国の出自の歴史を勉強中の者の日記です
岡山県 美作市楢原 神宿 とか 美作市平福 を歴史研究の方々の検索に このトーナイブログが 検索に かかって欲しい と 意識もして 書いています
岡山県には 徐福伝説は少ないですが
佐賀県とか 和歌山県 そして京都の若狭湾にも 徐福伝説がある
ワシが徐福の立場であったとしたら
まず 船を止めて 湾があるような場所に 入り 船を繋ぐことを考える それには 若狭湾も適している
天橋立の周辺も ええな と 感じると思うだろう
そして 小高い丘の上に 先発した勇敢な男を登らせて 周辺に武器を持ったような 村落があるのか 無いのか
まず それを調べる 当然 水が飲めるかどうかも すぐに調査させるでしょう
福と知名に名称が使われている 地区には徐福となんらかの 関係が その何%かは あるのかも 知れないですね
そうなの 美作の 平福(ひらふく) も 私はそう感じてる
その平福は ワシの家から直ぐ東の村なの
ここからは 石棺も大変に綺麗なもの等が出土して
その埋められた時代も 1800年前から2200年前だと 認識しているの
ここには 羊だか 馬だかが とても綺麗に描かれています これは 今は国の博物館に保存してあるのです
博物館の調査の人は 馬としている また その後ろの三つの山も 遠くの山の風景としているが
このみっつ山は 明らかに 美作市の中山 妙見 の前の 三ツ星城の跡地がある みつぼしやま だと 地元の人が見れば すぐに 知れたことだと思います
そして 女性が 楽しそうに 馬か 羊かと 共に 描かれています とても平和そうに 描かれています
その描かれている 馬なのか 羊なのかの絵が 中国の徐福の村の壁画 とも たいへんに 描かれようが似ている
徐福の村の 現在でもある岩に描かれた壁画のようなものは 以後の時代に再生されたものらしいが その絵 などは どこかに記録が残っていたのだと想定しています ワタシ。
2014年1月19日の MHKの20時の 何時も連続ドラマでも 赤松氏が 悪者として 出てきますが
話が 飛んで申し訳ないですが すぐに戻りますので
美作市の平福から 東へ兵庫県に入った辺りにも
宮本武蔵が 佐用郡(現在の佐用市)のほうに 下りてくる道にもなる
美作平福から 15kmほどか20km あるかな その場所にも 同じ 平福 という いかにも 古くからの場所を感じさせれる地名のところが 川沿いにあります ここは 私 数年に一回ほどは 車で通過するのですが ここを通る耽美に なにか 感じる所がある 変な気分に陥るの・・・
ここは 今から400から800年ほども 前の時代からは
昨夜もNHKで出てきた 赤松氏の 城が あったと思う
城なのか 関連する屋敷なのかは 解からない
赤松氏が 『平福』に 関連した 人物であると言う事は間違いないと思う
この川から 船を出せば 瀬戸内の どうじゃろ 赤穂のほうへ 物資を運搬することも 可能だと思います
まあ 佐用市の平福を通ると ワシには 何かを強く 感じる気配があると いうことなの
暫く前にも 比叡山の山頂付近で ワシは運転中に 縛られてしまって 身動きも出来なくなって 倒れる寸前で 高槻市の自宅に 逃げて帰ったって ここのブログでも書いたと思うのですが 比叡山のようなものではなく この平福を 通ると 過去のご縁なのか なにか 感じますのです おい東内誠 車を止めて 川岸でも散歩してから 大阪へ 帰れや とか そんな感じです
ワシ 山中を数百kmも 日に乗用車で走る 癖があるのです 少し変わっている人間です
何故かしら 備前市から和気インター 付近から 蒜山高原の中の 山々の道から 鳥取の山中を走り 但馬 丹後 天橋立付近 そして琵琶湖周辺などの 山々を 自然と そこへ勝手に方向が いくの ハンドル握ると 何故なのか そのコースの一部を走行してるの
200km×80km ほどの 四角の範囲になるのかな
マタギの 山の人なども その範囲 程度は移動したのかも 知れないね
マタギといえば 思い出す
22歳の時に 4人の人達と 共同で クズ屋のグループを作った
そのときに 仲間の名称をつけたのが ワシで
それはマタキ って 名を ワシが考えたんじゃ
大阪に出てきて 初めて知り合った連中なの
玉置さんって人と 山尾さんって人 それと足立さん って人 最初の2人は和歌山県出身の人たちで 足立さんは 多分 但馬地方の出で 彼は 名古屋の辺りで悪さをしていた人だと思う
彼らは わしより20歳前後 年上の人達でした
行商人のグループで その後 屑の行商人をスポニチの人材募集で 全国から 集めて 自分たち自らも 屑を集めながら 同時に
ピンハネ屋 車両のリース屋もやっていました
4日に一回は 当番制で 事務も その頃 ワシも仕切り書 書いて 行商の方たちに 屑集めた分のお金を支払いし そのうちから 日々 家賃と 車代を差し引いて 支払って 独立採算で 皆さんに 屑 集めて貰ってもいましたんじゃ
一時は 50人くらいも 屑集めの人達を 全国から集めた なので そのグループ 新車のトラックをどんどん購入していったのでね そう 借入金が どんどん 膨れていってしまった
そのグループに何故か マタキと名づけたの
マタギ ってのは 山を徘徊して 獲物をとり 集めるのが 仕事や
日々 山を さまよい歩くのも仕事じゃ
そして 山には 霊気を強く 感じる場所があるの
獲物を狙っている者には 獲物が 何処に 隠れているのか 推測する 能力もあると思うの
ワシが 21歳10ヶ月から 狙った獲物は 屑なので その屑が 何処で発生する 溜っているかを 臭覚で嗅ぎ分けるのんじゃ
とにかく ワシは 22歳の頃は 臭覚が強かったと思う
短時間に 誰よりも 多くの屑を集めるの 誰にも負けたくないの
ただ 多くを集めても 相場が 大暴落して 集めても集めても 儲けの とっても 少ない 時代も 何度も経験してる
なので 年率で 10%づつ 集める内容を 品目を 年々 商品数を 増やしていったと思う
平福の 話題から クズ屋のスタートの頃の思い出に 話が 向ってしまった ま エエか
ワシは 佐用郡の 平福は 22歳の頃から 何度も 通る道なの それは 姫路から 佐用を抜けて 岡山の東端っこの大原 粟倉 をすりぬけて 鳥取市に向けて 屑を回収に行く道なの
姫路から 龍野 山崎を 抜けて 山越えする 屑回収コースもワシにはあったのですが 佐用を抜けると 平福を抜けるとなるの 何故か その道に引き付けられる傾向が 22~23歳から ワシには あるの
21歳10ヶ月で 里とのご縁を十年間
切ったことも 影響しているかも 知れないが
縁を切らねば 多分 今頃は ワシ 違った人生で
もしかして 自由を奪われて 外と中を行き来して いたかも 知れないし
そんな 予感がするわ
まあ その後 大阪に出てからの仲間達とも なかなか 合わなくなり 28歳の頃かに 離れてしまって 今に至っています
その頃から 大阪府の屑関連の 事業協同組合にも参加し始めたんかな
政治家の関連は 25歳あたりから 各所に ご縁を こちらから 近づき始めたころかな
商人なので 各所に ご縁もなければ ならんと思った
30歳前後の頃は 選挙の車の運転手もボランテアで参加し始めたの だった と思う
とにかく 何処へでも トラックで うろつきに廻るのが仕事じゃし
しかしさ ワシのようなレベルの低い者でもさ
こうして 知らない土地に たどり着けば まあ うろうろして 良い場所も探して ワシの場合は 旅をかけて36年ほどでも 拠点は どうやろ15箇所くらい もってるわけで 36年で 15箇所に 何かの関連がある訳で
その昔の 渡来人 気化人たつも 移動したと思うよ
もしも 徐福の3000人が 2200年前に きていたとしたら
そりゃあ 3000人が うろつけば まあ 日本全国に 移動をしたり 拠点を作っていったのだと思う
ワシの場合で恐縮ですが こんなテイ脳レベルでも 里からは 一円も ご支援は頂戴していないし
それで 15箇所にご縁が 今 出来ているとしたら
徐福さんなどは 多分 秦の始皇帝をも 口達者に口説いて 渡航に許可を貰ったのだから 彼は 多分 天才ほどの知能があったと思って当然だと考えます
どや 21歳から 旅 している ワシがそう考えると
親の規定路線どおりに 生きてきている人よりも幾分
説得力は あると思うのじゃが どうじゃ?
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申請は検討中です トーナイの東内誠
電話は072-678-1112 (代表)
ワシの場合は 21歳からとは 言ってるが 実は13歳の頃から ほとんど家を離れてしまっているので
他人の家に 寝かしてもらったりさ
寝るところがなければ 田んぼの藁の中で寝たり
祠の中で 眠ったり だしさ
40数歳まで 父親と口も聞かず だったんや
最近は 親が老いたので ワシも とても
大事には ているけれども・・・
腹が減ってさ 玉葱を むしって食って
そうや 口から 火が出るぞ ほんまなの
腐ったご飯の食べ方も 知ってるの
何度も 洗うのんじゃ
お茶で洗う 何度も洗う
ワシは 山に入って暮らしても鳥は獲れる自信はあるの
山で 家を作り雨風を凌ぐことも 多分 今でも出切る
鉈が一本あれば エエぞ
そやねん 鉈は 大阪に出てきて 暫くの間は
車にも 何時も積んでいたの ある時は 腰の後ろにも付けていたの
何時 何処から 襲われるかも 知れず 常に ジャングルの中に住んでいると思っているのでな
今か 今は 相場が 勝負の相手や
とにかく 今日のアピールは歴史研究の方が これを読めば 吉備国 美作 平福 棺 出土 5鉾立て 神宿 ちゅうさん 中山神社 鬼 桃太郎 秦 馬 羊
徐福の 福の 地名に残るもの 兵庫県北西部の佐用郡
平福 この辺りが検索にかかって欲しいところ
【諏訪大社 藤内 とうない遺跡で検索したら】
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藤は産鉄のキーワードか
『中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
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藤内氏は菰を刈って
チマキを作り神を饗応したといい,
その功から以後
明治初年まで美作東半国の
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中山神社に納める 職能を担うこととなる。
中山神の古代金属生産とのつながりや,楢原地域の産銅・産鉄の可能性の高いことを指摘したところでもある。
また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。 いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。
出雲のとうない(藤内)
柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに
藤内某というものがあった。
能義郡布部というところに至り, 宿泊した長者の家で近辺(比田)に巣くう魔物の話耳にし, 大納言の命により 藤内が退治することになる。 山王権現の使いである猿の案内でめでたく化物を打ち取るが, 頭は人のようで 白髪三尺あまり, 四足は狼・尾は牛に似て,前身黄色の毛に覆われていたという。
藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。
(原話:田辺善明/再話:小汀松之進)
能義郡は近代までたたら-砂鉄による産鉄地帯で,
播磨国宍粟郡岩鍋に示現した金屋子神が,
白鷺に乗って 西比田の黒田に飛来し,
たたらの技を伝えたとする伝承を述べた。
この神はこの地に鎮まり「金屋子神社」となっている。』