消えゆく戦争体験
「思い出紙芝居出紙芝居」
【体験の重要性】
●昨年の冬、列島各地が大雪で大変な事態となった。道路が寸断され孤立集落が続出。報道がトップ記事で伝えた。
●この時の或番組に、大変重要なメッセージがあった。現地入りした記者が一人の主婦にインタビューするワンカットが脳裏に残っている。
●記者「孤立して五日めですね、困ったことはありますか?」
●主婦「今のとこ、ナーンモ…」
●記者「大丈夫なんですね」
●主婦「わたしら、戦争潜り抜けてきたさか、こンぐらいのこと、何ともないさ……大丈夫じゃ」
●殆どの番組「多数の集落が孤立…食糧は、水は、医療は、……早く何とかしなければ大変なことになります」
躍起になって連日連呼している。やれ自衛隊や、やれ消防団やとてんやわんやだ。災害が頻発している列島だ、この報道は正しいだろう。出来る限りの対策が必要なことは良く分かる。
●成熟し過ぎた感が否めない現在社会の人々はこの種の自然災害に襲われると右往左往だ。当然のことで免疫性が皆無の温室育ちだから当たり前。必死に救助を待つのみ。SOSの連打となる。然し乍ら彼らを非難することはできない。それは、時代の必然だからである。
●この、免疫性とは言いかえれば体験性ということになる。先ほどのインタビューに平然と答えた主婦の一言「過酷な戦争体験という免疫性」 そのお蔭で如何なる事態にも平然と居られる。平常心を保ち、経験に基づいて考え行動する。
●ここに、実体験の偉大さが判る。
●さてここで「想い出紙芝居」 だが、実体験された方々が、その片鱗でも記録として残してくれれば、免疫を持たない現在に生きる人々、特に青少年に与える衝撃は大きく同時に、それに接した少年たちの心に、実体験ではないにしても、絶大な精神力を観念として植えつけることになる筈だ。
●これが体験記録の重要なポイントである。
「そうか…おじいちゃん、おばあちゃんにそんなことがあったのか」
只そう感じることで、ストレスが解消され心的外傷PTSDが軽減されるのではないか。ユングやフロイトの説では、人間の潜在意識領域に刻み込まれた情報は、いざというとき現意識に浮かび上がりその行動に影響をあたえるという。
●実体験でなくても、知っていることと、知らないことでは大きな開きがでてくる。ここに、激戦地での実体験・食糧難の実体験・家族を亡くした実体験等々、誠の記録を残す大きな意義がある。
山の辺書房かしはら出版編集室
日本自費出版ネットワーク正会員
はじめに
戦後七十年、戦争体験者も高齢になり壮絶なる色んな出来事を後世に伝えることが限界点に達しようとしている。
今となっては、体験事象全般を記録することは殆ど困難であるが、記憶の引出しの中で、どうしても消えない悲惨な情景や感情があるのではないか。
これだけは…あの事だけは…どうしても誰かに言っておきたい。
また、そうすることで人生にいくらかの区切りがつく。
ただ隣人に話すだけでなく、消えることのない記録として残したい。
そんな思いの方が多い。
でも、どのようにして残そうか…。
この、「思い出紙芝居」は、貴重な歴史証言を電子書籍データという形で記録し後世に伝えることを究極の目的として企画した。
●「思い出紙芝居」…なんと軽々しいものだな、と感じるかもしれない。
しかし、ここがポイント。
これが、一個人執筆による一冊の書籍になるような体験物語ということであれば、ちょっと手が出ないかもしれない。否、殆どの人はとっても無理だと諦める。私の自分史制作二十八年の経験から断言できる。
そこで、体験の一場面だけでも残せないものだろうか。世間に発表しなくても、個々人の机の引出しにでも残しておいてくれれば、何時か誰か読んでくれる可能性がある。同時にそれが、唯一無二の貴重な証言であることに気付いてくれる筈。とにかく、どんな形であれ、残しておいて欲しい…。
こんな思いから、誰でも苦労せず作成できる方法としてこの「思い出紙芝居」を提案する。
もう後がない。今その時ではないか。
●本書はそのハウツー本である。
私は二十年前からこのことを新聞等で言い続けてきたが、当時は未だ戦争に対する色んな考え方が残っていたため公にすることに躊躇する体験者も居た。このことが実現を妨げる一因だったのかもしれない。また同時に、現在のように「電子書籍出版」という形態も無く、費用の面でも可成りの額になることもあって、紙本による正式出版に対して「そんな大それたことを…」と、二の足を踏む方々が居たことも事実。
ところが現在では「電子書籍出版」が台頭したお蔭で、お金をかけずに発表できるようになった。いい時代になったものだ。しかし時既に遅し…つまりは、戦争実体験者が殆どお亡くなりになってしまい詳細な情報を得る事が困難になってしまった。
それでも未だ望みがある。以前のように、正式出版としての実話物語を作ることは無理かもしれないが、せめて断片だけでも残せるのではないか、という考え、つまり、強烈なワンシーンのみの記録なら対応できるのではないかということで、紙芝居という発想がわき上った次第だ。
紙芝居という発想
紙芝居はご存知のように、一番重要な一幕を描画し核心部分を語り手が名調子で演出するもの。
この手法だと、面倒な説明等無用。必要なのは映画撮影で使う台本の「ト書き」で充分。
そのト書きに乗せて会話文を書けばいいわけで、本を書くというよりは、井戸端会議でもするような調子でやればよい。文章力も文法も不要。
強烈なイメージをつくりあげるのは、偽りのない「会話文」だけだ。 会話文は文法など不要と書いたが、実際その通りだ。また、方言などもどんどんとりいれて、魂が発する声をそのまま録音するかのように書きつけるだけでよい。文字の間違いも気にしない。極端な言い方をすれば、カタカナだけでもいいのだ。 とにかく、真実の声を残すことがなによりも優先される。
この会話というものは如何なる論理をも超越している。なぜなら、それが真実だからである。誇張も見栄も作り話もない。魂の叫びである。
従って、一情景描写のみであっても、その価値は計り知れない重みがある。
このことは、出征した兵士のみならず銃後の家庭に於ても重要な役割を果たす。
例えば、食糧難のとき、子供と母親との会話。出征した夫を想う家族の会話。あるいは、隣人・友人との会話。その話し声を文字として記録するだけで情景が浮かんでくる。ここに、単なる説明では表現し得ない真実が見えるものだ。
「思い出紙芝居」制作のまえに
諄いようだが会話文の重要性について、次の一文を抜粋してみよう。
これは、既に出版している私の著作「初心者の書き方ガイド」Amazon Kindle版,やブログ記事にも書いたものだが、会話の凄さが実感できるものだ。
会話というものは、聞いても面白いが、読むと更に味があり、想像力をかきたてられる。
ここに、文章の神様といわれた文豪、志賀直哉さんの大正時代に出版された[夜の光]という作品集がある。わたしの大好きな短編集だ。なかでも、大正六年七月発表の「好人物の夫婦」というのがあり、この作品の会話部分が実に素晴らしいというか面白い。どんどんイメージが湧いてくる。
次に抜粋。
…………………………………
【深い秋の静かな晩だった。沼の上を雁が啼いて通る。細君は食臺の上の洋燈を端の方に惹き寄せて其下で針仕事をして居る。良人は其傍に長々と仰向けに寝ころんでぼんやりと天井を眺めて居た。二人は永い間黙って居た。
「もう何時?」
と細君が下を向いたまゝ云った。時計は細君の頭の上の柱に懸かってゐる。
「十二時十五分前だ」
「お寝みに致しませうか」
細君は矢張り下を向いた儘云った。
「もう少しして」
と良人が答へた。
二人は又少時黙った。
細君は良人が餘りに静かなので漸く顔を挙げた。而して縫った絲をこきながら、
「一體何して居らっしゃるの? そんな大きな目をして……」
と云った。
「考へて居るんだ」
「お考へ事なの?」
又二人は黙った。細君は仕事が或る切りまで来ると、絲を断り、針を針差しに差して仕事を片付け始めた。
「オイ俺は旅行するよ」
「何いって居らっしゃるの? 考へ事だなんて今迄そんな事を考へて居らしたの」
「左うさ」
「幾日位行って居らっしゃるの?」
「半月と一か月の間だ」
「そんなに永く?」
「うん。上方から九州、それから朝鮮の金剛山あたり迄行くかも知れない」
「そんなに永いのいや」
「いやだって仕方がない」
「旅行おしんなってもいゝんだけど、……いやな事をおしんなっちゃあいやよ」
「そりゃあ請合はない」
「そんならいや。旅行だけならいゝんですけど、自家で淋しい気をしながらお待ちして居るのに貴方が何所かで今頃そんな……」
かう云ひかけて細君は急に「もう、いやいや」と烈しく其言葉をはふり出して了った。
「馬鹿」
良人は意地悪な眼つきをして細君を見た。細君も少しうらめしそうな眼つきでそれを見返した。……】
(大正十四年 新潮社発行)夜の光より。
…………………………………
●場景描写、時間、その他、改めて説明は無いが夫婦の会話のなかに全てのものをそっと含ませ、読んでもらうための諸条件を満たしている。
これを紙芝居で表現してみると、
◇座敷で夫が寝ころんでいる。
◇柱時計の下で細君が縫い物をしている。
イメージ画としては、この一枚でよい。この絵を見せながら夫婦の会話を弁士が熱演する。紙芝居の観客(読者)は「ああ成程」と理解する。
回りくどい説明文など皆無。これだけで完璧な一幕が完成している。
このように、会話という「魂の叫び」が如何に観客に或は読者に強烈なイメージを与えるかということがよくわかる。
紙芝居的発想による戦争体験記制作の実際
①ロケーションの設定
第一幕があがる。
劇場の場合は背景画や小道具がセッティングされている。観客(読者)は、さあ、何が始まるかと期待する。観劇の場合は、これが第一段階だ。
「想い出紙芝居」は、これを当時の写真や、絵の描ける人ならデッサン画で用意する。このロケーション設定は、子供の頃よく描いた絵日記と似ている。難しく考えたり構えたりすることなく、夏休みの宿題絵日記を書くような気持ちでいいのだ。
ここに絵日記をもちだすのは、戦争体験とはその重さが違うもので、申し訳ないが、私の企画した想い出紙芝居とはこういうものだ、ということを説明したにすぎない。
物事を伝える手段は、編集された本や映像に限られたものではない。ほんの一言二言の魂の叫び(会話)が万巻の書物に勝る場合だってある。
一枚の写真・召集令状・戦地からの手紙・決して上手でないイラスト・被弾し、息絶え絶えの戦友が託した家族への最期のことば・飯盒・軍服や帽子・ボロボロになった靴・シベリア抑留時の生き地獄体験等々、それを見つめ、簡単なト書き(撮影や舞台などでの演技用状況説明文)を記憶をたどってありのまま、真実の会話文で埋めれば大変貴重なメッセージとなる。
思い出紙芝居は、生涯忘れ得ぬ強烈な一画面のみに会話・ト書きを添えるだけでよい。勿論、シーンが多ければ記録としての濃度も高くなるだろうが、生涯心の片隅にこびりついた悲惨な情景など幾つもあるとは考えられない。あれこれ欲張ると焦点がボケる。取捨選択が必要だ。
これに似たものに万人承知の「絵手紙」というものがある。だが、私の提案している「思い出紙芝居」とは大差がある。絵手紙は練りあげられた文章表現がついている。考え抜かれた、いわば俳句や短歌のようなものだ。「思い出紙芝居」は形式的には似ているが中味が全く違う。絵手紙の要領で文章を添えたのでは意味がない。
「思い出紙芝居」は文ではなく「叫び」で構成される。この点を混同してはならない。真実の実体験の凄さがここにある。何度もテレビで放映済のシーンなので遠慮なく書くが、次のような場面がある。
[例]
或故人となった有名な俳優の名場面とセリフ。
●被弾した刑事、胸を押さえるワンシ一ン。
●叫び「なんじゃ…こりゃ!」
●膝を折り路面に倒れ込む刑事。
これが真実偽りのない戦争体験記録「想い出紙芝居」の神髄だ。
このワンカット・ワン台詞、見事の一語に尽きる。ここに、万巻の書物で言い表せぬ膨大なメッセージが凝縮されている。「紙芝居」制作挑戦者には素敵な手本となる。
●さてここで、発表するしないは別の話として、とにかく、今まで心に仕舞っていた誰にも言いたくなく、墓場まで持っていくしかないと決めていた戦友への思いや数々の事象を、この「思い出紙芝居」に託してみてはどうか。
●私の創作であるが次に個人で制作する場合の見本を数点挙げてみる。
このことで、永年の心の重荷をおろすことができる方がいるかもしれない。または、亡き戦友への懺悔の念を少しでも軽くすることができるかもしれない。いずれにしても、貴重な歴史証言となることに間違いない。なかには、本人の心意気次第だが、仲間同士が意気投合して文集のような形で発表することも可能。(戦友会・遺族会など連合制作で)
「思い出紙芝居」サンプル
従軍経験のない私のイメージ見本(写真はパブリックドメインを使用)で申し訳ないが、以上のような方法で心の隅に残る、決してこれまで他人に打ち明けたことのなかった事実を吐露することで、私自身人生のけじめがつく?だろうし、絶えず意識していた戦友への悔恨の情も和らぐのではないか。
●ここで制作上の注意点。
◇「思い出紙芝居」制作者は、サンプル写真のところに、ご自身所有の写真・手紙・イラスト・絵画を使用すること。そのものが何かを語りかけてくるものであることが必須条件だ。当時の様子が想起されることが第一。
◇平坦な言い方をすれば、作者にとって一番重要かつ大切な想い出事象のみを選ぶ。同時に、何度も書いている如く、
「これだけは絶対書き残して置きたい」等々、胸の奥深くに秘めていた事柄を書くようにする。
◇とにかく、真実の体験報告であることが第一。
私は、平成元年頃より戦争体験談を募集し、その執筆を働きかけてきたが、思うように成果が出なかった。
「まだ早い。今言う時期ではない。今本当のことを発表すれば弊害がある」
などの意見が少なからずあった。
特に、慰安婦や虐殺関係のことは当事者としては書けない事象かも知れない。しかし、事実は体験者自身が証言しなければ正確な史実記録とならない。
既に七十年という歳月が経過している。にもかかわらず未だこのことは闇の中が多い。無理に発表する必要はないかもしれないが、事実の一端でも自身のみの記憶として残して置きたいものだ。制作した後、人間に膾炙の意が固まれば発表すればよい。
◇この思い出紙芝居は、個々人で保管しておいて、つまり、門外不出でもよい。然し乍ら、折角の実体験は、出来る限り真実を公表すべきであろう。
当編集室では、できれば「真実の記録」を集めて電子書籍として廉価で販売したいと考えている。
仮に体験記録が集まり販売された場合、投稿者には電子書籍売価に対して2%の印税を支払う。よくある自費出版のように制作費の請求など皆無。無料投稿ということである。
戦友会などのサークルが存在していれば、複数の原稿を掲載し文集のような形で制作する。こういった形で出版できる条件が整うと投稿者を除く一般読者向けに電子書籍とて可能な限り廉価で販売する。又、編集その他に係る経費は頂戴するが、利益が出た場合は簡易製本し、可能な限り各小中学校に寄贈する予定。
編集方針であるが、寄せられた真実の記録は一切編集・校正・デフォルメなどしない。そっくりそのまま、血の通った記録として提示する。当て字があればそのまま。文法的に間違っていてもそのまま。文章道にそれたものでも決して直さない。何故なら、この「思い出紙芝居」は文学でもなく、自伝でもなく、作文でもない。存在するのは嘘偽りのない「魂の叫び」そのものだからだ。いわば、「叫び」の集大成ということになる。
但し、会話・心情はそのままだが、ト書き部分は体験者に詳しく取材し当方で状況描写する場合有り。
この「思い出紙芝居」は、
●いかなる政治的・宗教的・思想的力学など介入する余地の無いものである。「事実は事実だ!」それ以外のなにものでもない。この方針を貫く。
制作者(投稿者)の責任
このような編集方針故に、投稿者は投稿材料に関し、全責任を負わなければならない。デフォルメは絶対許されない。このことを強く胆に銘じていただく。ここに、誰も介入できない真実の記録が誕生する。
◇私の予想では、約一世紀近く経過した事象でも世間に発表することは容易にできないことだらけではなかろうかと考える。ならば、本書提示のような形式で当人だけの記録として作成、保管しておくのが最良かもしれない。それほどに重いテーマである。
制作に関して
本書制作見本では、サンプルとして一場面のみ掲載しているが、場合によっては数枚の場面設定となることもある。内容が緩慢でなければ、ショートストーリとなり、より濃厚な内容が読み手に伝わる筈で大変素晴らしいことではある。
「思い出紙芝居」要約
以上の説明で、このハウツー本の要旨はご理解いただけたと思う。そこで、この企画の要約を掲げる。
■コンセプト
殆ど消えかかっている世界大戦の記録を戦地・内地ともに、その全容はともかく、激動の一端でも後世のために記録に残すこと。
■その手段として、現存する資料から真実偽りのない情景を想起し記録する。
■情報提供者には一切の金銭的負担をかけない。
■情報提供者には、
「この記録は事実に相違ない」
という確認書を署名捺印の上添付して頂く。
■資料(書簡・写真その他)あるいは、記憶をもとに書かれた主として会話文等一切の改変をしない。(原文のまま掲載。但し、ト書は本人の承諾を得てリライトする場合有)
■「思い出紙芝居」の取り扱いであるが、次の二つの方法がある。
一、個々人で厳重保存する。
二、出版希望があれば、山の辺書房かしはら出版編集室で組版し全世界に発信する。
●出版後の資料は山の辺書房かしはら出版編集室にて返却費用を負担し投稿者に返送する。
■出版は「日本語」を原則とするが、状況により「英語版」も予定している。
■過去にただ一度だけ私達のグループで、体験文集「本格製本印刷の戦争体験記」を出版したことがある。内容は多数の貴重な証言となった。 この「思い出紙芝居」も、仮に出版できる環境が整えば、部隊別になるか、年代別になるか、地域別になるかわからないが、いわゆる、幾つもの「紙芝居」が集合する文集形式となる見込。
■本書をお読み頂いて、疑問・質問など遠慮なく書面にてご連絡をお願いする。
くどいようだが、今という時期を逃せば永久に大戦記録は残らないだろう。
■「思い出紙芝居」のような形をとれば、小・中生徒にも、あたかも本物の紙芝居を観るような感じで接してもらえるのではないか。私が「会話」を重視したのもそのためだ。
それぞれがご高齢の方と思うが、この機会を生かし、チャレンジして欲しい。