人には、なぜ思考の焦点があるのか。
ひとにはみななんらかの思考的な焦点があって、それに従って行動している。
ドラッカーではないが、そのためにはなんらかの外部との接触が必要だ。
ドラッカー曰く、変化は外側からやってくる。
孔子曰く、思いて学ばざればすなわち暗く、学びて思わざれば、すなわち危うし。
思考的な焦点をもとめる毎日あって、危うい思考焦点の谷底への転落をふせぐものが、キリスト教やイスラム教、仏教などの宗教の役目でもある。
悪の淵の底に誘惑的なすがたをあらわす、悪の誘いから免れるために、今日一日の終わりに神に感謝するのが古代キリスト教、すなわち聖書の世界である。
しかし、今や一日の終わりなどはなく、日本は、欧米社会の夜に昼であるため、休む暇もない。
なにをしても不安、なにを思っても不安である。
私自身の読書経歴からみて、とくに経済社会を中心とした本を探し出して読むのが趣味のひとつだが、いまや堅実で地味な学問は、大学の経営上邪魔であるらしく、異文化とか多文化とかいうことばがきらめいている学問ばかりである。
まあ、お金もなくなったので、いい本がでないということは読まなくてもいいというところだが、
このブログでは本のことも書いていこうと思っている。