でも、今ここにある幸せということを書くためには、必要なことなのだということも、わかっています。
私が幸せというものを見つけるために、必要な経験だった。
ささいな、取るに足りない経験であっても、とても必要な体験だった。
今、そう思っています。
なぜなら、そうでなければ、こんな小学生のときの小さな体験が、何度もフラッシュバックする理由がわからなくなってしまうからです。
こんなささいな体験を、50年以上も引きずるなんて思いもかけませんでした。
でも、そこにはなにか、必ず意味があるはずです。そのこと自体は、長年の経験から、わかっています。
誰も何の理由もなく、人を傷つけてはいけない。
それは、自分のたましいを、傷つけることになるから。
自分がゆるしても、たましいは決して忘れないから。
今ここで、私の隣にすわり、なんてことのない雑談をしてくれる彼女(私の奥さん)を、うらぎることがなかったことに、感謝するばかりです。
自分が弱い人間であり、短気ですぐ、カーっとなることは、よく知っています。
だから、彼女にひどい言葉をなげつけ、結婚生活が終わったとしても、なんの不思議もありません。
ただ、そうはなりませんでした。
ですから、今ここにある幸せは、私の力でも、努力の結果でもないことは確かなことです。
このことを書いているとき、私のなかに、ある一つの発見がありました。
実は、私の小さなころの愛称がありました。
なぜなのか、わからないのですが、アイクンと呼ばれていました。(私の本当の名前とは、まったく違います。)
このことについて、親から、納得のいく説明は聞いたことがありませんでした。
漢字であれば、愛くん、愛君、英語であれば I 君( I は私という意味ですので、合ってはいるのでしょうが)となります。
子供のころの私が、何気なく口走ったというようなことかなぁと、想像していました。
このブログを書いているとき、(よく私は人の名前をイニシャルで書いていました。)ブログに出てくる(私が傷つけた)友人の名前は、 I 君だなぁと思ったとき。
その瞬間、なぜ、私のあだ名がアイクンだったかという理由がわかったのです。
それは、(何年か後に、このブログに出てくる友人のイニシャルである) I 君という意味であること。
なぜ、50年の間、あのことがフラッシュバックし続けたのか。
今となっては、友人の I 君は、私そのものであったこと。
もちろん、友人の I 君は、今もこの日本のどこかに、ちゃんと存在しているだろうことは、わかっています。(時間経過も逆なのもわかっています。)
それでも、彼は私なのだ。
彼にしたことは、私自身にしたこと。なぜなら、彼は私のもう一人の自分。
この世は、私を主役にした舞台なのだから…
そこに登場する人物は、すべて私というものが映しだされたもののはずなのだから…
変な終わりかたになってしまいましたね。今ここにある幸せ 1~3を終えさせていただきます。いつも読んでいただき、ありがとうございました。