最後に私事であるが、終戦後、毎年6、7月になると、サイパン島内の戦闘や玉砕当時のことが想い出され、一度はサイパン島を訪れて、戦死された方々への霊を慰めに行きたいと考えていたが、昭和44年8月、25年ぶりにその機会をえて妻・井手久美子と二人でサイパン島を訪れた。
幸い当時、日本軍の二等兵として奮戦された、ビセンテ・サブラン市長とサイパン島で警察官として日本陸海軍に協力され、現在は実業家であるゲレロ氏の好意により、島内の261空のたどった道をすべて案内していただいた。
アスリート飛行場、261空戦時治療所付近、高射砲陣地跡、防空トーチカおよびラウラウ湾の要塞砲台跡などを訪れ、さらにタポーチョ山を越え、上田猛虎261空司令が玉砕直前まで戦闘指揮をとられていた、コンクリートで固めた洞窟の戦闘指揮所も訪ねた。
この戦闘指揮所の跡には、現在、その周辺部に島内より集められた、当時の日本軍の野砲、山砲、機銃、戦車などの兵器が多数配置、展示され、激烈なる戦闘と悲壮なる玉砕を物語るものとして、サイパン島を訪れる人々の必ず訪ねる戦跡記念地区となっている。
(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)
徳川おてんば姫(東京キララ社)
幸い当時、日本軍の二等兵として奮戦された、ビセンテ・サブラン市長とサイパン島で警察官として日本陸海軍に協力され、現在は実業家であるゲレロ氏の好意により、島内の261空のたどった道をすべて案内していただいた。
アスリート飛行場、261空戦時治療所付近、高射砲陣地跡、防空トーチカおよびラウラウ湾の要塞砲台跡などを訪れ、さらにタポーチョ山を越え、上田猛虎261空司令が玉砕直前まで戦闘指揮をとられていた、コンクリートで固めた洞窟の戦闘指揮所も訪ねた。
この戦闘指揮所の跡には、現在、その周辺部に島内より集められた、当時の日本軍の野砲、山砲、機銃、戦車などの兵器が多数配置、展示され、激烈なる戦闘と悲壮なる玉砕を物語るものとして、サイパン島を訪れる人々の必ず訪ねる戦跡記念地区となっている。
(父井手次郎の手記を基にしているので、「私」の記載は父井手次郎を指す。)
徳川おてんば姫(東京キララ社)