今の時代、通信機器をはじめとして全てにおいて便利になったとはいえ、人として人間として本当に幸せなのか考えさせられてしまった。
また、毎年6,7,8月頃になると何となく両親とも感慨深げに当時の話していた。
母は、晩年戦記ものの番組をテレビでやっていると、辛い思いがよみがえるのか、そっとチャンネルをかえ時代劇か落語を見ていた。
父は母と一緒になってから、縁というか運命とも言うべき高松宮宣仁親王殿下と直接会うことになる。
殿下は終戦を迎えたときは海軍大佐であった。
大佐といっても、とにかく昭和天皇の弟君。
そんな方から終戦後直接自宅に招かれ、いち海軍軍医中尉としての現地での壮絶な戦いを事細かに問われたのである。
父は戸惑いながらも殿下のご質問にすべてを、お伝えした。
帰宅した父は、”これでサイパン島にて戦死された方々の事が少しでも殿下に伝わった!”と母に感慨深げに話していた。
第二次世界大戦前の日本軍は、ほとんどの戦いに勝っていた。家康公の遺訓にも”勝つことばかり知りて負くることを
知らざれば害その身に至る”と、まさしくであった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
また、毎年6,7,8月頃になると何となく両親とも感慨深げに当時の話していた。
母は、晩年戦記ものの番組をテレビでやっていると、辛い思いがよみがえるのか、そっとチャンネルをかえ時代劇か落語を見ていた。
父は母と一緒になってから、縁というか運命とも言うべき高松宮宣仁親王殿下と直接会うことになる。
殿下は終戦を迎えたときは海軍大佐であった。
大佐といっても、とにかく昭和天皇の弟君。
そんな方から終戦後直接自宅に招かれ、いち海軍軍医中尉としての現地での壮絶な戦いを事細かに問われたのである。
父は戸惑いながらも殿下のご質問にすべてを、お伝えした。
帰宅した父は、”これでサイパン島にて戦死された方々の事が少しでも殿下に伝わった!”と母に感慨深げに話していた。
第二次世界大戦前の日本軍は、ほとんどの戦いに勝っていた。家康公の遺訓にも”勝つことばかり知りて負くることを
知らざれば害その身に至る”と、まさしくであった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)