私の母久美子は、私達にとても厳しかった。
その調子で慶朝にもよく小言を言っていた。
彼は私の母の事がとても嫌いだった。
晩年の彼はほとんどの親族と接することを拒んだ。
その中で姪の美喜には心を開き、食事をしたり、お酒を飲んでいた。
慶朝が亡くなる前に遺言書を書いていた。
彼の全ての財産と慶喜公の資料を山岸美喜に託すと・・・・
よほど美喜には全幅の信頼を寄せていたのであろう。
慶朝の葬儀は茨城の地元で行われ最後まで美喜が色々手配をした。
私は高齢の母もいたため、葬儀には参列出来なかった。
翌年の7月私の母が95歳で天寿を全うした。
これで慶喜家の孫は全員居なくなった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
その調子で慶朝にもよく小言を言っていた。
彼は私の母の事がとても嫌いだった。
晩年の彼はほとんどの親族と接することを拒んだ。
その中で姪の美喜には心を開き、食事をしたり、お酒を飲んでいた。
慶朝が亡くなる前に遺言書を書いていた。
彼の全ての財産と慶喜公の資料を山岸美喜に託すと・・・・
よほど美喜には全幅の信頼を寄せていたのであろう。
慶朝の葬儀は茨城の地元で行われ最後まで美喜が色々手配をした。
私は高齢の母もいたため、葬儀には参列出来なかった。
翌年の7月私の母が95歳で天寿を全うした。
これで慶喜家の孫は全員居なくなった。
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