徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

私・井手純~手術①~

2020-01-20 05:00:00 | 日記
心筋梗塞・脳梗塞にならぶ足梗塞の怖さ。
68歳にして人生初の入院と手術体験。
日本で最近とくに注目されているのが足梗塞。
原因として基本的には動脈硬化。
動脈に血栓が詰まり血液が流れにくくなり、ひどくなるとかなりの痛みを伴いまったく歩けなくなる。
上半身(心臓、脳)に血栓が飛べば、麻痺やひどいときは死に至る。
下半身に血栓が詰まるとひどければ壊死を起こし切断に至ることもあると言う。
私は68歳なかばにしてその足梗塞を体験をした。
その時の実体験を書き残しておこうと思う。
私は2019年6月ごろから足が痛くなり、最初は右足。
買い物に出て20歩ほど歩くと脹脛が異様に痛くなり、休まないと進めなくなった。
息切れもひどくなり休み休み歩いていた。
今までに無かった状況に焦っていた。
行きつけのクリニックで診てもらうと薬を出してくれた。
すると幾らか楽になったが、暫くすると今度は左足が同じ様になり、とにかく20歩も歩けなくなり激痛が走りだした。
また同じクリニックに行くと、医師に、ここでは手に負えないと言われ、循環器の病院を紹介してもらった。
その頃は、杖を使わないと歩けなかった。

姪・山岸美喜~24年ぶりの再会⑤~

2020-01-09 05:00:00 | 日記
姪の美喜からは晩年の慶朝のことを色々聞いた。
慶朝の住んでいたひたちなか市の自宅にも案内された。
慶朝が晩年お世話になったサザコーヒーの鈴木会長にもお会いし、そこでも色々な逸話を聞くことが出来た。

”徳川慶朝”という重い名前を背負い現代の世界で生きてきた彼の苦悩は大変なものであったと思い知った。
他にもたくさん徳川を名乗る方々はおられるが、それぞれにその名前の重さを痛感しているのだと感じている。

私などは”井手”を名乗り(勿論、井手家も由緒ある家ではあるが、さすがに徳川家とはその重さは比較にならないもので)やりたい事をやりこちらから言わない限りは誰も気が付かないのであった。

姪の美喜はまさに男勝りというか、とにかく行動力のある人で趣味も多彩で、料理、ゴルフ(シングルハンディ)、クラッシック音楽のプロデュース、また自分で幾つかの楽器を演奏するといったなかなかのもので感心した。
今回の慶喜家を閉じる重責も本人は苦しみながらもとにかく何事も前向きで頑張ってくれている。
同じルーツを持つ私としては頭の下がる思いである。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

姪・山岸美喜~24年ぶりの再会④~

2020-01-06 05:00:00 | 日記
美喜のご主人はとても寛大なかたで、彼の援助の上に彼女の行動は成り立っているのだと思う。
美喜と同じく慶喜公の血を受け継ぐものとしてはこれ程ありがたいことはないと感謝している。

姪の美喜とは前にも述べたが、24年の空白があった。
その間お互いにいろいろな事があり、特に私のことは彼女に言わせると”井手のおじちゃまには近づかないのがいい”と周りから言われており、再会した時もかなり警戒していたと言っていた。
これについて私としては全く弁解の余地がなく、認めざるを得ないのである。

60数年前には年末から年始にかけては毎年恒例行事が高輪の高松宮邸でおこなわれていた。
40数年前からは姪の美喜も参加し毎年宮邸での同じ空気を感じさせて頂いた。
その感覚は彼女と話していると次から次へと思い出が湧き出てきていつまでも会話がつきなかった。

12月26日は喜久子妃殿下のお誕生日、この日にはホテルオークラより素晴らしい大きなショートケーキが届き、それをみんなで一緒に頂いたことや、大晦日にはNHKの紅白歌合戦を両殿下とご一緒に見させて頂き、お正月には沢山のみたこともないおせち料理、1月3日は殿下の御誕辰日。
とまあ暮れから大忙し(忙しかったのは母たちであったのだが)だった。
そんな思い出話を美喜と二人でいつまでもしていた。

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姪・山岸美喜~24年ぶりの再会③~

2020-01-02 05:00:00 | 日記
2019年6月29日国際仏教大学(文京区小石川にあり、慶喜公の終焉の地であり、私の母も生まれ育ったところ)にて毎年恒例の講演会があった。
数年前に慶朝も私の母も講演させて頂いた。
そこで24年ぶりに姪の美喜に偶然にも再会する事が出来た。

その日を境に姪の美喜と何度も電話で話すようになり、慶朝のことを色々聞くことが出来た。
2019年慶朝の二年祭の折参列させてもらった。
後日慶喜公の弟である徳川昭武の住んでいた松戸市の戸定邸にて美喜と二人で婦人公論のインタビューを受けさせてもらった。(10月8日号)

fujinkoron.jp/articles/-/963

姪の美喜は慶朝から受け継いだ事をとても重く感じており、女の自分がこの後どのようにして動けばよいのか悩みぬいた。
まして山岸家に嫁いだ身として徳川を名乗っていない自分がどこまで慶朝の意思をつげるのかそれは不安であったと思う。

しかし彼女は意を決して自分が慶喜家5代目として綺麗に家を閉じることを決意した。
しなければならない事は山積みであった。
谷中のお墓の事、慶朝の住んでいた家のこと、慶朝が大切に管理していた膨大な慶喜公の資料等々。
他にも問題は多々あった。
相談できる親族はほとんどおらず2年程は一人で勉強をし、苦悩の日々であった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

姪・山岸美喜~24年ぶりの再会②~

2020-01-01 05:00:00 | 日記
私の母久美子は、私達にとても厳しかった。
その調子で慶朝にもよく小言を言っていた。
彼は私の母の事がとても嫌いだった。
晩年の彼はほとんどの親族と接することを拒んだ。
その中で姪の美喜には心を開き、食事をしたり、お酒を飲んでいた。

慶朝が亡くなる前に遺言書を書いていた。
彼の全ての財産と慶喜公の資料を山岸美喜に託すと・・・・
よほど美喜には全幅の信頼を寄せていたのであろう。

慶朝の葬儀は茨城の地元で行われ最後まで美喜が色々手配をした。
私は高齢の母もいたため、葬儀には参列出来なかった。
翌年の7月私の母が95歳で天寿を全うした。
これで慶喜家の孫は全員居なくなった。
徳川おてんば姫(東京キララ社)