★ L (スペースエル) 体を通して人の全体と向き合うサロン 目の前は淡路島の海 女性専用ボディーセラピー

このブログを見つけてくださってありがとうございます。
わたしたちを巡り合わせてくれたすべてに感謝致します。

祈る肋骨、照らす胸骨

2014-08-02 11:57:01 | 意識とからだ

わたしは言いたい、絵心と真心は比例しない、と。
9月のご予約は満席となりました。早々のご予約ありがとうございました。

ボディセラピーは、見えない領域の身体に働きかけますが、
だからといって肉体を置き去りにするのではありません。
深い層に働きかければ、必ずそれは肉体にも反映されます。

肉体は、あなた自身ではないけれど、
あなたの真の意識を象る、素晴らしい内視鏡です。

たとえば、「ありがとうございます」 と
あなたが全身全霊で手を合わせた時、あるいは、あなたに真の祈りが起きた時、
あなたの肉体内部でも、同じ現象が起きています。

そのとき、肋骨すべてが、胸の内で手を合わせています。
たとえあなたが実際に手を合わせていなくても、
あなたの真からの感謝の意識は、あなたの体全体を
ありがとうそのものの容 (かたち) にしているのです。



20歳長女作 「禁断の恥骨」


肋骨は、肉体内部の腕です。
その腕は、かまじいや千手観音様のように数本あり、
あなたの一つ一つの背骨から始まって、胸の前で常に合掌しています。
胸の真ん中を触ると、ごつ硬い板のような骨が分かると思いますが、
それが、肋骨が合掌することでできた胸骨です。
どうぞイメージで、もう一度肋骨の合掌をほどき、
最初の背骨から始め、胸の前で合掌し直してみてください。

合掌部分は、左右の手のひらがぴったり合わさっているでしょうか?
一本一本の指先までしゃんとして、天を仰いでいるでしょうか?
あらためて、あなたの意識が伴った合掌を、胸のなかに創り出しましょう。
これだけでハートが整います。呼吸が整います。自然に感謝や祈りが起きます。




合掌部分 (胸骨) は、まるで女優さんの顏を明るく照らすキャッチライトのように、
肋骨つまりは背骨から伝導されるエネルギーを集結して放射するパネルとなり、
あなたの全身を、とくにお顔の頬骨あたりを神々しく照らしています。
不思議なことですが、胸骨は顏の下にあるのに、
その胸骨パネルからの放射光は、なぜか頬骨の上のほうへ降り注いでいます。
(ちょっとだけ言うと、胸骨は頬骨とシンクロしているのです)

肋骨は、合掌もしますし、拍手もします。
漫才のように 「もうええわ」 もすれば 「シェー!」 もします。
腕組みしているときは、エネルギーラインがくにゅっと曲がって絡まっていますし、
お手上げのように、てのひらを返して物事を放り投げたかに見せて
実はしっかり受け入れ態勢をとっていることもあります。

あなたの肉体は、あなたの真の意識を象って、今ここに結実しています。




肋骨を伝って背骨からのエネルギーが体前方へと運ばれ、
そのエネルギーは胸骨へと集結していく。
手足についても、両手を合わせることで、足を重ねることで、
重なった部分に胸骨のようなエネルギー集中板が形成される。
足を組んで座るとき、身体の土台エネルギーは 8の字に旋回し安定する。

以上は、医学書や何らかの学問から得た知識ではありません。
今の段階でのわたしの受信力で、実際に体から受け取ったことです。
これが、わたし以外の方にとって真実か否かは分かりません。
わたしにとっても、この先ずっとわたしの真実であり続けるかどうかは未知です。
が今は、これがその未知のほうへ導いてくれるひとかけらの真実だと信じています。

みんなそれぞれのポジションから、真実の方向へ向かっていくのでしょう。
真実は自ら見出すもの。教えられるものではないですもんね。
わたしにとっての真実が、
あなたご自身の未知なる真実にアクセスする、一つのきっかけになれば幸いです。
ありがとうございました。

セルフケアの意義

2014-05-20 11:08:03 | 意識とからだ


セルフケアは、効果つまり結果を得るのが目的ではありません。それは意識せずとも、実践していれば自然にそうなってくることです。それをあえて意図的に 「これでこういう結果を出してやるぞ」 で行うのは、セルフケアではなく、単なる我欲、わがままです。

セルフケアの真の目的は、それをやっているときの体の内側の感覚を丹念に味わうことです。セルフケアを通して、身も心も、今ここにグラウンディングさせるということそれ自体が、心身に最大最高の結果をもたらし、身体のセンサーが研ぎ澄まされ、自然と、身体に潜在する莫大なエネルギーを扱えるようになります。

「今わたしの内側で、何が起きているのか」、自分自身の変化にたえず関心をもって、セルフケアを行いましょう。

ここで一つ、具体的なセルフケアをご紹介しますね。普段無意識に繰り返している呼吸が、ちょっとした実践で、身体の能力を多大に引き出す生理作用になります。




健康な人の場合、左右の鼻の孔 (あな) から常に均等に空気を吸っているのではなく、どちらか片方の孔での呼吸が優位となっています。それが約 2時間ごとに切り替わって、今まで左の鼻孔優先で呼吸していたのが、今度は右の鼻孔優先で呼吸するようになる、というふうに繰り返されています。

左の鼻孔は、陰のエネルギーを優位にして右脳を活発にします。右の鼻孔は、陽のエネルギーを優位にして左脳を活発にします。
ボディセラピーを施術する時などは、左の鼻孔優位で呼吸するようにすると、身体波動や体の声など、精妙な領域の知覚が可能になります。
会話するときは、右の鼻孔優位にするとコミュニケーションがスムーズになります。ちなみに食後は、右の鼻孔優位にして数分休息すると消化吸収を助けてくれます。

また、血管を広げて血流を増やす作用のある一酸化窒素は、鼻の粘膜でも作られており、口を閉じた状態で呼吸をすれば体内に取りこめることが分かっています。それを、さらに片側の鼻だけで呼吸をすれば、効果的に濃度の高い一酸化窒素を体内に取り込むことができるのです。

片鼻呼吸の意識化は、肉体面だけでなく、感情面にも素晴らしい影響を及ぼしてくれます。鼻孔の右か左か、肉体の単なるクセで、空気を取り込む量に違いがある場合、取り込む量の多いほうの鼻孔に合わせ、もう片方の鼻孔での取り込みを調整していきます。
すると次第に、普段の両方の鼻孔で繰り返される呼吸量も調整されていきます。結果、呼吸による調整システムが働き、両鼻で穏やかに安定した呼吸をしているだけで、筋肉繊維、神経システム、心、の 3つのレベルでリラックスがはかられるようになります。

「片鼻呼吸」 のやり方はインターネットなどでもたくさんとり上げられていますので、きいたことがある方もいらっしゃると思います。
やり方は単純です。鼻の孔 (あな) を指で塞いで、右・左と片方の鼻孔で交互に呼吸を繰り返すだけです。片方の鼻孔をふさぐ際は、指に力が入って鼻筋が曲がらないよう注意してください。

1.まず両鼻で息を吸ったあと、指で両鼻孔をふさぎます。
2.どちらか片方の指を緩めて鼻孔をあけ、吐き出して、吸う。
3.再び指で両鼻孔をふさぎます。
4.反対側の指を緩めて鼻孔をあけ、吐き出して、吸う。
5.以上を繰り返す

行う時は、延髄をしっかり伸ばします (アゴを引くと同時に、後頭部の首の付け根あたりを伸ばす)。アゴを引く、というと、顏をまるごと下に向ける方がいらっしゃいますが、アゴを引くとき、頬骨の高さは必ずそのままの位置に保ってください。そうするとお顔が微笑みの表情になります。その微笑を保ったまま、片鼻呼吸も、そして普段の呼吸も行って参りましょうね。

片鼻呼吸は、朝起きて、往復 3呼吸繰り返すだけでOKです。長くダラダラやっても意味はありません。
たったこれだけの実践で、普段の呼吸の質が大きく変わります。あなたがわざわざ 「輝こう!」 と意図しなくても、ただ呼吸しているだけで、あなたは自然に輝き続けてしまいます。

「今わたしの内側で、何が起きているのか」、自分自身の変化にたえず関心をもって、実践あるのみです。


呼吸は愛の息吹き

2014-04-21 22:13:30 | 意識とからだ


息を吐くときに、邪気や老廃物や汚れを吐き出すというようなイメージはしないでください。
「与えるものが与えられる」 の宇宙の摂理通り、それはやがて自分の元に返ってきます。
倍返しで。




生体活動において、何一つ不浄な現象は起きません、不調和も起こりません。
なぜなら生命とは、必ず調和の方向に向かうからです。
ヒトであれ何であれ、あらゆる生命体が行う活動のすべては、
他を生かし他に生かされるための調和の行為です。

たとえば呼吸においては、
あなたが吐き出した二酸化炭素を、植物が受け取って生体活動を繰り広げます。
そして植物が吐き出した酸素を、あなたが受け取って生体活動を行います。




このような授受の関係を大まかに分けると、
息を吸ったり何かを食べたりする摂取活動は、
他を自分に調和させる (他にいかされる) 生体活動であり、
息を吐いたり汗をかいたり排便排尿などの排泄活動は、
他へ自分を与える (他を生かす) 生体活動といえます。




一呼吸、一呼吸、一思い、一思い、
ご自身を通過するすべての出入りに対して、責任と自覚を持っていてください。
身体の内から起こる息吹きを、愛を込めて、この世界へ送り出しましょう。

お読みいただき、ありがとうございました。



女性の体の魅力

2014-04-17 15:14:41 | 意識とからだ

淡路島の高速道路から見える砂浜地帯に ★ L があります。


男性の体は、筋肉をいかに活性化して機能的にまとうかがテーマです。
これは、男たるものという偏見や外見上の主張ではありません。
肉体改善を決意した男性の多くが、無意識にこだわるのが筋肉ですね。
なぜでしょう。

それは、男性が備え持つ創造力とひらめきを最大限に発揮させる上で、
筋肉はとても重要なものだということを、その魂が覚っているからです。
「理由はない、ただなんとなく、でも無性に、鍛えたいと思うんだ」
筋肉に惹かれるのは、男性意識を持って生まれた魂の、魂からの希求です。

医学にしても社会にしても、少し前まで男性主流でしたから、
そういう時代には、男性美の象徴ともいえる筋肉の探求が盛んでした。
おかげで今の時代、肉体的な筋肉についての理解や鍛錬方法は
広く一般社会に浸透しています。



2014.04.16.の月

女性の体は、脂肪をいかに美しくまとうかがテーマです。
女のカンは鋭いとか、他人や空間の波動キャッチに長けているのは、
脂肪という形で、女体に備え持たされた能力ゆえです。
脂肪は、言語を超えた交信能力を最大限に発揮させる上で
とても重要な役割を果たしています。

「ここはクビれ、ここは膨らみ、お肌はプルプルがいいのよ」
人それぞれに思い描く、美的ラインがあるでしょう。
審美眼の鋭さも、女性として生を享けた魂が為せる業です。

が、体型が細かろうが太かろうが、肌の状態がどうであろうが、
その女性の持てる能力が影響をうけることはありません。
大切なのは、脂肪細胞が活性化しているかどうかです。

筋肉を活性することに意義がある男性と違い、
女性は、脂肪を活性化してバランスよく身に着けるために、
いかに筋肉や骨格を整えるか、そこが重要になってきます。

そして筋トレや整骨に並んで、強力な脂肪変容効果をもたらすのが、
オイルを使用し、途切れずなめらかなロングストロークで
羽根のような優しいタッチで行うボディセラピーです。
脂肪は、意識をもって働きかければすぐに反応します。
すぐに移動します。すぐに変化します。そして活性化し覚醒します。



★ L の目の前に広がる淡路島・東浦の海


自宅で行うセルフケアでも、たまには手の届く範囲にオイルを使い、
体の上を滑るようになめらかに手を動かし、
その手の動きに意識を合わせてみましょう。
あくまでソフトタッチで、全身の繋がりを感じながら行います。

骨は磁気を発生させ、筋肉は電気を起こし、
脂肪はいったん絶縁して周囲とのエリア分けをしてくれます。
それぞれに圧の強さや手技などが異なり、
細かいことを書けばキリがなくなりますので、
まずは、触れた感触の違いが分かればいいくらいの気持ちで、
医学知識やどこかで仕入れた健康常識をすべてはずし
ゆっくりたっぷり、女体という身体空間を漂流してみましょう。

その身に活性化した脂肪をたたえ、
あなたの内側から、真に麗しい魂の美が溢れ出ますように。
そして、
今これをお読みいただいているディスプレイも、
ピカピカに美しくなりますように。
ありがとうございました。



黒いとホコリがよく見えますね

本気のつもり

2013-09-25 00:38:07 | 意識とからだ


たとえば、いつもと違う体勢をとってジーっとしていて、
「なんか気持ち悪いな~」 と感じたとします。
この 「なんか気持ち悪い」 という感覚は、
一体誰が、何が、気持ち悪いと感じているんでしょう?

実際に気持ち悪い体験をしているのは、何ですか?
身体のなかですか? 外側ですか?
骨ですか? 筋肉ですか? それとも血管、神経、脳ですか? 

そうやって具体的に突き詰めると、結局なんにも分からなくなるのに、
身体の具合がいつもと違うとき、その違和感を、
「骨が歪んでいるから」 とか 「筋肉が縮んでいるから」 とか
「内臓が圧迫されているから」 と、知識の範囲内で判断して、
時には病院でレントゲン撮ってみたりお薬を飲んだり。
それで人は、調整している 「つもり」 になります。

ほんとうの不思議はそこからで、
そうやって自分なりに対処して、調整したつもりになった人は、
ほんとに必ず調整されていくんです。

もちろん、こんなので治るの? という疑いが、
自分のなかにあることを見て見ぬふりをした 「つもり」 じゃなくて、
心底疑いのない、本気の 「調整したつもり」 であることが大前提です。

そのつもりになった意識に、お体さんがまるごと同調してくれて、
実際にそういう現象を実現しているという...。
意識ひとつで。素晴らしいですよね。

自分の 「つもり」 一つで、
身体も、目の前の現実もどんどん変わっていきます。
「つもり」 を本気モードにして、
「つもり」 がどんな現実を創りだすか、楽しんで参りましょう。
本気のつもりは、宇宙を動かします。

ありがとうございました。

潜在力のルール

2011-04-14 01:13:31 | 意識とからだ

母玉サロンの前にひろがる須磨浜 左手の建物は須磨海浜水族園

人はそれを引き起こすことができます。
たとえ現代の科学や医学で説明できない現象だとしても。

ありがとう、と、心の底からご自身を抱きしめた時、
あなたの身体の内側で、何が起こるでしょう。
唾液は妙薬に変化し、細胞は喜びに打ち震え、
その振動が全身に波及します。

科学で証明できない能力は使ってはいけない、
そんなルールは、この世のどこにもありません。
ご自身の潜在力を、使いこなしていいんです。



母玉サロンの前にひろがる須磨海岸

命をいただいて

2010-06-25 19:13:21 | 意識とからだ



30万頭もの牛や豚が、生きている光景と死んでいる光景。
たった数週間で、現実にそれが起きたという事実。
口蹄疫。
牛さんや豚さん、そして彼らを養っておられた酪農家の方々へ、
心からお見舞い申し上げます。

肉食がいい悪いという話は置いといて。

酪農家さんは、自分が世話した牛や豚が、
最終的には人の口へ入り、人の命を支えるものになると
重々心得ておられます。
生前、幸せに生きた命こそが、良質の提供物になると信じ、
彼らの命を絶つその時まで、食用ではなく牛や豚として扱い、
酪農家として、日々、牛や豚の生を支え、
家族同様に愛情をかけ養っていたことでしょう。

その牛や豚が、目の前で殺処分される、
泣く泣く受け入れるしかない酪農家の方々のご心痛を思うと、
とても胸が痛みます。
わたしにしても、もしも家族同様に飼っている犬が、
行政処分されることになったら・・・
そう思うと、もう、もう、何も言葉が出てきません。
酪農家さんにとって今回の出来事は、
生活もでしょうが、精神的にかなりの大打撃でしょう。
どうか今の苦境が、内なる魂までも乱すことがありませんように。


陥りやすいことですが、人間は、
食用というモノをいただいて生きているのではありません。
牛や豚の、命をいただいて生きています。

今回、殺処分になった数十万頭の牛や豚の命も、
やっぱりわたしたちがいただいています。
口に入るものだけが、いただいた命じゃぁない。
今さらながら、その命について、
どういう繋がりがあったかを感じています。
牛さん、豚さん、ありがとう。ありがとうございました。

大切な他

2010-04-15 08:00:46 | 意識とからだ

母玉サロンの目の前にある須磨海岸

身体は、知れば知るほど叡智の宝庫。
複雑かつ繊細な身体の仕組みに触れるたび、
逆に施術は、どんどんシンプルになっていきます。

足裏や手、顔面が、全身を反映しているように、
また、普段の何気ない行為が人生に反映するように、
部分にすべてが映し出され、
すべては部分を合算した以上の存在。

一人ひとり、肉体に現れる現象は違っていても、
対処すべきことは、結局一つです。
それは、バランスとコネクト。
あ、二つでした。

バランスは、他とつり合おうとする働き。
コネクトは、他との繋がり。
この 「他」 という言葉のなかには、
臓器や脳、筋肉、骨などの肉体の器官だけでなく、
過去・現在・未来、自分を取り巻く空間なども含まれます。
もっというと、感情、心、精神、意識、ソウル、
そんなものも含んでいます。
すべては繋がり、互いにつり合おうとしながら変化しています。



初めてのお客様は、↑こちら 1階ロビーまでお迎えにあがります。

母玉サロンまでの道中は、ぜひ時間の気遣いを忘れ、
ご自身と繋がっている 「他」 を楽しまれてくださいね。
そこにある空気、自分を支えるアスファルト、
道に咲く花、行き交う人、車窓からの風景、
ふと胸をよぎる思い出なども、大切な 「他」 です。
緩やかな時の流れに身を任せて、
「他」 との繋がりを確かめていただけたらわたしも嬉しいです。

母玉サロンを目指し行動し始めた瞬間から、
お客様自身によるトータル・バランシング &コネクティングは始まっています。
大切な 「他」 とご一緒に、母玉サロンにおいでくださいませ。

ベクトルの変化

2010-02-08 08:38:36 | 意識とからだ

2010.02.07. の須磨海岸

節分を境に、エネルギーが変わりましたね。
それも、じわじわっとした緩やかな変化ではなく、
その日を境に、パっと変わりました。
ここ須磨海岸を伝う空気のなかにも、
そして身体の内にも、明らかな違いを感じます。

冬から春のモードへと、
クローズからオープンへと、
インからアウトへと、
エネルギーのベクトルが変化した

というような変化は、
毎年の節分の顕著なところですが、
今年はそれ以上に、なんていうか、
この変化を画質にたとえると、画素数が上がって、
粗かった画質がより細かくなって、
一つ一つの物事を、より鮮明に映し出している...
そんな、くっきりした質の変化も感じます。
それも、ただ鮮明になっただけじゃなく、
何かがとても高速で動き出したような感覚です。

とはいえ、大阪から須磨海岸へ移って間もないので
わたしが感じているそのものが変化したのではなく、
わたし自身が感じ得る量 (?) が
変わっただけなのかもしれません。

身体をかまうのに絶好の時期がやってきます。
腎臓や皮膚からの排泄機能や、小腸の吸収機能など
身体じゅうの各機関が、外へ向けて、
また、外との強力な繋がりを求めて動き出します。
これからの季節、身体はますます
外からの刺激を受け入れたがるようになるでしょう。
冬篭りの身体に、優しい目覚めを促すように、
セルフケアを心がけたいものですね。

捨てるのか 託すのか

2010-01-18 07:33:24 | 意識とからだ


こちら神戸では、阪神淡路大震災 1.17 メモリアルのイベントが、
各地で執り行われました。
娘たちの小学校も、休日を返上しての参観日。
防災訓練や炊き出しが実施されました。

寒空の下、校庭で、湯気立つすいとんをすすった途端、
15年来の被災者の叫びが聞こえるとともに、
今日の震災ハイチの、悲嘆と混乱に染まる人々の姿が思い浮かび
胸が締め付けられました。

人は、まさに死ぬその瞬間まで、生きています。
死は、人生の最後の、ほんの一瞬の出来事にすぎません。
心身が凍りつくほどの苦境に遭遇してもなお、
死ぬまで生きなければならない厳しさ。
その厳しさをかみしめ耐え忍んでいる人たちへ、
このあったかいすいとんを届けられたなら...と、
つい涙してしまい、食べあげるのに随分時間がかかってしまいました。

どうか、その魂までもが、苦難にのみこまれてしまいませんように。
たとえ ”暮らす” 場を失っても、
”生きる” 場は、失くしてはいないということを
どうか、忘れてしまうことがありませんように。



2010年1月16日の須磨浜

人は死ぬとき、何もかもを捨てていくわけではありません。
たとえば肉体やお金、家という空間や誰かとの絆、
大切な人たちとの思い出、その他すべてを、
後に遺していく人たちへ託して逝きます。

わたし達は、誰かが捨てていったもののなかで生きているのではありません。
先人達が託してくれたもののなかで、生きているということ。
だからわたしも、自分が死ぬその時まで、
自分に授けられたものを、大切に大切に、扱って生きていこう、
と、すいとんを食べる間に心しました。

今授かっているものが、この世界限りのものだとしても、
どうせ死ぬときには持っていけないのだからといって、
投げやりに扱っていいようなものは何一つありません。
この世界でのみ授かれるものなのなら、
せめてこの世界に存在している間は大切にさせていただきましょう。
やがて死ぬときが来た時、堂々と誰かに託していけるように。

頭皮ケアの圧と頭蓋骨矯正

2010-01-05 23:33:51 | 意識とからだ



最近は、あなたも小顔になれる! な呼び込みで
頭蓋骨矯正を行うサロンも多いですね。

頭蓋骨矯正を、わたしが初めて受けたのは20世紀でした。
当時は、顔の表面に重点を置くエステが多く、
頭蓋骨の矯正? なにそれ、という反応が大半でした。
わたしは、顔の内側に働きかけるそのスタンスが気に入って
頭蓋骨矯正を受けました。
クドいですけど 20世紀に。

施術者は 30代前半の女性で、
どこぞの外国で修養した、という触れ込み。
ベッドに仰向けになるとすぐに、ほぐしなど一切なしで、
いきなり頭の骨にグイグイと強い圧がかけられました。
ものすごく痛かったのですが、少し遠慮して
「少し痛いです」 というと
今度は角度を変えて、やっぱり強い圧でグイグイ。
延々その繰り返しでした。

翌日、頭蓋骨まんべんなくアタックされた状態になりました。
頭痛がひどく、首も腫れててまわりません。
近くの整骨院で、頭や首付近を優しくほぐすように
15分ほどマッサージしてもらうと、
頭皮のぶよぶよはなくなり、頭痛も解消しました。
今この年になって、ボケたことした時ふと思います。
あの時、なんかモレたんじゃないかって。


頭皮のセルフケアが流行っていますね。
頭皮マッサージのやり方は多くの方がご存知でしょうが、
そのマッサージ 「圧」 に関してはどうでしょう。
”気持ちよい強さ”、もちろんそれでいいのですが、
「圧は強ければ強いほどいい」 と思い込んでる方はいませんか。
頭皮マッサージは、顔のツボを圧す時と同じ程度の圧で十分です。

頭皮ケアでは、決して骨に重圧がかからないように注意しましょう。
ちなみに、わたしが行う整顔オステオパシー (頭蓋骨矯正) は
5gほどの圧で、かろうじて圧を感じる程度の微弱なものです。

頭皮マッサージなどで、頭皮をいきすぎて骨に重圧がかかると
24枚の頭蓋骨のバランスにも影響します。
とはいえ、睡眠時横になれば頭のいろんな部分に圧がかかりますし、
頭蓋骨自身、呼吸していて、常にわずかに開閉しています。
多少のゆがみは自力で矯正できるので、
そんなに神経質にならなくてもいいのですが、
くれぐれも、圧をかけすぎないようお気をつけくださいね。

世俗とは無縁のところ

2010-01-04 16:10:55 | 意識とからだ



お正月や夏祭りなどで、広告や看板が多い神社を見ると、
それぐらい地域の人や企業に厚く支えられているんだろうなぁと
感心します。

ただ、生田神社の数連なる看板群を見たときは、
あまりの看板の大きさに「え・えーっ」と驚きました。
そりゃもう、鳥居を乗っ取るほどのド迫力でしたから。
でもすぐにユーモラスな感じがしてきて。
こういうの、キライじゃないなと、思った自分を笑えました。


暮らしそのものがスピリチュアルなんだということを
常々訴えている (か?) わたしとしては、
この光景を見て、暮らしとスピリチュアルが
手を取り合ったような嬉しさを覚えました。

がその反面、
暮らしの中の、特に経済面とスピリチュアルが手を組むには、
まだまだ人の意識がついてこないのでは? という
懸念も湧きました。

「こんなところにまで金儲け主義が入り込んで」
「世の中なんだかんだ言ったって、結局金次第ってことか」
などと解釈されかねないからです。
所狭しとぶらさがる商業看板群をくぐりながら
「神社ってそういうとこなん?」 と疑問を持つ人は
まだまだ多いのではないでしょうか。

「この人が、私には必要だ」
「これがあるおかげで、この町は活気がある」
純粋に、心から純粋に、誰かや何かの存在をありがたいと感じた時
人は、その誰かなり何かなりをサポートしたい、支持したいと思い、
実際にそうします。
それは人間として当然の衝動でしょう。
愛や感謝の気持ちが、形となって顕れた行為といえるでしょう。

それと同じように、生田神社や大丸さん他広告主さんの結びつきも、
人と人との純粋な行為と見なして考えてみると、
ある程度納得がいくのではないでしょうか。
神社と商業という、暮らしにおけるポジションこそ違えど、
各々が各々の特性でもって、人々の暮らしに貢献しています。
神社と広告主さんは、互いの存在価値を認め合い、
お互いにエンパワーメントしあえる良き間柄といえるでしょう。

企業=儲け主義、神社=世俗とは無縁のところ。
わたし達は、そのような偏見をそろそろ
しぼませていい頃だと思います。
世俗 (暮らし) のなかにこそ、スピリチュアルな意識は必要ですし
儲けることの先には、儲けたお金でもっと社会貢献したいという
愛が潜んでいます。

金がものを言う時代、ではもうありません。
お互いの存在価値を認め合い、偏見や垣根を取り払って
手を繋いでいくのが今の世の中です。
そう宣言するのはまだ早いかもしれませんが、
確かに今の時代、その方向に確実に、進んでいます。





ところで、
『世俗とは無縁のところ』 とは、一体どういうところでしょう?
そこは、死ぬところでもなければ、生きていく場所でもありません。
死んでもいないし生きてもいないところ。
死でも生でもないところ。
『世俗と無縁のところ』 とはつまり、
生死に関わらず、ずっと続いていくもののことを指すのでしょう。
ならばそれは、自分のなかにしか存在し得ません。

神社仏閣あるいはパワースポットなどは、
自分の内に向かうためのスイッチ的役割は担えるかもしれませんが、
神社仏閣そのものが、世俗とは無縁のところには成り得ないのです。
積極的に人々の暮らしと関わり合いながら、
『人の内にある、世俗と無縁のところ』 を揺さぶる、
そんな神社が増えていってほしいと、わたしは思います。


今ここに、有り余るほどの澄んだ水があるとして。
その澄んだ水を、澄みきった川に足したとしても
何ら変化はありません。
澄んだ水は、濁った川に足してこそ、その役割が担えます。
( が、注ぎ方次第では、濁った川底をさらに刺激して
  ますます濁らせてしまうこともあるので、注意が必要です)

澄んだ水は、あなたの内にある 『世俗とは無縁のところ』 より
絶えることなく湧き出ています。
その澄んだ水を、あなたの日々の暮らしのなかに注いでいきましょう。
暮らしそのものが、スピリチュアルです。

それぞれの元旦

2010-01-02 00:00:00 | 意識とからだ

2010年 元旦撮影 神戸市須磨区 綱敷 (つなしき) 天満宮


元旦の昨日。
近所の綱敷天満宮は、初詣客で大賑わいでした。
長い行列を作って、参拝の順番を待つ人たちの胸元あたりには、
上空の青空以上に清清しいものが溢れていました。
わたしたち家族は、参拝の列には並ばず、
境内に溢れる祝賀と希望の空気をご馳走になりました。

こちらの天満宮には、つい先日も家族で伺ったばかりです。
この地への新参のご挨拶に伺わせていただきました。
その時にも同じような感覚を覚えたのですが、
こじんまりした敷地内のそこかしこに清楚な空気が溢れており、
呼吸のたびに、胸の奥がさらに奥の方へと広がっていきます。
天地を通して、ここの敷地の上空だけ
スポット的に晴れ渡っているような感覚さえ覚えます。
木々たちも元気よく、ウェルカムでとてもフレンドリー。
須磨海岸に続く、わたしの好きな場所になりそうです。



2010年 元旦の須磨浜


人生は積み重ねが大事、とよくいわれますが
時と場合によっては、その積み重ねてきたものが、
手かせ足かせとなって、人を苦しめることがあります。
また、大切に積み重ねているつもりが、
いつのまにかマンネリ化してしまい、
ただ単に繰り返しているだけということもあるでしょう。

元旦を前に、多くの人が意識的に立ち止まります。
そこで自分の現状やこれまで積み重ねてきたものと向き合い、
何を置いていき、何を持っていくのかを見極めます。
そして元旦を境に、これまでとこれからをキッパリと分かち、
人はまた何度目かの、新しい一巡へと乗り出していきます。

だからこそ元旦には、世界じゅうで初々しい空気が生まれます。
初々しい空気が生まれるから元旦、ということではありません。
言い換えれば、人の意識が、元旦にふさわしい空気を
創り出しているということです。
もっといえば、自分にとっての ”元旦” は
暦上の日付に関わらず、あるいは新月満月に関わらず、
いつでも設定できる、ということです。

あなたの ”元旦” は、やってきましたか?
もしまだでしたら、いま少し意識的に立ち止まり、
あなた自身の元旦を迎えてみませんか。

念力と体と気持ち 5と 2/4

2009-08-08 04:59:31 | 意識とからだ
前回、支流からの続きです。

わたしを慰めようとして、わたし以外の人が
相手を痛烈に批判するのを聞いていると、
わたしは逆に、落ち込んでいくしかありませんでした。
というのは、

「そういう時は、普通の人間だったらこうするよね!
 そんな酷い人間がいるなんて、信じられない」

と、その人の持論を延々聞かされることになってしまい、
そんな道徳観を聞かされた日には、当のわたしにしても、
相手に対し、恨みつらみの醜い悪意を抱いているのですから、
「わたしも悪い人間だね、こんな醜いこと考えちゃって」と
かなりの自己反省をすることになったからです。

そしてそんな反省を何度繰り返しても、
未だ改心できない自分が現実に存在していることに、
「どうすればいいの」と一人で苦しむしかありませんでした。

周囲の言うことは、
「人間として、そういう時はどうあるべきか」という
実のない哲学や道徳にしか聞こえませんでした。
「実がない」と感じたのは、それらが説くことに、
わたし自身がどうやっても同調できなかったからです。
哲学や道徳の実態のことではありません。

わたし以外はすべて、キレイごとの世界に思えました。
「どうやらわたしだけが、この一身に、
人間の汚れどころを引き受けているようだ」
そんな苦々しい気持ちで一杯でした。


人は本来、たとえ苦境のどん底にいても、
その底をしっかりと踏みしめ、
自分の足で立っていられるものです。
が、そこで思いがけず足をすくわれるのは、
自分を苦境に貶めた相手の、
さらなる悪質な行為や非情さではなく、
自らの感情にまとわり付いては込み上げてくる、
凶悪な思いや恨みつらみだったりします。

人間関係の複雑な絡み合いのなかで、
なんとか立ち直ろうとするそのハザマで、
いろんな人へ向けて、いろんな思いを抱いては、

 「こんなこと考えるなんて、わたしはなんてヒドイ人間だ」 
 「こんなわたしになりたくなかった」
 「こんな思いを抱えて生きていくぐらいなら、いっそ...」

と、自分自身の醜悪さを目の当たりにして驚愕し、
そのショックから、立ち直る気持ちさえ萎えてしまうのです。
そして自分の暗黒のなかでひっそりと傷つき、
どうしていいか分からずもがき嘆いている...

今まさに、そんな渦中にある方へ
何かのお役に立てればと、この支流を書きました。

自分のなかの醜悪さ、残酷さ、非情さに、
たとえ世間が白い目を向けようとも、
あなた自身は、それらを蔑視しないであげてください。
それらも立派な、あなたの一面です。
どこまでも広く深いあなたの、ほんの小さな小さな一面です。

抑えがたい怒りや、苦々しい思いを抱いた時は、
まずそんな自分を、「それでよし」 と認めてあげてください。
そして、
「相手を許さなくては。相手を受け入れなくては」などと
自分以外の人について、頭で何とかしようとしないでください。
窮屈な選択のなかに、大きな愛は込められません。

相手を許す許さないの判断自体、あなたには不要な行為ですが、
どうしても許せない!という思いがつきまとうのなら
それでいい、許さないままでいいんです。
(ただし、怒りの矛先は、誰にも向けないでください)

煮えくり返る怒りをもって、「これが今の自分だ」と
開き直ってください。「いいじゃんか!」と。
そうやって、怒る自分、酷い自分を許せるようになったら、
そのうち、相手にも酷い面があることを許せるようになります。
どこまでも広く深い相手の、ほんの小さな小さな一面を。

もう一度書きます。
あなたは、あなたの持てるどんなものも
決して蔑視しないでください。
あなた自身のすべてを、尊重してあげてください。

何よりも、このことを伝えたくて。
ここまで読んでいただいて、わたしはとても光栄です。
ありがとうございました。

念力と体と気持ち 5と 1/4

2009-08-07 08:29:20 | 意識とからだ
前回からの支流?です。
「念力と体と気持ち」の続きといえば続きなのですが、
本流の主旨とはちょっとハズれるので、
5と 1/4 本目ということで公開します。

当時のわたしは、まるで息子と一心同体になった気で、
わたしの思うことは、死んだ息子も同じに違いないと
思い込んでいました。

「なぜわたし達が、あの人のしでかしたことの
 犠牲にならなくちゃいけない?」
「わたし達は、あの人の被害者だ」
「わたし達の人生は、あの人のせいで狂わされた」

当時、そう思わずにはいられなかったわたしに、
周囲の人達はいくつかの助言をくれました。

「自分は被害者だって?。それは間違ってるよ」
こんな説教は、人生の価値も大して知らずに
苦境のド真ん中にいたわたしの胸には届きませんでした。
「じゃ私の身になってみて。そしたら分かるわ」と、
信頼していた人の無理解に、さらに苦しむだけでした。

「乗り越えた先には、素晴らしい未来が待ってるからね。
 だって私がそうだったから」
ただでさえ苦境にあえいで酸欠ぎみのわたしに、
そんな希望の灯を燃やし続けることは出来ませんでした。
それどころか
「あなたには出来たのね、私には出来そうにないわ」と
屈折した気持ちを膨らませただけでした。

どんな助言も励ましも、わたしの胸には響きませんでした。
が、心からわたしを思ってくれ援助しようとする気持ちが
痛いほど伝わってきたので、わたしは感謝の印として
異論を申し立てたりはむかうことはしませんでした。
ただ話を黙って聞き、理解したような表情を作って
「うん、そうだね」と頷いてみせるだけでした。

その実、
「今は自分のことでいっぱいいっぱいなのに
なぜ自分以外の人に、こんなに気遣いしているんだろう」と、
余裕のある自分を演じることに、疲れ果てていました。
「早くこの場から解放されたい」
わたしを按ずる人を前にして、
心のなかでは、そんなことを思っていました。
自分の残り少ないエネルギーが消耗していき、
代わりに、孤独と虚無感が満ちていくのを感じながら。

わたしは、説教や励ましは望んでいませんでした。
かといって、一緒にわたしの怒りに便乗してもらい、
相手をののしってほしかったわけでもありません。
ただ誰かに、あなたがそんな気持ちになるのも当然よ、と
わたしの気持ちを理解してほしかっただけでした。
そして出来ればそこまでで、
話を締めくくってほしかったのです。

でも誰もが、相手の非難にいきつくまで話を続けました。
そのことが、どれだけわたしを苦しめることになるか、
気づいてほしい...というほうが無茶なのでしょうが。

次回に続きます。