★ L (スペースエル) 体を通して人の全体と向き合うサロン 目の前は淡路島の海 女性専用ボディーセラピー

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育ちあがって知ったこと

2009-07-31 09:02:41 | 日記


旦那さん、たれたらこガーデン唯一の食用プランターです。

春菊とパセリは、去年の夏、故郷の山林に育った見事な天竺を、
わたしが根ごとさらって大阪に持ち帰ろうとしたら、
父が、
「天竺は、夏が終わりゃ枯れるんぞ。
 そげなん持って帰ったて、つまらん。
 ほれ、この苗を持っち帰っち植えれ」
と言って持たせてくれたものです。




その時なぜ父が、観賞用の天竺と、食用のパセリや春菊を同等に扱ったのか
わたしには分かりませんでした。

その後冬になり、春菊やパセリねぎはお料理に使っていたんですが、
鍋の季節が終わると、次第に使用頻度が落ち、
どれもこれもすっかり成長していきました。
特に春菊は、目を見張るほどの伸びようです。




そして春には、パセリもネギもみ~んな可愛い花をつけました。
なんてキュートなんでしょう。
特に春菊の可愛さったらありません。
虫になって留まりたくなるほどです。




あらためて、あぁ、これは花なんだなぁと、
今まで食用としていたものを観賞用として見惚れ直したのでした。

そうか、父は・・・父はこの美しさを知っていて、
わたしにパセリや春菊を持たせてくれたんだ。
天竺と同じ、観賞用として。





思えば、こんな可憐な花を咲かせる可能性を、
人間は途中でブチブチ引きちぎっては食べているのね。
ごめんね、ありがとうね。
美しくて可愛くて、おいしいあなたたちに感謝。


早いもので、春菊やパセリを持ち帰ったあの日から一年が経ちました。
再び巡りきた夏は、あの天竺が力強く根を張る季節です。




え?、父ちゃん?

スピリチュアルなイベントで遊ぶ

2009-07-28 18:29:49 | 日記


つい最近、皆既日食でダイヤモンド・リングを見たばかりですが、
一昨日、林間学習に出発する小6次女を見送っていたら、
目の前のビルに、朝日のダイヤモンドリングがかかりました。
遥か彼方の宇宙から、こんな身近に至るまで、
美しさは途切れることなく充満しているんだな~。

その後、梅田、心斎橋、大正、城北と、あちこちお出かけ。
所用も充満しているんだな~...
梅田では、スピリチュアルなイベントにも遊びに行ってきました。

着いてまず、旦那さんが、風船おじさんとタオルを奪い合いました。
真剣勝負で。



大の男二人が、一体何を賭けて闘ったのか。
これです↓




それから、美容ブースに寄り、
「10年前に若返る」 というシワトリ美顔器で、
旦那さんを実験台にして遊びました。



通行する人が、オオー! と声をあげるほどのリフト効果。
どんなけ垂れ下がってたんいう話。

次は、日本の神様カードをひいてグランディングとプチ・瞑想。
内容の濃いお話や瞑想誘導に自然に引き込まれ、
伸縮自在の自分を感じることができました。

わたしが引いたのは、このカード。



この世の朋が3人増えた気持ち。

あとは時間の関係で断念。
またの機会にどうぞよろしくお願いします。


各地でスピリチュアルなイベントが増えてきていますね。
遊園地の乗り物に、いちいち文句つけてまわる人はいないように、
こういうイベントも、あくまで自分が楽しむ場であることに
変わりはありません。

わたしは、その人独自の世界観のなかで遊ばせてもらうのが好きです。
「自分の価値観や主張はちょっと置いといて、
たまには他の人の世界観に、身を投じてみよ~っと」。
だからオーラ診断、カード、占い、チャネリング、和洋...e.t.c.
何でもいらっしゃい状態で、能動的に受け身になっています。

そうやって交流するうち、キラっと光る境地を
自分のなかに感じたり、相手のなかに感じる瞬間があるんですよね。
そんな時はまるで、わたしと相手と場の織り成す空間のなかに、
ダイヤモンド・リングを見つけた気持ち。
何よりもありがたくて嬉しくて満ちたりてきます。

今日のイベントでも、たくさんのダイヤモンド・リングがかかりました。
素敵な空間をありがとうございました。

光の六芒星

2009-07-22 15:09:25 | 日記
わたしは今、











いらん前振りでしたね、ごめんなさい。


そのテレビの前でデジカメを構え、
一番オーラが膨れ上がった瞬間をパチリしてみました。
それがこれ↓。






お月様に指輪がはめられたかのような瞬間でした。
月の向こう側から漏れてきた光は、
六片の花びらのようでもあり、六芒星のようでもあり、、、
この後に続く光の放射は、視床下部にかなりの刺激がありました。

わたしの住む大阪市は、あいにくの曇り空。
マンションのベランダから見た感じは、こんなふうでした。
父子がのけぞって、空を見上げております。



ジャパニーズ・スピリチュアル

2009-07-08 16:19:04 | 意識とからだ
昨日は家族で、近所の野田恵比寿神社に出かけました。
こちらでは毎年、七夕に夜店が出ます。

境内では、2週間後にある夏祭りでのだんじりに備え、
和太鼓と、大鐘小鐘の練習が行われていました。
体力的に最盛期にある若い男性が、太鼓を挟んで3人ずつ向き合い、
型の決まっている動きの一つ一つに気を集中して、
渾身の一打を打ち込んでいました。
練習といっても本番さながらで、その音は本物です。

わたしはしばらくやぐらの前に立ち止まって、
太鼓と鐘の音色を体に受けてみました。

以前も、太鼓のド浄化について記事にしましたが、
やはり太鼓は、特に太陽神経叢のチャクラと、地にドンときます。
何かを狙ったような鋭い音ではなく、
周囲をまんべんなく包囲して一斉にせまってくるようなエネルギー。

一打ごとに、太鼓の轟きが自分の内に入ってくると同時に、
すべての毛穴から、何かが外へ投げ出されていく感覚。
自分が、取り込まれる直前にバンバン叩かれる、
干された布団になった気持ち。奥さん、叩きすぎ...





大鐘小鐘の音色は、ハートチャクラから上と、空気に、
グラグラと刺激が伝ってきます。
浄化というよりは、見えない体の内側に入り込んで、
たるんだ糸をピーンと張りなおしてくれるようなエネルギーです。

内部の覚醒を促すような音。何かを喚起するような音。
特に、身体の、天と地を繋ぐ縦のラインが、キリっとしてきます。
身長は変わらないけれど、身体のなかで縮こまっていた、
もう一人の自分の背筋が伸びるような実感がありました。


ジャパニーズなお祭りは、
自分のなかの、気づかれざる存在に気づく、いい機会です。
お祭自体、目には見えない神々との交流をはかることが
もともとのルーツですもんね。
夜店も楽しめて、自分のことも楽しめて、一石二鳥ですね。

これからジャパン全国、各地の神社で夏祭りが執り行われます。
パワースポット巡りも、ヒーリング・グッズもいいけれど、
自分が暮らす地元の神社の夏祭りも、すこぶるいいもんです。
ぜひぜひ、ご自分の地元に繰り出しましょう。

わたしにできる最善

2009-07-06 16:29:18 | 意識とからだ
昔、お好み焼き屋さんで目撃したこと。
鉄板付きのカウンターに座った男性が、







ものすごい勢いで水を飲んでいて、
ついに飲み違えてしまい、








ミズ、アトカタモナク、キエタ、キエタ。


あまりに一瞬の出来事でしたから、その男性は、
自分の失態を反省するマも、笑うマもなく、
茫然自失な表情でしばらく固まっていました。

わたしは、他に目撃者がいなかったので、
このこみ上げる笑いをどうしたものかと、
とりあえず「見なかったことにしよう」と、
必死で笑いをこらえました。
とても苦しかったです。


ところで。
わたしは新幹線に乗ると、窓にへばりついて
外の風景じーっと見入ってしまいます。
遠くの方を見て、地球の稜線を感じ入ったり、
集落ごとに統一された屋根の形や色に歴史を感じたりと、
時速300kmで移り変わる世界を楽しませてもらっています。

そんなとき、ふと思うんです。
もしわたしが眺める風景のなかに、悲惨なものがあったとしたら?
高速で移動しているわたしに、何が出来るだろう? って。

わたしが直接関わっていける世界は、新幹線のなかだけです。
車窓の外の出来事は、わたしには手の出せない世界です。
がそれでも、なにか自分にできる最善を尽くしたい、
じゃぁ、実際に何が出来るのかと・・・。

「そこに生きる人たちが、今、 最善の時を過ごしていますように」 と、
わたし自身が、笑顔と平穏の波動を整え、
その波動と思いを、その地域に馳せること。
そして、同じ新幹線に乗っている周囲の人にも、
その惨状について議論をかもしだすためではなく、
少しでも多くの方に、平穏の波動と思いを送ってもらうために
「ねぇ、あれを見てくださいな」 と、まずは声をあげること。
それが、わたしにできる最善だろうって思います。


国会で審議中の、水俣病の新法案の是非について、
最近こんな記事をみかけました。

味(み)海苔の実(奥田みのりさんのブログ)

リンクしたのは、この法案に反対の意を唱えるサイトですが、
わたしは、自分自身この情報に触れたばかりで、
なんのスタンスもとれません。
が、良識をもって、この問題に尽力されている方たち、
水俣病に関わるすべての人たちへ、わたしの最善を尽くしたいと思います。

長らく苦しんでこられた水俣病患者さんと縁者さん。
人のため日本の発展のためにと事業にいそしんだ結果、
その人間と社会を苦しませてしまった企業さん。
どちらもが、悲痛を抱えているのでしょう。
そして今回の法案に関わった人たちもまた、
言いようのない痛みを抱えているのではないでしょうか。

お好み焼き屋さんで目撃した出来事のように
男性のしでかした事が、一瞬にして消滅する、
そんなことが、世の中にはあるんですよね。

でも水俣病は、そうではありません。
当時、国のため貢献していた企業と水俣病患者さんは、
今なお、ジュワっという激しい音をたて
白い蒸気をあげ続けています。
このジュワっという音は、鉄板の「冷っ!」という叫びですか。
それとも、水の「熱っ!」という叫びですか。
きっとその両方ともなんでしょう。

あの男性の状況と違って良かったと思うのは、
国には、そんな企業や国民をねぎらい、
自らを反省するための時間が、十分与えられています。
企業さんには、間違いを正し、再出発に向かうための
修正と償いをする時間が、十分与えられています。
そして、病に倒れ、長い長い苦しみのなかにあって、
今現実に、力強く生きておられる患者さんたちには、
もっともっとたくさん笑える日々が用意されているはずです。
そしてその事態を見守る国民が、たくさんいます。

どうかこの法案が、両者を隔てる壁になりませんように。
そして、法案というもののために、
ひとり一人の愛ある行為が妨げられませんように。

念力と体と気持ち 3

2009-07-04 11:49:16 | 意識とからだ
前回からの続きです。

その頃のわたしは、
「わたし」が、「体」と「思い」を管理している、と
思い込んでいました。
ところが、体も、思いも、まるでタッグを組んだように
わたしのコントロールを巧みに逃れ、
あえて苦渋を選択するかのように
勝手に独自の世界を作っていきました。

わたしは、そんな自分の体と思いに疎外感を覚え、
為すすべもなく、生きる力を失っていきました。
死というよりは、麻痺に向かって。

息子が死んで、すでに5年が経っており、
当時独身だった相手は結婚して、
3人目の子供の誕生を間近に控えていました。
わたしはといえば、今にも停止しそうな自分の人生と、
まるで何事もなかったように順調な相手の人生を比べ、
「なぜ?」の問いかけを発するのがやっとでした。

「わたしは、娘の寝顔を見るたびに息子の死に顔を思い出し、
 心のなかで悲鳴をあげながら踏ん張っているというのに。
 苦しむべきなのは、謝罪しない相手の方ではないか」と。

そんなある日、インターネットで
「スピリチュアリズム・ブックス」というサイトにたどり着きました。
そこで、無料公開されていた
『シルバーバーチの霊訓』という数冊の本を読み終え、
胸に沁みこんできたメッセージ。

『連綿とした生命の営みの背後には、
 人間が計り知ることのできない、偉大な摂理が働いています。
 誰一人として、その摂理から逃れることはできません。

 本当に、相手が重大な過ちを犯したのだとしたら。
 あなたが「責任をとるべきだ」と相手に迫らずとも、
 果てしなく続く生命の旅のどこかで(この人生とは限らず)、
 相手自身が、いつかその重大な問題に気づいて
 自ら責任を負う、負いたいと思う時が必ずやってきます。

 だからあなたは、誰を裁くことなく、
 あなた自身の人生に、責任と喜びを持って生きなさい』

あぁそうだなあと思って。
事件当初、わたしは相手の更正を信じ、
以後ずっと、相手の人生を応援していくつもりでした。
が、それは、
「相手がちゃんと謝罪したならば」という条件付きでした。
結局その条件を、相手は満たさなかったのですが、
元々、そんな条件を付ける権限はなかったのだと、
この時ようやく、わたしは気づくことができました。

霊的未熟さと、生まれて30年そこそこの人間の価値観で、
わたしは一体、誰の、何を、裁こうとしていたんだろう。
わたし達は、自分自身を生きるために、
それぞれの真実のなかで、精一杯生きているだけ。
わたしも、相手も、そして死んだ息子も今もどこかで。
偶然出合った書物に、思いがけず答えをもらい、
わたしは人生で初めて、全身全霊で泣き、感謝しました。

そして、落ち着いて考えてみたのです。
息子の死後、わたしの心身や人生に起きたことを。
それは、
「謝罪しないなら、そんな相手などこうなってしまえばいい」
と、わたしが相手に対して、
無意識のうちに望んでいた苦境そのものでした。

 『潜在意識は、自分と他人の区別がつかない』
 『潜在意識は、現実と想像の区別がつかない』

この事実を知ったのは、ずっと後のことです。


次回に長引きます。