★ L (スペースエル) 体を通して人の全体と向き合うサロン 目の前は淡路島の海 女性専用ボディーセラピー

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ニュルフワ

2015-01-08 04:27:59 | 日記


年始 3日目に、伊弉諾神宮 、 おのころ島神社 、 諭鶴羽神社 の三社詣に行じ、
淡路島の最高峰、諭鶴羽山頂に登って参りました。

最後の諭鶴羽神社に詣でる道中で、
進めば身を滅ぼしかねない、けれど引き返すこともままならない状況に瀕し、
「今生はここで終わるかも」 と、静かに目を閉じる場面がありました。
わたしがそのような態度でいる間、
旦那さんは必死で、命のつなぎ目を見出そうとしていました。

具体的な話、車 1台がギリギリ通るほどの崖道で、
対向車と遭遇したという話です。
大げさ~。

道は極細しかも急カーブの連続で、バックしたとしても転落の危機は同レベル。
お互いのために自分の進路を見定め、前進するしかありませんでした。


この道の先に、この道が安全に思えるぐらい凄まじい崖道がありました

ここに至るまでにも 「これ獣道じゃないの?」 と慄く程の険しさで、
対向車と出遭ってしまった時には、運転していた旦那さんも、対向車の運転者も、
「なんでこんな道走ってきたの?」 と、相手の神経疑わんばかりの表情。
まるで、クレイジーは向こう側だけにあるかのような 「はあ?」 視線。

がすぐに、自覚と相互理解が生まれたようです。
「あ、お互い様ですね」 と。
なんなんでしょうね、あの、双方の顏に一瞬にして浮かんだ薄ら笑みは。
こんな道を選ぶような人にはきっと皆備わっているのでしょう、
はあ視線 = 称賛、そんな公式が。

そして旦那さんは、律儀にも左側通行という交通ルールを守り、
崖っぷち側へ進んだのでした。
なんて見晴らしのいい...視界を遮る木 1本すらありません。
助手席にいたわたしとしては、天空に突き出された生贄の気持ち。
そして生贄は、心静かに思ったのでした。
「今生は転落死か~」

が、クレイジーさん達による、緊迫の運転は見事なものでした。
相手のエンジン音に耳を傾け、アクセルを踏み込むタイミングを計り、
わずかに進んだタイヤの揺れから、道の形状を感じ取ってハンドルを切る。
お互い初対面でありながら、阿吽の呼吸どんだけ。

本気で命がけになった時、空気はピンと張り詰めるんですね。
張り詰めているからこそ、わずかな動きでも空気が揺れ、
微妙な変化を察知できる。
まるで水のなかにいるような流動感でした。

「この流動感、サロンで施術している時と同じだ」 
助手席で事の次第を見守りながら、ハタとそのことに気づいた時、
「今この空間は、命を運ぶ者のために流動している」
そんな確信が起きました。

命を運ぶ者とはつまり、今まさに命がけで運転している両者のこと?。
ならばわたしの息で空気を揺らしてはならないと、呼吸に意識を向けた時、
すでにだいぶ前から呼吸が止まっていることに気づきました。

話は飛びますが、わたしは時折、鏡に向かうと特に、
自分がどこにいるか分からなくなります。
正確にいうと、鏡に映っている中の、どれが自分なのか分からなくなります。
肉体はちゃんと鏡に映っていて、
「いつもはこの肉体から世界を眺めているんだけどなぁ」 という認識もあるんです。
あるにも関わらず、どうしても自分のポジションが定められません。

息をしているとか皮膚感覚とか、そういう肉体感覚も一切ありません。
そしてすべてが、紙に描かれた平面のように見えます。
なぜ平面に見えるんだろう? と、よーく観察したことがあるのですが、
そこには影というものがまったく存在していない、だからだと思います。
こういう状態になったとき自覚できるのは、
ただただ、ニュル~というか、フワ~というか、表現しがたい漂流感だけです。

助手席で、自分の呼吸が止まっていることに気づいた時、
瞬殺で、そのニュルフワ状態になっているのを自覚しました。
命がけで対向車がすれ違おうとしていることは認識できるけれど、
自分は漂流しているばかりで、それには直接関われない。

が、呼吸もしていないので、
「命を運ぶ者のために流動している今この空間」 を乱すこともない。
あらむしろ、漂流している自分も、流動の一部じゃないかしら、
などと、自己擁護的なことを思い巡らしていたのでした。
ニュルニュルしながら。


命を繋いだ後。諭鶴羽山頂に登り、お蔭様のご加護に感謝。

対向車が完全にすれ違うまでの、
たった 3m ほど先の時空間にこの身を繋ぐこと、
それがこんなに狭き門だったとは。
「そのために不要な諸々はここに置いて参ります」 と
素直に謙虚に、禊を受け入れることができました。
その時、見えない鳥居をくぐったような思いでした。
戴き直した真新しい命で。

いつか、置いていくものも無くなって
もうこれ以上は禊げませんよ、1mm 先の鳥居だってくぐれませんよ、
ってなった時に、ようやく、
わたしという漂流もどこかに漂着するのかもしれないな。

何はともあれ、これからも、
厳かに、神妙に、鳥居をくぐるように、1日 1日をお迎えして参ります。

長文お読みいただきありがとうございました。
p.s.
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上から順番に、伊弉諾神宮、おのころ島神社、諭鶴羽神社