庭の雑草を引きながら考えました。
うちの小さな庭には芝生を植えていますが、近ごろドクダミが出てきた。ドクダミは乾燥させればドクダミ茶にもなるから必ずしも害ばかりの草ではないけれど、芝生の中に出て来てしまっては如何にもよろしくないので、やはり雑草とみなさざるを得なくて、せっせと草むしりするしかない。ドクダミを抜きながら、ドクダミ畑でもあればそこでは雑草扱いされないだろうにとも思った。
そこでふと近ごろほとんどいつも一面に出てくる中国のことを考えた。中国もドクダミ草みたいなものかと。芝生の中に生えて来るから抜かねばならぬ。そうせねば、やがて芝生を駆逐してしまうだろうから。見ていると、どうもドクダミの方が威勢がよくて、更に困る。芝生を守ろうとすれば、やはりドクダミを雑草として扱って抜かねばならぬ。芝生とドクダミがうまく互いに生えている場所を分けてくれて、生えてくれれば、ドクダミを雑草と扱う必要もないし、抜く必要もないのだが。
彼の国にも人口が多くて何とか皆を食わせねばならぬとか、様々に、彼の国なりの事情はあろう。あろうけれども、折角平和な海であったところに出てきて、しかも自国民保護を目的に武装した船を航行させるようになっては、やはり芝生の中のドクダミだと思わざるを得ない。
近代以後、社会の経済は、物物交換や物とお金を交換する売買で成り立っている。大昔は、まず領土的占領と支配があってその上に交易が成立していた時代だと言えると思う。それでも遠くエチオピアのシバの女王の時代から、領土的野心よりも交易による繁栄を重視した国や時代はあった。そうはいっても、現代でも米国は強大な軍事力でしょっちゅう戦争をしているではないかと言う人がいるかも知れない。確かにその一面はある。特に自国の裏庭と米国が思っている南米や、石油資源の豊富なアラブの世界では、米国に非のあるところもある。それでも、世界の多くの海域で、国際法が確立して各国の領海は守られてきたし、多くの国がその恩恵に預かってきた。特に西太平洋から東シナ海についてはそうだ。
我が家の庭もそのうちドクダミが生え繁る時期が来るのであろうか? その時、ドクダミ以外の花や草は生き延びられるのだろうか。米国の海軍力が海洋の国際法秩序を維持してきたともいえる太平洋戦争後のこれまでと、やがて時代を経て中国流の海洋秩序となった時代が来るとして、どちらの時代がより周辺各国にとって、そしてそれらの国に住む各国の国民にとって、自由なのだろうか。
中国流の海洋秩序になった時代に、中国は「民主的でより開かれた海洋秩序」を周辺国に提供してくれるだろうか。中国三千年の歴史は、中国の人たちに自由で民主的な政治を経験させてくれただろうか。中国の人たちはこれまで経験もしていない「自由で民主的な体制」を今後の学習で身に付けることができるだろうか。習さんの「習」は習うという意味だけれど、皮肉なことに習さんの学習科目は「自由」とか「民主」とかではないらしい、というか、学習するのをあきらめた観さえある。
ドクダミは乾燥させればお茶になり身体にいいことは確かだから、ドクダミがこの世からなくなってほしいなどとは思わないし、ドクダミ畑で繁茂するなら、お茶がたくさん出来てくれればいいと思う。
でもやっぱり、どう考えても、芝生の中にドクダミは生えて欲しくはないなあ、芝生が駆逐されては困るなあ、とドクダミをむしりしながら考えた。
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