2020-5-9
テレビでプーチンの演説を聞いた。このウクライナ戦争がなかったら、ロシアの戦勝記念日のセレモニーが日本で放送されることはまずないだろうから、今年プーチンの演説を聞くということはとても稀な経験なのだと改めて思った。
プーチンの演説は歯切れの悪いものだった、というのが第一の印象である。ゲレンスキー政権が首都キーウを持ちこたえて以降、ウクライナ戦争の推移とともに、プーチンが今回の戦争の成果を対独戦勝日の目玉にするべく軍事進攻を進めるであろうという予想を多くの人がしていたため、我々の注目も、演説の中で語られるプーチンのウクライナ戦争の今後の見通しとその戦略に集まった。
が、当初のプーチンの目標が削がれつつある現状では、彼は戦争の現状を評価したり成果を誇示することはできなかった。とはいえ、まだ、政治的に自分の政権が危機に直面しているというほど切迫もしていない、というのも確かであろう。これらが積み重なって、今日の歯切れの悪い演説になったのであろう。
対独戦勝とは、ナチスドイツに対する戦勝を意味するのであって、すでに現在のドイツは1945年5月8日までの「ビスマルクからヒトラーまでのドイツ」ではない。ドイツ国民はこの77年をかけて自らの国の在り方とそれを支える自らの政治思想を鍛えてきた。それは思想と社会の進歩というべきだと思う。第一次大戦で帝政が崩壊し、ワイマールを経てナチドイツの終焉までの歴史を振り返り振り返りして、東西ドイツ国民そして東西統一後のドイツ国民は、彼らの”民主主義”を学び消化し、そして日々の行動と考え方にその学んだ成果を具現化してきた。ドイツにとって、この77年はそういう進歩の時間であったと思う。(日本も、問題を抱えながらも、やはり民主主義を学んできたと思う。)
さて、今日は大戦争に勝利した記念日であるので、普通に考えれば、戦勝国の指導者の演説は、まず初めに今の我々を有らしめてくれた戦争中の戦没者への追悼に始まり、戦争の原因と結果を振り返ったうえで、未来に向かってこの国をどのような国にしてゆくべきか、そのために今後生き残った国民は何を目指して、何を努力しなくてはならないかを国民とともに考え、そのために大統領としての自らの志を示し、国民には協力と努力を求めて平和の実現と維持を語り掛けるものかと思う。当然、過去の苦難と英雄的行為や反省、さらには未来への展望を聞けば、聴衆は胸に込み上げてくるものがあるはずだ。
が、プーチンの今日の演説からはそのような感情の高揚感や感動は感じられなかった。様々言い並べても、言い訳に終始していたようで、次元の低い内容であった。テレビ画面に映し出された将軍たちや聴衆の顔も、あたかも能面のごとく、彼ら一人一人の対独”戦勝”の喜びが顔の表情に表れることはなかった。ましてや、未来への希望や高揚感など少しも感じられなかった、というのが正直な感想である。
思い返すに、ロシアは、二つのことを”反省”しなくてはならないし、その反省を未来の明るい国家建設に生かすべく、決意を新たにしなくてはならない。今日の演説にはこれらが欠落していた。
一つは、第二次大戦の始まりにおいて、ソ連はナチス・ドイツとほぼ同時に、ポーランドに攻め込みこの国を分割してしまったこと。同時に旧ソ連はフィンランドにも攻め入ったこと。つまり、その後ヒトラーが(愚かにも)ソ連に攻め込むまで、旧ソ連はドイツとの相互不可侵条約を梃にして、周辺国へ侵略をしていたのであって、その点ではナチと何ら変わりない行動をしていたのだ。その後、ソ連にとっては「幸いにも」ナチがソ連侵攻を始めたものだから、「ナチの被害者」として第二次大戦が終わった時には連合軍の一員として「対ナチ戦勝」を祝うことができたのだが、他国を侵略したことにナチと異なるところはない。旧ソ連は終始一貫して、”反ナチ”であったわけではないし、第二次大戦中ポーランドはソ連とナチに占領されていた。この事実を見ると、もしヒトラーがソ連侵攻をしなかったならば、ソ連は「連合国」という名乗りを上げることはできなかったであろう。(プーチンがウクライナがネオナチだと主張するとき、旧ソ連がナチと相互不可侵条約を結んでポーランド分割をしたことについて、あるはフィンランドに攻め込んだことについて、プーチンはどのように自己評価するのか? ナチでなければ、他国を武力占領してもいいと思っているのか。(ロシアの人たちの理解はおそらくそうであろう。だから、ウクライナはロシアの一部だと主張して武力侵攻することを問題視していない。)
二つ目。プーチンはロシアの領土的な安全保障を主張し、それはロシア国民の安全のためと主張している。では、旧ソ連時代スターリンが行った粛清とそのために(確か)6百万人に及ぶ犠牲者が出たことについては、「国民の安全」の観点からどのように評価し、再発しないように国内の政治体制をどのように再編・改良したのであろうか。大規模な世論操作やプロパガンダ。政権批判をする独立系新聞への締め付けと発刊停止。ジャーナリストを暗殺したとされる報道の自由へのテロ的弾圧は、ロシアではどうも「国民の安全」のための手段であるらしい。
賢明な権力者は自らの政権が時に過ちを犯すことを知っており、健全なる批判者は権力者にとってはより大きな過ちを防いでくれる恩人であると考える。「我々自由社会の人間」からみれば、世論操作やプロパガンダは「粛清」「弾圧」に至る道程の一部であるとみなすが、どうもロシアではそうではないらしい。
今日のプーチンの演説が、ロシア国民への最後の演説となって、後日ウクライナ戦争が終結したときに「ああ、あの対独戦勝記念日はプーチンの終わりの始まりの日であったなぁ」と、私はそう回顧できることを切に願っている。
さらに、これからでも遅くない。ロシアの民衆が、今のドイツ国民が過去から学んで進歩してきたように、ロシアなりの国民の自由と民主主義を(試行錯誤しながらでも)学んで、進歩していくことができるように、本当に願っている。
そして、そうやって獲得する自由や民主主義は、プーチンのいうような米国によるお仕着せでも強制でもなく、国際社会の多くの国の民衆一人一人が誰でも自らの意思と思考で獲得するものであるということを、ロシア国民も学んで欲しい。そうすれば、ミサイルをウクライナに打ち込んでロシアの安全保障が確保させるなどと考えなくても、ロシア国民の安全は世界の人々が保証する。友となった者に誰が危害を加えようか。
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