土曜日の午後から、山岳会の山行のため、くじゅう方面に行ってきた。
みんなは朝からの行程で、豊後中村駅から昔のルートを使って法華院まで歩くという企画。
その様子は、今日の朝刊に掲載された。
その様子はまた後日にするとして、翌日、法華院から久住山に登り、牧ノ戸へ下山してから解散、帰宅した。
最初から最後まで写真はずっと撮り続け、枚数は 245枚。はずれも含めて、いつもくらいの枚数。
帰宅して、それらの写真を眺めていたが、どうにも出来が悪くて落胆した。
どんな場合でもそれぞれの写真を撮る際には気持ちを込めて撮っているつもりだった。
その場所での単なる記録として残す場合、時間のメモ代わりに残す場合なども含め、それはそういう意味を込めて撮っている。
だから、後で見た時にも、ひとに伝えられるレベルではなくとも、少なくとも自分ではそれは分かる。
写真撮るどころか、歩くのさえつらい状況では、その気持ちが込められた写真になっていて、自分ではその状況を想起できていた。
しかし、今回の写真群は本当にただのスナップにしか見えない。
気負って撮ったつもりもないし、いつも通りに、目にしたものに周囲の状況を加えるように、気持ちで撮影したつもりだったんだが、どうにも良くない。
子供にカメラを持たせて撮ってもらった方が良いんじゃないかとさえ思える。
理由も分からない。なんだろうなあ。
みんなは朝からの行程で、豊後中村駅から昔のルートを使って法華院まで歩くという企画。
その様子は、今日の朝刊に掲載された。
その様子はまた後日にするとして、翌日、法華院から久住山に登り、牧ノ戸へ下山してから解散、帰宅した。
最初から最後まで写真はずっと撮り続け、枚数は 245枚。はずれも含めて、いつもくらいの枚数。
帰宅して、それらの写真を眺めていたが、どうにも出来が悪くて落胆した。
どんな場合でもそれぞれの写真を撮る際には気持ちを込めて撮っているつもりだった。
その場所での単なる記録として残す場合、時間のメモ代わりに残す場合なども含め、それはそういう意味を込めて撮っている。
だから、後で見た時にも、ひとに伝えられるレベルではなくとも、少なくとも自分ではそれは分かる。
写真撮るどころか、歩くのさえつらい状況では、その気持ちが込められた写真になっていて、自分ではその状況を想起できていた。
しかし、今回の写真群は本当にただのスナップにしか見えない。
気負って撮ったつもりもないし、いつも通りに、目にしたものに周囲の状況を加えるように、気持ちで撮影したつもりだったんだが、どうにも良くない。
子供にカメラを持たせて撮ってもらった方が良いんじゃないかとさえ思える。
理由も分からない。なんだろうなあ。