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お坊さんが困る仏教の話

『お坊さんが困る仏教の話』村井幸三著(新潮新書)を読みました。

お友達の僧侶から参考にと、戴いた本ですが、確かにあれよこれよと、既成の概念を打ち破るような現代仏教の現実について解説をしている書です。ある面では広く仏教の発祥から現在の日本の仏教まで、よく調べ網羅して説明している仏教概論書かも知れません。

 かいつまんで要点を述べると、現在の日本で行われている仏教は、お釈迦様の教えとは違うというもの。葬式仏教といわれる現在の寺事情も伝統的な仏教とは逸脱していて、現在の葬儀で読まれているお経も、戒名も葬儀用ではなかったものを使用していることや、各種儀礼は、主に中国の道教・儒教からの拝借もので、日本の民間信仰に入り込んで出来上がったものというもの。また、大乗仏教そのものも、釈迦仏教を大きく逸脱させた出発点との指摘もあった。

 私達にとっては、確かにそのような歴史的経緯があることは承知のことですし、葬儀が一般民衆に対して行われるようになったのも室町期くらいからというのも事実ですので、お釈迦様の頃とは大きく違うことは自明の理です。
 では、なぜ筆者(または出版社)は、「お坊さんが困る・・・」というタイトルをつけたのだろうか。
 考えるに、現在の葬儀が、あたかもお釈迦様が説いた教えのように展開され、戒名もつけられて高額な布施を請求していると解釈し、さらには実のところ、現在の葬式を行う仏教には、修行や悟りやあの世観も曖昧で短絡的なので、その矛盾を突かれると、仕事がやりにくい(笑)という理由からお坊さんにとっては耳の痛い話をして、読者の興味をくすぐる。そして、偽りの仏教に安閑として暴利を貪るお坊さん、仏教界への警鐘としたかったのであろう・・・か。

 お坊さん側から言わせていただけば、変遷は時代のニーズであり、変わった事がすべてお釈迦様の意に反しているかは一概に言えないのです。寧ろ、各時代の祖師方は釈尊の真意を模索し、意に違わぬ懸命の修行に励んだ足跡も多い。葬儀についても、死の救済として寺・僧侶が関わってきたのは世の流れで、代わりに誰がどのように行えばいいのか。せっかく仏教を深く学んでいられる筆者だけに、変遷をして歩んだ仏教にもあたたかな評価を加えていただきたい。僧侶の仕事と悩める願いについても、ご理解いただきたい。よほど周辺に心をゆさぶる僧侶がいられなかったのか、残念の限りで、これもまた、私達の不徳の致すところかも知れません。

 最後に筆者は、「戒名と葬儀を切り離すべき」としていますが、近年の無宗教葬の増加と戒名離れの実態からのご意見からかと思います。確かに一過性の葬儀に、高額の布施が伴う戒名の価値を感じないという方は多いでしょう。そういう意味では、生前授戒と戒名付与を先に行うことは大切な流れともいえましょう。
 もっとも旧来までは、檀信徒として普段の付き合いの中から、戒名が単なる葬儀の授戒儀式だけでつけられてきたものではない歴史があり、生前の善なる生き方から延長した線上で付与されるべきものです。そのように配慮すれば、寧ろ戒名料などは存在しない、戒名と葬儀が一体となる本来の安らぎの儀式となるはずです。

 大切なことは、一過性の葬儀の切り売りの付き合いではなく、常に寄り添った信頼関係の絆が、僧侶と施主家の間で交わされることだと考えています。
そんなことを、逆に強く感じた書籍でした。

 困るどころか、あきれてしまいます。知があっても信がないと意味を成さないことなのですね。
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コメント
 
 
 
お坊さんは困る?? (ぜん)
2007-06-03 21:18:06
私も本書を読みました。
「困る」という程の内容ではなかったように思います。
著者はよく仏教を勉強していると思いました。
それだけに、読者に受けるつもりなのか、お坊さんに警鐘を鳴らすつもりだったのか、戒名料のことが一番に言いたいことだったのかという印象が残ってしまいます。
逆に言えば、このような意見に対して、僧侶側も困らないようにしなければいけない時代なのでしょうか。
 
 
 
→ぜんさん (tera)
2007-06-03 22:02:30
いつも適切な書評、有難うございます。
おっしゃる通り、意味不明の主張のように思いました。確かに困ることではないし、私達にとっては「想定内」のことと思います。よほど高額な戒名料との誤解もあるようですね。
 このような誤解され易い風潮に対しては、僧侶一人ひとりが慎重に対応していく必要があるのかも知れません。
 
 
 
失礼いたします。 (tenjin95)
2007-06-04 05:25:24
> 管理人様

正直「本来の仏教は・・・」という言説自体を、あまり信用していない拙僧としては、このような著作自体が、「正しいこと」を求めてしまいがちな、学者連中の見識の無さを表現しているように思います。

また、この類の批判ですが、江戸時代の平田篤胤が『出定笑語』などで行った批判以上の見解を見出すことは出来ません。正直、日本仏教への批判者は、江戸時代から進歩していないのです。江戸時代から、同様のことをいわれ続けていますので、今さらオタオタする必要はないものと考えます。
 
 
 
→tenjin95さん (tera)
2007-06-04 21:30:47
はじめはなるほどと、思って読み始めましたが、何とも後味の悪い読後感でした。「世間受けする書」ばやりの風潮は昔よりあったことと思いますが、あまりにも迎合的と申しましょうか、現代日本社会の思想的希薄さを、逆に浮き彫りにして紹介しているような感想を持ちました。
 
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