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ネットワーク坐禅会・その11…心を守る坐禅・調心

ネットワーク坐禅会・その11

               …心を守る坐禅・調心

    調心

3調の残りの調心について記します。坐禅の特色で一般に知られていることは、「無心になる」「考えない」「動くと叩かれる」などではないでしょうか。心を整(調)えることは、なかなか大変で一筋ならでは行きません、禅は、長い歴史の中で、心を本来の純粋な素の姿に戻す手立てが伝えられてきました。

無心というのは、次々と積みあげられる思い計らいの心を無にするという意味で、心をなくすわけではなく、フラットに蘇らせるという意味です。無になることを追いかければ、これは坐禅の趣旨と逆行することになるわけです。

この精神の手立てとして、禅の歴史の中では、大きく二つの流れで伝わってきました、一つは、徹底的に物事をつきつめて、人生の矛盾点を考え、自分の思い過ごしの虚しさを実感し、本来の純粋な姿、心を感じ取るという手法。そして、このような矛盾を考えるための好材料として「公案」という例題集が伝えられてきました。例えば、「父母未生以前本来の面目」(両親が生まれる前の自分の存在はどこにあるのか)といったようなテーマを追求して無に到達しようとするものです。この手法を「看話禅」、「公案禅」と呼んでいます。

もう一つは、はじめから考えを追求することを離れて、思い量(計)らいの思考を離れること(不思量)で、その量らいの効果が現れている状態を「非思量」と呼び、素の心をそのままに実現しようという方法で「只管打坐」、「黙照禅」と呼ばれています。前者は、修行僧向きの手法で時間もかかります。後者は、一般向きで即効性がありますが、難しさもあります。ともすると、ボォーッとしているだけで眠ってしまったり、妄想してしまうこともあります。そのため、警策と呼ばれる板で肩を叩いて注意する慣習が生まれました。とにかく、心のコントロールは難しいことが、このような伝承の歴史からもわかります。

坐禅の3調は、普通は、先ず身を調え、息を調えるとやがて心も調ってきます・・・というように指導されてきましたが、指南書を良く読み解くと、心については注意深く留意点が説かれ、自然に身につくというわけには行きません。

只管打坐の精神を伝える道元禅師の『普勧坐禅儀』には、次のような記述があります。

須く言を尋ね、語を逐うの解行を休すべし。須く、回光返照の退歩を学すべし。諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管することなかれ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ。あに坐臥に拘わらんや。(略)兀兀として坐定して、箇の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり。・・・まずは、言葉の意味を訊き、理屈を追求することを休みなさい。そして、自らを振り返って、照らし見ることも学びである。心を思いめぐらす活動を止め、善し悪しの評価も棚上げして、思い計らいをやめて高い境地を目指すこともしない。これは坐禅だけに限らない。ただ、淡々と坐り、考えをゼロにしたところを考えなさい。そこをどう考えろというのかというと、それは考え(思量)を離れた境地(非思量)と言える。これこそ坐禅で最も大切なことである。

また、道元禅師の教えを受けて、瑩山禅師の『坐禅用心記』には、次のように記されています。

不思善・不思悪、能く凡聖を超越し、生仏の辺際を離却す。故に万事を休息す、及び諸縁を放下し、一切為さず六根作すこと無し。(略)其れ心地を開明せんと欲せば、雑知・雑解を放捨し、世法・仏法を抛下し、一切の妄情を断絶せば、一真実心現成し、迷雲収まり晴れて、心月新たに明らかならん。(略)只箇の坐禅は、一切休歇し、処として通ぜずということ無し、故に家に還って穏坐するに似たり。・・・善悪、凡聖、衆生と仏といった相対的な見方を離れること。つまり、すべてのことを休み、様々なしがらみを離れて心身の作用を止めること。すなわち、(そのような思いめぐらしを断絶すれば)本来の純粋な心を現わすことができる。この坐禅は、一切を休むといってもすべてに通じているのであり、正に自分の家に還ったように、本来の自分を自由に発揮していると言える。

これらは、思いをめぐらす計らいを離れることが調心であることを説くものであり、身を正し息を調えると自然に整ってくるものとは違う努力が要求されます。つまり、坐禅の心への準備、心構えともいえる要素を含んだ調心なのです。

私は、3調の調身・調息・調心は、段階的に考えるものではなく横一線の並列として捉えるべきだと思います。『坐禅用心記』には、一番はじめに調心の説明があり、心構えとして、生活スタイルの注意点などを具体的に示し、調心として大切であることを示しています。

若し妄心を尽くさんと欲せば、須らく善悪の思いを休すべし、又須らく一切の縁務、都来放捨して、心に思無く、身に事無し。是、第一の用心なり。妄縁尽くるの時、妄心、随って滅す。妄心、若し滅すれば、不変の体、現ず、了了として常に知る、寂滅の法に非ず、動作の法に非ず。然して有ゆる技芸・術道・医方・占相、皆、まさに遠離すべし、況んや歌舞・伎楽・諠諍・戯論・名相・利養は、悉く之に近づくべからず。頌詩・歌詠の類は、自ら浄心の因縁たりと雖も、而も好んで営むこと莫れ。文章筆硯は擲下して用いず、是、道者の勝躅なり、是、調心の至要なり。

 

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